2018年サハリンの旅 サハリン残留朝鮮人関係碑

 

 20188月、サハリンを訪れ、ユジノサハリンスク、コルサコフ、ホルムスクなどを歩いた。サハリン(南部)は1905年から45年にかけて、日本の植民地になった。戦時には、植民地朝鮮からサハリンに動員された朝鮮人も多かった。日本の敗戦によって、日本人は帰還することになるが、その際、日本は朝鮮人を帰国させず、置き去りにした。今回の旅ではそのような戦時動員と棄民の歴史を示す朝鮮人碑を訪ねた。

 

 ●ユジノサハリンスク・サハリン韓人文化センターの碑

 ユジノサハリンスクは日本統治期には豊原と呼ばれ、樺太庁舎がおかれていた。ユジノサハリンスクは現在、サハリン州の州都となっている。

ユジノサハリンスクには、朝鮮人も居住し、サハリン韓人文化センターがある。韓人文化センターは2006年に、日本政府の財政支援により、韓国・ロシア政府の協力も得て、建設された。場所は、ユジノサハリンスク駅の北東方向、ミーラ通りとサハリンスカヤ通りの交差点から北のプロスペクトミラ 83-Aにある。サハリン州韓人会がセンターを運営している。

 このセンターの前にサハリン犠牲死亡同胞慰霊塔とサハリン韓人二重徴用坑夫被害者追悼碑がある。サハリン犠牲死亡同胞慰霊塔は199210月に、サハリン韓人二重徴用坑夫被害者追悼碑は20077月に建てられた。

サハリン犠牲死亡同胞慰霊塔には、日本帝国主義の弾圧により倒れ、家族と再会できなかった無名の同胞を追悼し、その冥福を祈る旨が記されている。

サハリン韓人二重徴用坑夫被害者追悼碑には、二重徴用の歴史と建立の趣旨が記されている。そこには、日帝は朝鮮の農民を本人と家族の同意なく徴用し、サハリンの炭鉱で苦しい労役をさせた。戦争末期にはサハリンから九州・本州などに分散させ、二重徴用した。坑夫たちは、地獄のような労役場で墓もなく死に、逃亡した者もいる。墓には表示がなく、探すことができない。日本はいまも反省せず、被徴用者の名簿やその数を明らかにしない。その子孫は、苦しみ、亡くなった人びとの思いを受け、人類の生存を脅かす残酷がふたたび起きないことを願い、碑を建立するとある。

また、日帝の侵略戦争により労役を強いられ、青春を傷つけられ、異国万里の地で祖国と肉親を思い亡くなった霊たちよ、静かにお眠りください。この地に子孫として生き残った私たちは、あなた方の苦しい抑圧の時間を決して忘れず、自由と平和の価値を教えていく。当時の犠牲はいまでは世界の光となる。子孫として誇りを持ち、生きていくと、建立の決意が記されている。

この追悼碑の横には解説碑がある。そこには、日本の強制労働による朝鮮人被害者3190人のために碑を建てた。かれらは朝鮮からサハリンに連行され、さらに1944年に日本政府による二重徴用計画によって日本の炭鉱に送られた。多くが行方不明となり、家族の元に戻ってこなかったと刻まれている。

日本が樺太での炭鉱開発を本格的にすすめたのは1930年代に入ってのことである。1941年には650万トンが生産され、400万トンが輸出された。戦争末期に輸送が困難になると、樺太の産業用炭鉱を除いて炭鉱を整理・閉鎖し、日本人坑夫4000人、朝鮮人坑夫3000人、荷役労働者2000人の計9000人を・州・常磐方面へと転送する計画を立てた。転送された朝鮮人坑夫数は3000人を超え、解放後にサハリンに戻ることができず、家族の離散を強いられた者も多かった。

二重徴用坑夫被害者追悼碑はそのような歴史を物語るものである。

 ●ユジノサハリンスク・第一共同墓地の朝鮮人墓

 ユジノサハリンスク駅前のレーニン通りを南に3キロほど先、ブルカーエフ通りとの交差点にオベリスクがあり、その先に共同墓地がある。墓地に入ると、右側に朝鮮人合同追悼碑がある。

墓碑には、祖国に忘れられ 時代に翻弄され、歴史の悲劇を全身で耐えて生きてきた歳月、苦難に満ちた生にも、涙は年月と共に乾き、苦痛の夜にも夜明けは明るい。苦痛を乗り越えて往生した道、生命の尊厳を失わずに生きる。今ここに埋められた、どうか、忘れないで。記憶しない者に歴史は何も教えないと、追悼の言葉が記されている。

裏面には、日帝強占期、サハリンに連行され、残酷な強制労役に苦しんで、解放を迎えたが、故国に帰ることができないまま、この地に捨てられなければならなかった。いつか故郷に帰るという信念を、最後まで失わなかったサハリン韓国人の悲しい歴史がここに立ちこめている。歴史に抑えつけられ、祖国に忘れられ、時代に翻弄されて生きてきた歳月の荘厳さよ。苦難を越えて往生した彼らの足音が聞こえないか。胸深くおさめてきた故郷の住所を、冷たいこの石のなかに刻んで眠った者たちの名。民族史の川の流れのなかを草の葉のように浮き沈み、全身で生きた彼らを記憶し、この碑を建てると、記されている。

