浜松の空襲と強制労働の歴史   618浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会

はじめに

 わたしは浜松での空襲の歴史と朝鮮人の強制労働について調べてきましたので、今日はその調査の概略をお話ししたいと思います。

 わたしの母の父はフィリピンで1945年5月に戦死しています。30代になっての2度目の徴兵であり、ミンダナオに動員され、そこで亡くなりました。動員されたのは1942年ですが、太平洋戦争開始のころからすでに兵士が不足し、農家の後継ぎも動員されたのです。政府は戦死者を靖国神社に神として祀っていますが、それは、魂をも国家が奪い、戦争を正当化するものです。父も1945年に北海道の旭川に兵士として動員されましたが、生還できました。そこで死んでいたら、わたしはいないわけです。戦争は次世代の生の可能性を奪うものです。

わたしは戦争とそれを肯定する靖国に反対します。その意味で平和遺族のひとりです。2015年の安全保障関連法の制定に反対する「戦争させない・9条壊すな」の呼びかけに共感し、戦争法廃止と憲法改悪に反対する浜松での総がかり行動に参加しています。

 

●浜松の陸軍航空隊とアジア爆撃

このテーマについては、前回のこの集会でお話ししました。その記録は配布資料に入れました。浜松の陸軍航空部隊は満洲侵略、日中戦争、太平洋戦争と戦争のたびに派兵され、アジア各地で爆撃を繰り返しました。1941年のマレー半島攻撃の際、爆撃隊の飛行第60戦隊が浜松から出撃したように、浜松は陸軍の航空爆撃部隊の派兵の拠点でした。

浜松の陸軍航空部隊は毒ガスを空から撒布したり、爆弾で投下するという研究・訓練をおこなっていました。中国戦線では日本軍機が毒ガスを投下しています。戦争末期には毒ガス戦を担当する三方原教導飛行団という部隊が編成されています。その部隊の遺棄毒ガスによって戦後、市民への被害も発生しました。また、フィリピン戦や沖縄戦では、浜松から特別攻撃部隊が出撃しています。

この浜松の航空部隊によるアジア爆撃や毒ガス研究については、2016年に『日本陸軍のアジア空襲』の形でまとめました。この本では、関東軍731部隊による細菌攻撃についても空からの撒布を中心に記しました。

 

●浜松の空襲の歴史

つぎに浜松の空襲の歴史についてみます。浜松での護憲行進のチラシには6・18浜松大空襲で1700人ほどが亡くなったと記されています。浜松の空襲についてそのような宣伝でいいのでしょうか。わたしたちは被害の実態をきちんと把握できているのでしょうか。この数字には浜松市内以外の死者は欠落しています。また、空襲は1944年11月以降、何次にもわたっています。死亡者数の統計もあります。浜松空襲の死者数については3600人以上と示し、そのうえで時々の死者数を示すべきではないでしょうか。

米軍の戦略爆撃調査団の資料では、浜松地域は90・21番とされ、その範囲は愛知県の岡崎東方から静岡県の掛川付近までとなります。ですから、米軍による浜松空襲の被害地は豊橋・豊川付近から掛川・袋井までをその範囲とみることができます。豊橋・豊川については別途、調査がありますから、少なくとも湖西から掛川までを浜松空襲の被害地として把握し、その実態を明らかにすべきではないかと思います。

そのように考え、米軍戦略爆撃調査団史料の作戦任務報告書や艦載機報告書、地域の空襲調査や市町村史などを照合して、湖西から掛川までの空襲の状況を示す表を作りました。それにより、1944年末から45年8月にかけて、これらの地域での空襲が60次にも及ぶことがわかりました。その表は『浜松・磐田空襲の歴史と死亡者名簿』(2007年)に入っています。

空襲の経過をみてみましょう。1944年11月27日の湖西や磐田などへの空襲は東京の中島飛行機武蔵工場への空襲の際のものです。12月13日の空襲は名古屋の三菱のエンジン工場を目標とするB29の一機が浜松の工場を爆撃したものです。1945年1月にも数機による空襲がありました。名古屋の船渠や三菱航空機工場、東京の中島飛行機武蔵工場、兵庫の川崎航空機明石工場などへの爆撃の際に浜松を空襲しています。主な目標のひとつが航空機エンジンを生産する中島飛行機浜松工場でした。

1945年2月15日、三菱航空機名古屋発動機工場への空襲の際、浜松への空襲がありました。2月16日・17日には艦載機による浜松・三方原などの陸軍飛行場への空襲がおこなわれました。これは硫黄島攻略にむけての本土飛行場への攻撃でした。2月25日には東京空襲の際に浜松への空襲がありました。

