朝鮮三・一独立運動の史跡を歩く

 

独立と民主を求めた人びとの墓地を抜けて、風が市街に吹く。人びとが求めたものは、分断と独裁ではない。風は、自由と平和、統一と民主を呼びかける。その風に応え、キャンドルが揺れ、旗がなびく。

朝鮮31独立運動から100年、31運動の跡地を歩き、展示を読む。先人の思いにふれて、新しい時代を構想する。

これまで見たものを「朝鮮三・一独立運動を歩く」の形でまとめた。

 

1 ソウル タプコル公園  孫秉煕像と31運動の10枚のレリーフ

 

タプコル公園はソウルの鐘路区にある。当時はパゴダ公園と呼ばれ、ここで学生が191931日に独立宣言を読みあげ、デモが始まった。この3月のソウルでの独立宣言とデモは、全国各地で独立を求める運動を起こし、4月の上海での大韓民国臨時政府の設立など、その後のさまざまな独立闘争につながっていった。満洲での義烈団の結成も191911月のことである。

公園に入ると正面に孫秉煕の像があり、右手に独立宣言書を刻んだ大きな碑がある。

孫秉煕は独立宣言文の筆頭署名者であり、天道教の教主だった。孫が東学の名を天道教に変えた。孫は忠清北道の清州の出身であり、東学農民軍を率いて日本軍と戦ったこともある。31運動により、西大門刑務所に投獄されるが、翌年、病気のために保釈され、1922年に監獄生活の後遺症で亡くなった。

 公園には10枚のレリーフがある。順に、191931日のソウル・パゴダ公園、32日の咸鏡道の咸興、31日の平安南道の平壌、310日の黄海道の海州、同日の江原道の鉄原、415日の京畿道水原の堤岩里、4月1日の忠清南道天安の並川、323日の慶尚南道の晋州、43日の全羅北道の南原、323日の済州島と、朝鮮各地での運動の様子が示されている。

植民地朝鮮では憲兵警察制度が導入された。日本の占領により、朝鮮民族の権利は奪われ、軍の直接支配による統治がはじまった。それは監獄のような状態だった。しかし、自由と独立への思いを消すことはできなかった。その思いは31独立運動の全国的展開となった。

 その1か月ほど前、東京YMCAを会場に朝鮮の留学生が集まり、2・8独立宣言が出された。それは日本の詐欺と暴力、欺瞞を鋭く批判したものだった。東京のYMCAの入口にはそれを記念する碑がある。

いまでは、韓国の国史編纂委員会のウェブサイトで「韓民族独立運動史資料集」に収録された三一運動関係者の尋問調書(日本語)や検挙された人びとの顔写真などが公開され、閲覧することができる。

 

 

2 ソウル駅前 姜宇奎の像

 

ソウル駅前に2011年、姜宇奎の像が建てられた。姜宇奎は1919年の3月から6か月後の9月、赴任した斎藤実朝鮮総督にむけて、この地で手榴弾を投げた。

 姜宇奎は1855年ころに、平安南道の徳川で生まれ、洪原に移り、キリスト教の小さな学校をつくった。抗日団体の新民会にも加入した。韓国併合後に、満洲の饒河県の朝鮮人集落、新興洞に移り、私立学校をつくった。

 31運動のニュースは、34日には姜の住む新興洞にも伝わり、デモが起きた。運動への弾圧の報が伝わると、姜は3月末、ウラジオストックを拠点とする老人同盟団に加入し、「闘いはこれから」の決意を固めた。姜はこのとき60代半ばだった。姜は、独立精神を吹き込むためには、必殺の衝撃が必要と考え、手榴弾を入手し、6月に元山に移動、8月にソウルに入り、南大門駅(現在のソウル駅)近くで、動静を伺った。

 19199月2日、新しい総督、斎藤実が特別列車で南大門の駅に到着した。姜は馬車に乗った斎藤をめがけ、手榴弾を投げた。しかし、総督は無事だった。姜は捕えられ、死刑判決を受け、192011月に西大門刑務所で処刑された。

 姜宇奎は尋問で、日本は不義をもってわが国を併呑したが、それは世界人道が許さないものである。どうしてあなたたちの奴隷として服従できよう。海外を放浪し、宗教・教育事業に従事し、人心を啓発し、人材を養成し、祖国光復を図ったが、死をもって止む決心だった。日本に朝鮮を支配する能力はない。特に同化などは痴夢に等しい。斎藤は、天の意、人の心を顧みず、軽率にも朝鮮に赴任し、東洋平和を攪乱し、野蛮人の頭目となり、不倶戴天の怨讐となった。わたしが斎藤を殺害しようとした理由はここにあると語ったという。

 31独立運動への弾圧のなか、姜宇奎の朝鮮独立と東洋平和への思いは、命を懸けた行動をもたらした。像はその思いを伝える。

 

3 ソウル 西大門刑務所歴史館

 

 西大門刑務所歴史館がソウルの西大門区にある。ここは31運動をはじめ、独立運動者が収容された場所である。この刑務所は歴史館として整備され、1998年に開館した。

この歴史館には日本統治下での独立運動弾圧の状況が展示されている。ここは、かつては京城監獄と呼ばれていた。建設は韓国併合の前の1908年であり、義兵闘争が盛んだった頃である。解放後にはソウル刑務所(のちに矯導所、拘置所と名称変更)として使われ、民主化運動者を収監した。