この碑は、20158月に社団法人・釜山わが民族助け合い運動によって建てられた。碑文は韓国の作家韓水山による。毎年、追悼会がもたれている。同運動は日帝強占期サハリン徴用犠牲者追悼館の建設もすすめた(20188月末開館)。

サハリンから韓国への帰還は日本の無策と冷戦の対立のためできなかった。815解放から50年を迎えようとする1994年、日韓で合意が結ばれ、1997年から2015年の間に、1世世代のうち約3000人が韓国に帰還した。しかし、帰還前に亡くなった人も多かった。

共同墓地にはロシア人だけでなく、朝鮮人の墓も多い。特に日本人共同墓の周辺には朝鮮人の個人墓が集中している。1920年代前後に生まれた人びとのものも多い。1940年には20歳ほどになり、そのなかには日本の強制動員政策により、サハリンに連れてこられた人も多かっただろう。

墓碑には名前や生没年が刻まれている。そこから一人ひとりの知ることのできない物語を見つめる。植民地期の移民、強制労働の苦闘、無国籍とされた中での生活、監視、望郷の念、愛と死・・。そのような歴史の物語のいくつかは記録されてはいるが、墓碑は知ることのできない多くの歴史があることを教える。

 

●共同墓地の木製墓碑

共同墓地を歩いていると入口の右方でひとりの男性にあった。名前を金イムハクという。聞くと、1945年生まれの70歳、父の金チョルセの墓を探しに来たという。父は鐘渕の炭鉱で働き、日本にも送られ、帰国した。その後、ソ連警察に逮捕されこともある。父は、わたしが9歳の時、1955年に亡くなった。母がこの近くに墓を作った。木の柱を立てたが、入り口が見えるところだった。2009年に慶尚南道の金海に帰還したが、夏には子どもたちがいるサハリンに来る。50年ぶりにこの墓地に来た。カバンから黒い鉢巻形の布を出し、父の墓を探したいと語った。

墓地を歩いていると、金さんは、突然、背丈ほどのフキが茂る場所をかき分けて進んだ。そして、墓地群のなかから、墓碑の木柱を探し当てた。もう一つあったはずと付近を探すと、朽ち果てて倒れた木柱があった。さらに入口近くで一つの木柱を発見した。木柱は4枚の木を組み立て、正面に名前を記した金属板を付けたもののようだった。当時はこのような木柱を墓碑としたのだろう。父の墓碑を探す強い思いが木製の墓碑を発見したのだった。墓地の駐車場には、イムハクさんの娘さんが子どもとともに父の帰りを待っていた。

残留朝鮮人のうち1世世代3000人が韓国に帰還したが、家族をサハリンに残したものも多い。子どもたちはロシア国籍を取り、ロシアの文化で学ぶものが多い。帰還しても家族の墓はサハリンにある。日本による棄民と冷戦による分断、解放後、50年を経ての帰還が、新しい離散を生むことになった。

 

●コルサコフ・離散朝鮮人犠牲者追悼碑

コルサコフはユジンサハリンスクの南方の港町である。北海道からのフェリーも寄港する。かつては大泊町と呼ばれていた。

コルサコフの丘からは埠頭が見える。右方が北埠頭、左方が南埠頭であり、南埠頭の方が古い。ここは望郷の丘と呼ばれ、離散朝鮮人犠牲者追悼碑がある。碑は2007年に建てられ、日本軍国主義によって離散を強いられた朝鮮人犠牲者を追悼する旨が記されている。

副碑には建立の思いが記されている。ロシア語の碑文を要約すると、故郷から4万人が移住を強いられ、激しい労働をさせられた。故郷に戻りたかったが、日本は放置した。ソビエト政府も放置し、韓国政府も忘れた。迎えに来る船を待ち、吹雪の中も故郷を思う人々の嘆きは聞こえた。子孫はこの地でタンポポの種が発芽するように、育ち、生活した。この地の人々の魂は、鳥のように南の空を飛ぶと記されている。韓国語の詩には、祖国解放により、帰国の船を待ち望んだが、船は来なかった。子孫たちはこの地で生きてきた。同胞・犠牲者を追悼し、望郷の丘に碑を建てるとある。

日本の敗戦により、植民地朝鮮は解放されたが、日本は日本人のみを帰国させ、米ソ対立のなかで、ソ連と韓国の国交はなく、韓国への帰国の道は閉ざされた。ソ連崩壊後、ロシアと韓国との国交が結ばれ、解放後、50年を経て、韓国への帰還がすすんだ。この碑はそのなかでの離散と追悼、望郷の思いを象徴するものである。

碑は、金属製の船を直立させた形であり、迎えに来なかった船を示すものという。帰還できなかった歴史を示すものである。上部の船の舳先は欠けているが、銀の金属色は復元しようとする意志を示すようでもある。