4月30日の浜松空襲では900人近くの市民が亡くなりました。同日、磐田も爆撃されています。この空襲は浜松を目標としたものでした。米軍の爆撃用目標地図があり、その中心は日本楽器です。この工場は野口町にあり、プロペラを製造していました。

5月19日の空襲は浜松・磐田・福田・掛川と広範囲にわたるものでした。この日の空襲は立川の陸軍航空工廠とともに浜松が目標でした。死者は600人近いものです。浜松市内での死者は330人ほどですが、市周辺、磐田などへの空襲の状況についても調べると、被害状況がより明らかになります。

このような空襲を経て、6月18日の浜松大空襲となります。燃焼弾中心の空襲が大都市から中小都市へとすすみ、浜松は中小都市としては最初の攻撃を受けました。都市を焼き尽くすという空襲でした。約100機のB29が浜松市街に燃焼弾6万5000発を投下したといいます。わたしは焼夷弾という用語は使わずに燃焼弾と表記しています。

浜松は爆弾のゴミ捨て場であったという俗説がありますが、浜松は陸軍航空部隊の拠点であり、航空用エンジン・プロペラなど軍需生産の拠点であったのです。それが米軍による空襲をもたらしたのです。6・18空襲では浜松市内で1700人以上が亡くなり、豊田・掛川方面でも空襲がありました。

7月24日から26日にかけて新居から掛川にかけて飛行場などへの艦載機による攻撃がありました。7月29日には遠州灘からの艦砲射撃がなされたのです。2160発という艦砲射撃により、市民200人ほどが亡くなりました。浜松への艦砲射撃はこの一回だけです。なお、7月26日には浜松市の将監町に原爆と同型の爆弾が投下されました。浜松への空襲は8月7日に豊川海軍工廠が空襲を受けた際での都田への空襲まで続きました。

磐田・湖西など周辺地域を含め、浜松地域への空襲により亡くなった人々の数は3600人を超えます。わたしはその氏名を『浜松・磐田空襲の歴史と死亡者名簿』の形でまとめました。静岡県西部出身で豊川の海軍工廠での空襲で亡くなった人々を加えると3900人を超える数になります。

一人ひとりの失われた生命の地平から、数値ではなく具体的な氏名から、空襲をとらえなおし、それを批判していきたいと思います。浜松からの陸軍部隊によるアジアへの空襲という加害の歴史にも想像力を働かせるべきと考え、浜松の空襲死者を集約する前に、浜松の部隊による空襲の歴史を調査し、その後、浜松関係の空襲死者名簿を作成しました。名簿には墜落死した米兵の氏名も入れました。

5月19日空襲での名簿をみれば、爆撃により神立町の一家が自宅で大きな被害を受けたことがわかります。氏名と年齢をみれば、磯部いそ81歳、練作57歳、いと51歳、はつえ27歳、くにえ20歳、幸子15歳、尚代5歳、享久3歳、幸代1歳です。その痛み、悲しみは語りきれないものです。そのような事例が数えきれないほどあるわけです。

この死亡者名簿作成の際の主な史料は、浜松市所蔵の「戦時災害による弔慰金支給領収綴」と浜松市戦災遺族会所蔵の戦災死者調査票による名簿です。磐田分は磐田市が把握しているものを情報公開請求で入手しました。

 

●浜松の戦争遺跡

浜松は、陸軍航空の軍都となり、派兵の拠点となりました。また、戦時には軍需工場への転換がすすみました。それらへの空襲がおこなわれ、戦争末期には燃焼弾による市民の殺傷を目的とする攻撃になりました。

浜松の戦争遺跡は、浜松陸軍航空基地関係と浜松空襲関係の2つの遺跡に分類できます。

『浜松の戦争史跡』(2005年)では、浜松市内各地の戦争遺跡の状態を写真とともに紹介しました。『静岡県の戦争遺跡を歩く』(静岡県戦争遺跡研究会・2009年)に、浜松陸軍航空基地と浜松空襲の遺跡について記し、関連遺跡の地図を入れました。また、『浜松の戦争遺跡を探る』(静岡大学生涯学習センター・2009年)には、わたしの報告「浜松の戦争遺跡」が掲載されています。それらを参考に現地を歩けば、当時の状況を追体験できると思います。

ここでは、陸軍中野学校二俣分校と沖縄戦について話します。陸軍中野学校は諜報戦を担う人材を育成したところです。その分校が静岡県の浜松の北方の二俣に1944年8月に設立され、ゲリラ戦(遊撃戦)の教育がなされました。

