2018年 小田山墓地と真岡炭鉱での追悼集会

●小田山墓地

2018年9月16日、北九州市の若松にある小田山墓地の「朝鮮人遭難者追悼慰霊碑」で追悼集会がもたれ、50人ほどの市民が参加した。市民による追悼集会は1990年から始まり、今回で29回目となる。集会に先立ち、近くの若松バプテスト教会などで講演会がもたれてきた。

小田山の追悼碑は1945918日の夜、台風により、若松沖で遭難した100人余を追悼するものである。若松の海岸に漂着した遺体のうち、約80体が小田山墓地に埋葬された。

碑の前では、追悼の演奏がおこなわれ、福岡の民団と総連の代表が追悼の言葉を述べた。民団の代表は父が長崎の香焼炭鉱に、総連代表は父が福岡の麻生炭鉱に動員されたとし、解放後に帰国できなかった人びとへの思いを語った。若松区長からも追悼の言葉が寄せられた。その後、市民による追悼文が読まれ、献花がなされた。

市民の日本語と韓国語の追悼文には、日本人として歴史への反省をする旨が記されている。市民との交渉の末、北九州市による追悼碑が1990年に建てられた。碑文には「強制連行」の文字も採用されたが、歴史への反省は記されなかった。追悼会で市民が読む追悼文の反省の文字は、碑に刻めなかった言葉である。それは、反省のないまま自らに都合よく歴史を書き換えていく今日の動きへの警鐘となっている。

若松の高塔山からは北九州の工業地帯が一望できる。この軍需工場や港湾などに、戦時中、朝鮮人が多数動員された。追悼集会の実行委員会が作成した冊子「小田山墓地・朝鮮人遭難の碑」には、若松での動員状況を示す地図も収録されている。それによれば、若松港沿岸に石炭荷役労働者(ごんぞう)が集住したこと、北湊に朝鮮人集落ができたこと、二島に日炭高松の朝鮮人長屋があったこと、石峰山の高射砲台建設で朝鮮人3人が亡くなったこと、陣地道路工事で朝鮮人が私刑で亡くなったこと、日鉄八幡構内から枝光までの道路工事に連行朝鮮人が動員されたこと、八幡製鉄構内で朝鮮人労働があったこと、高塔山の麓に帰国碑「朝日親善平和の塔」が建設されたことなどが示されている。

若松の町には、石炭会館、古河、三菱の古い建物が残っている。火野葦平記念館があり、戦前に玉田組を継いだ葦平が、石炭荷役労働者の労働組合を結成したことなども記されていた。若松を歩き、民衆の視点から歴史を学びたいと思った。

●真岡炭鉱

 2018917日、田川郡糸田町にある真岡炭鉱第3坑殉職者の追悼碑の前で、追悼集会がもたれ、40人ほどが参加した。少数であっても人権と人間の解放の視点から、地域住民独自の追悼会が続いている。

事故は1945917日に起きた。台風のなか、坑内の電源スイッチを切るために入坑した16歳の朝鮮人少年が戻らず、助けに行った3人の日本人も亡くなった。坑内ガスが原因とされる。1981年に追悼碑が建てられたが、朝鮮人少年の名は不明であった。2009年に姜相求と名前がわかり、遺族も見つかった。碑には新たにその名前が刻まれた。厚生省勤労局名簿に福岡県分に真岡炭鉱の名簿があり、そこに記されていたのである。強制連行された年月日も判明した。

追悼集会では、追悼する会の樋柴さんが追悼活動の経過を話し、地域の住民が思いを語った。そして韓国の民族打楽器の演奏や追悼歌が歌われ、フィールワークで訪れた千葉大学の学生が献花した。

打楽器はケンガリ、チン、チャング、プクで構成され、ケンガリの高音に続いて、太鼓のプクが低音で追う。そこにチャンゴが音を重ね、チンの鐘音が交わる。演奏は次第に高揚し、立ちあがり、踊る。この大地に下で眠りを強いられた者たちに、覚醒を求めるように音が響き、最後は、声なき者たちが無念の思いを放つかのように打楽器の音が交差した。参加者はその音を聞きながら、追悼の思いを新たにした。

 

追悼集会の途中、小倉炭鉱の追悼碑、日鉄二瀬炭鉱の事故碑などもみることができた。日鉄二瀬炭鉱の変死者の碑は1903年のガス爆発による64人の死者の碑である。裏側に死者の名が刻まれ、女性の名もある。「明治日本の産業革命」はこのような人びとの地平から語るべきであると思う。
                        (竹)