その銀色の輝く形象は、どれほど国家が人びとの望郷と連帯の意思を削ろうとしても、人びとの魂はその意志の実現に向けて、気高く、誠実に歩み続ける、そのような思いを語っているような印象を受けた。

 

ポジャルスコエ・瑞穂朝鮮人虐殺事件追悼碑

ユジノサハリンスクの西方、サハリンの山々を超えるとホルムスクという港町がある。日本統治下では真岡町と呼ばれた。真岡から東へ約40キロ、真岡郡清水村に瑞穂という集落があった。現在の地名はポジャルスコエという。かつては豊原方面から真岡を結ぶ豊真線が走っていたが、その沿線である。豊真線は1928年に開通したが、この工事でも多くの朝鮮人が働いた。

1945820日、ソ連軍は港湾拠点の真岡に上陸した。上陸の動きのなかで、瑞穂では在郷軍人を中心に朝鮮人虐殺事件が起きた。8月20日から23日にかけて、27人の朝鮮人がスパイとみなされ、殺されたのである。

 

瑞穂を通る幹線道路近くの丘に瑞穂朝鮮人虐殺事件の追悼碑がある。碑が建てられたのは、事件から51年後の1996年8月である。碑には、ロシア語で日本の侵略者によって殺された無実の27人の朝鮮人を追悼して碑を建立したことが記され、朝鮮語で、「韓国人犠牲者27人追念碑」と刻まれている。

碑の裏側には、1945年8月に、ソ連軍への協力と日本人への被害の可能性という理由で韓国人27人が虐殺された、その天人共怒の蛮行を記憶し、犠牲同胞を慰霊するために碑を建てる、過去を記憶し、戦争のむなしさを悟り、人類平和を願い、犠牲者の冥福を祈ると記されている。この碑の建設は海外犠牲同胞追念事業会によるものである。

この事件を明らかにしたのは、戦後、この地区で教員を務めたコンスタンチン・ガポネンコであり、日本版は「樺太瑞穂村の悲劇」の題で、2012年に出された。原著は1993年の刊行である。瑞穂での虐殺事件調査の報道を知った林えいだいはサハリンを訪問し、ガポネンコから資料を提供され、1991年に「証言樺太朝鮮人虐殺事件」を出した。それにより、事件への関心も高まり、ガポネンコの書作の発刊となった。それをふまえて2006年には、崔吉城が「サハリン瑞穂村の朝鮮人虐殺事件」を書いた(のち「樺太朝鮮人の悲劇」2007年に収録)。

これらの調査により、この事件の実態を知ることができるようになった。加害者の名前や出身地、殺害状況は判明したが、殺された朝鮮人の名前の多くが不明である。手掛かりとなる創氏名などをあげれば、夏川正夫、農夫(50歳ほど)、平山、松田、山本、丸山と妻・子ども(12歳ほど、11歳、6歳、4歳)、丸山の下で働く2人の男、大浦島飯場の7人の男、女性(50歳代)、子ども(13歳・11歳)。

このように本名は不明のままであるが、このなかには、真岡在住で預けた家財を8月19日に取りに行き、消息を絶ったままの金英哲(中川)、義弟の金官三、吉田の3人がいるという(朴亨柱による)。

ガポネンコはこの虐殺事件について、野間宏の「真空地帯」を引用しながら、日本軍隊内での人間の尊厳の剥奪と服従の形成が、このような虐殺事件の背景にあると指摘している。自らの尊厳を失ったものたちが、他の民族の尊厳を侵すことを自制できず、「殺せ、殺せ」と朝鮮人狩りをおこなったのである。

南サハリンの北方にある上敷香(レオニドポ)でも、朝鮮人をスパイとみなし、1945年8月18日に、警察署内で18人が虐殺される事件が起きた。上敷香には、この事件での犠牲者を追悼する碑がある。碑は父の金慶白と兄の金貞大を殺された金景順さんが19929月に建てたものである。

 

●ユジノサハリンスク州公文書館の豊原警察署文書

ユジノサハリンスク州公文書館はジェルジェンスキー通りとロジェストベンスカヤ通りの交差する場所にある。

ここには豊原警察署や王子製紙の文書が収集されている。特に警察署文書からは特別高等警察による朝鮮人の監視状況を知ることができる。労務動員初期の募集による北海道や日本各地での逃亡者の手配書などもある。それは、当時の動員が自由なものではなく、逃亡とされ、全国手配されたことを示すものである。ここで収集された警察文書は、長澤秀編「樺太庁警察部文書 戦前朝鮮人関係警察資料集」にまとめられている。

今回は、この館で、1920年の国勢調査の分析本を収集することができた。ロシア側による文書の分析はこれからのようだった。

文書館の樺太庁文書については、井澗裕「資料サハリン州公文書館の日本語文書」2003、竹内桂「国立サハリン州文書館所蔵樺太庁豊原警察署文書に関する若干の考察」2006などの論文があり、ネット上で見ることができる。時間をとり、ゆっくりと閲覧したい文書群である。                        (竹内)