1945年1月、沖縄の32軍司令官室に中野学校と二俣分校出身者が集められ、離島での残置工作のための派遣が指示されました。沖縄本島のほか、粟国島、久米島、多良間島、黒島、波照間島、与那国島に派遣して残置諜報活動をおこなうよう命じられたのです。かれらは偽名を使い、国民学校の訓導や青年学校の指導員になりすまし、現地で妻も得て人びとを監視し、ゲリラ戦の準備をしました。

陸軍中野学校二俣分校の記録『俣一戦史』(1981年)には、久米島に派遣された上原敏雄の本名だけが「某」とされています。なぜ、彼の名だけが「某」と伏せられたままなのかは不明ですが、彼の名は竹川実といいます。2010年に『久米島の戦争』(久米島の戦争を記録する会)という本で、久米島出身の女性たちが本名を明らかにしました。竹川は国民学校の訓導となり、久米島で妻も得て、スパイ活動を行いました。戦争が終わると、久米島を離れ、関西で小学校の校長となり、亡くなりました。

久米島ではこの島に配置された海軍部隊による住民虐殺事件が起きています。朝鮮人と沖縄人が共に暮らす一家も子どもも含め全員が殺されました。現地には追悼碑(天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨之碑)が建てられています。

 

●戦争と朝鮮人強制労働

さて、つぎに戦争と強制労働について話します。軍需生産がなければ、戦争をすすめることができません。日本軍は多くの青年を兵士として戦争に動員しましたが、炭鉱・鉱山、港湾、軍需工場などで労働力が不足しました。そこで日本政府は労務動員計画をたて、朝鮮半島から日本へと朝鮮人を動員しました。この労務動員は1939年から45年にかけてです。それを朝鮮人強制連行(強制労働)と呼んでいます。

朝鮮人の強制労働については、その動員数、動員場所について不明の点が多くありました。そこで、最初に『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』で動員場所、動員地図、死亡者について、2007年にまとめ、2015年に改訂版を出しました。それにより、日本各地および周辺海域での朝鮮人死亡者約1万人の氏名を明らかにしました。つづいて2012年に『戦時朝鮮人強制労働調査資料集2』で動員名簿、未払金、動員数、遺骨についてまとめました。

静岡県や全国各地の動員現場を歩いての現地調査もすすめてきましたが、その調査については、『調査・朝鮮人強制労働』の形で、2013年から15年にかけて、@炭鉱、A鉱山・財閥、B発電工事・軍事基地、C軍需工場・港湾の4巻にまとめました。

その作業の中で、日本への朝鮮人労務動員数を約80万人、軍人軍属による戦争動員を約37万人としました。

労務動員数を確定する根拠となったのは、当時の内務省警保局の「労務動員関係朝鮮人移住状況調」です。1939年から1943年12月までに約49万人が動員されたことがわかり、1944年には29万人の動員が予定されていました。他の史料からこの年の動員は執拗なものであり、同数が動員されたことがわかります。内務省警保局の史料から、都道府県ごとの朝鮮人動員数をほぼ確定できました。

朝鮮人軍人軍属については外務省と厚生省の史料から37万人とすることができます。厚生省は日韓会談がすすむなかで朝鮮人軍人軍属数を24万人としましたが、この数値は名簿が残っている動員者の数であり、ほかに名簿がない動員者10数万人が存在することを、引き揚げ関係資料から明らかにしました。

浜松にも、久根鉱山、峰之沢鉱山、鈴木織機、日本通運浜松支店、国鉄浜松駅などに朝鮮人が動員されました。久根鉱山、峰之沢鉱山での動員数は計1000人ほどであり、名簿もあります。鈴木織機と日本通運浜松支店に連行された朝鮮人の名簿もあります。峰之沢鉱山には中国人も強制連行されています。軍人軍属の形で動員されていた朝鮮人もいます。磐田では、農耕隊として動員された朝鮮人もいます。その名簿があります。

これらの動員については『調査・朝鮮人強制労働』のA鉱山・財閥と同書のB発電工事・軍事基地に詳しく書きました。

 

●明治日本の産業革命遺産での歴史の歪曲

政府は今年2018年を「明治150年」と宣伝しています。明治日本の産業革命遺産はその宣伝の中心になっていますが、この産業革命遺産は武士による産業化を賛美するものであり、労働や国際関係の面はみようとしないものです。

日本の産業革命は日清・日ロの戦争、第1次世界戦争を経て確立しますが、この産業革命遺産は1880年代から1910年代までの九州・山口の産業遺産を集め、萩の城下町や松下村塾を起点に産業化の物語をつくりあげるというものです。日清戦争による賠償金で八幡製鉄所ができ、中国や朝鮮からの鉄の収奪で稼働していくわけですが、その説明はありません。

この産業革命遺産の八幡製鉄所・長崎造船所・高島炭鉱(高島・端島)・三池炭鉱では、戦時下、朝鮮人などの強制労働もあったのですが、明治と括ることにより、戦時の強制動員の説明はありません。戦時下、それらの施設に朝鮮人は約3万人動員され、中国人は約4000人、連合軍捕虜は約5000人が動員され、労働を強いられました。

ユネスコの設立の理念は人権と平和のための人類の知的・精神的連帯です。ユネスコの世界遺産はそのためのものです。他国への加害を見ない、自国の産業化の賛美と観光のための世界遺産の宣伝が普遍的な価値形成につながるといえるでしょうか。日本政府・安倍政権はこの明治産業革命遺産の登録を官邸主導ですすめましたが、それは、首相案件とされ推進されたのです。

韓国は明治産業革命遺産に対し、強制労働の現場があるとして、この登録を批判しました。2015年7月、世界遺産登録の登録にあたり、韓国側に配慮して、日本は朝鮮半島出身者等が意に反して連れてこられ、働かされたと発言しました。しかし、その後、働かせたが、強制労働ではないとしました。2017年末の日本の報告書では、戦前・戦中・戦後と朝鮮半島出身者が産業を支えたとしています。ユネスコ側は全体の歴史を記すように勧めていますが、日本政府の対応はこのようなものです。

韓国では2017年7月に映画「軍艦島」が公開されましたが、それはフィクションであり、軍艦島での解放を求めての銃撃戦なども挿入されています。これに対し、世界遺産登録を官邸とともに進めてきた産業遺産国民会議は、元端島島民の会の声をまとめる形で、「軍艦島は地獄島ではない」「仲の良いコミュティ」という宣伝を始めました。映像を制作し、アップしています。このような見解が政府の見解とされようとしています。

「端島で強制労働はなかった」という宣伝が強化されています。しかし、動員された朝鮮人や中国人の証言があります。動員された人々からみれば、暴力で労働を強いられ、逃亡のできない島であり、地獄や監獄のような場であったのです。それを否定しようとしているのです。産業革命遺産をめぐるあらたな歴史の歪曲です。

『明治日本の産業革命遺産・強制労働QA』(2018年)はこのような問題について記したものです。戦争の歴史を批判的にとらえ、加害の歴史を明らかにすることは反日でも自虐でもなく、人間の尊厳と正義を実現することです。それは人間が大切にされる社会を作るために必要なことです。米軍空襲の歴史調査は反日や反米のためではなく、平和と人権の確立にむけてのものです。強制労働の問題も同様です。

 

おわりに

航空自衛隊浜松基地への鳥取県美保の教育飛行隊(T400)の移転問題が2017年に起きました。この移転は、山口県の米軍岩国基地の極東最大の基地への強化、その支援にむけての空自美保基地への空中給油機の配備、それにともなう美保からの教育飛行隊の浜松移転です。自衛隊は水陸機動団を佐世保に配備しました。与那国・宮古・石垣では自衛隊のミサイル部隊の配備がすすみ、沖縄の辺野古での米軍基地建設での埋め立てが強行されようとしています。これは朝鮮だけでなく、中国を仮想敵としての配置です。

このような東アジアでの軍事緊張を高める配置が本当に必要なのでしょうか。

浜松地域には、空襲での3600人の市民の死という軍事基地・軍需生産の拡大、戦争・派兵の拠点化にともなっての歴史があります。地域の歴史的体験をとらえ直し、被害と加害、そして戦争に反対した抵抗の歴史から学ぶべきでしょう。戦争時の強制労働という植民地支配のなかでの加害も忘れてはならず、その過去の清算に向かうべきです。

遠州教会の松本牧師は浜松での1962年の自衛隊の軍事パレードに「戦争準備絶対反対」のプラカードを掲げて抗議しました。それが、昨年600回を迎えた浜松市憲法を守る会の平和行進の始まりです。今、安倍政権による憲法改悪の動きが強められています。森友・加計問題のように国家の私物化がこれほど明らかになってもやめようとしません。

しかし、2018年、南北首脳会談・米朝首脳会談が開かれました。朝鮮半島での戦争を終わらせる、同じ民族同士で殺しあわないという思いは、2017年のソウルでのキャンドル革命となり、東アジアでの平和形成の原動力となっています。きょうのわたしたちの浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会も、そのような動きに呼応するひとつのキャンドルだと思います。ともに力を合わせて、よき日をつくりましょう。                       (竹内)

                                                                   

(第31回6・18浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会・2018年6月18日遠州教会での講演に加筆)