入口部分では、塀と望楼が保存されている。正面の中央舎は展示館とされ、2階には民族の抵抗運動や刑務所の変遷が展示され、壁棺や独房なども再現されている。地階には拷問室が展示されている。

獄舎の11号、12号が保存され、監獄の実態を知ることができる。工作舎では拷問、裁判、処刑などの状況が示されている。隔離室、女獄舎、死刑場などもあり、処刑した死体を刑務所の裏にある共同墓地に捨てるためのトンネルも一部復元されている。闇に消されていった人々の無念が、トンネルの奥底から響くようだ。

歴史館内には追悼碑も作られ、判明した死者の名が刻まれているが、まだ数は少ない。ここで殺された数多くの人々の存在がいまも消されたままである。

 

4 ソウル 孝昌公園  金九記念館と独立運動者の墓

 

 孝昌公園はソウルの南、龍山区にある。ここには白凡金九記念館があり、館の近くには金九の墓がある。公園には独立運動義士や上海の大韓民国臨時政府の関係者の墓もある。これらは31運動以後の独立運動を物語る史跡である。

 金九は黄海道の海州で1876年に生まれた。31運動に参加し、上海に亡命した。そこで大韓民国臨時政府の設立に参加し、警務局長、内務総長を経て、主席となった。韓国独立党の委員長にもなり、韓人愛国団を創設した。日中戦争後、重慶に移動し、韓国光復軍を組織した。解放後に帰国し、朝鮮の独立と統一をめざすが、1949年に反共右派に暗殺された。号は白凡、白丁(被差別民)も凡人も愛国心を持つという思いからつけたという。

記念館には、暗殺された時の血染めの白衣が展示されている。それは、現在の分断を象徴し、統一への熱い思いを語り伝えるものでもある。記念館の近くには。天皇をめがけて手榴弾を投擲した李奉昌の像がある。

 公園の一角には、李奉昌、尹奉吉、白貞基の3人の墓がある。その横には遺骨を待つ安重根の墓碑がある。李奉昌は金九の韓人愛国団の下で、19321月に東京で天皇を手榴弾で狙ったが、失敗した。尹奉吉は金九の下で、19324月に上海で上海派遣軍司令官らを爆殺した。ともに処刑された。白貞基は31運動をソウルで目撃し、抗日運動に参加するようになった。1933年に中国で仲間とともに有吉公使の暗殺計画を建てたが、失敗し、逮捕された。1936年に獄死した。

 公園には上海臨時政府関係者の李東寧、゙成煥、車利錫らの墓もある。

 

5 ソウル 植民地歴史博物館

 

植民地歴史博物館はソウルの龍山区、淑明女子大学の近くにある。この博物館は韓国の民族問題研究所が中心になって建設したものであり、2018年に開館した。この館は、植民地支配の歴史を保存し、次世代に継承するととともに、日韓市民の共同の運動での植民地主義の清算と東アジアの平和を目指している。

博物館は4階建てであり、1階が受付、2階で常設展示、3階に民族問題研究所、4階に資料室、5階には教育空間がある。博物館の常設展示は、第1部の、日帝はなぜ朝鮮を侵略したのか、第2部の、日帝の侵略戦争で朝鮮人に何が起きたか、第3部の、同じ時代・違う人生(親日と抗日)、第4部の過去を乗り越える力・いま私たちは何をすべきかで構成されている。

第1部では、日本の植民支配の実態が示され、独立運動については第3部で示される。第3部の展示には、植民地朝鮮は巨大な監獄であった。主権を奪われた朝鮮人の暮らしは、自由を剥奪された奴隷のようだったと記されている。そのなかで屈服する者と抵抗した者たちの軌跡が示される。3・1独立宣言書、3・1運動への弾圧を示す検事作成の文書「大正8年保安法事件」、民主共和制を示した大韓民国臨時憲章のなどの資料も展示されている。親日の実態や解放後の戦後補償での日韓の共同行動を示すことで、展示が厚みを増している。

博物館は植民地期朝鮮支配、強制動員被害、戦後補償運動などの資料収集や調査研究をすすめるとともに、館の近くの南山と龍山方面への3コースの史跡ガイドマップを作成している。この博物館は運動への新たな風を呼ぶ場となる。

 

6 ソウル江北区 独立運動者の墓

 

ソウルの北方、北漢山の麓の江北区には、独立運動に関わった人びとの墓が点在している。孫秉煕をはじめ、呂運亨、李明龍、申翼煕、李始栄、柳林など3・1運動に関わる、あるいはその影響を受けて独立運動に参加した人びと、20人ほどの墓がある。光復軍に参加して亡くなった人びとの合同墓もある。

孫秉煕が建てた鳳凰閣や近現代史を展示する近現代史記念館、4・19民主墓地などもある。江北区の祭典には、牛耳洞鳳凰閣31独立運動再現イベントと419革命国民文化祭があり、2017年に開通した江北に向かう牛耳新設線の駅名は4・19民主墓地駅である。

 近現代史記念館には、義兵闘争、31運動、上海臨時政府、光復軍、日帝の皇民化、解放後の建国運動、朝鮮戦争、419革命などが展示されている。独立運動を示しつつ、朝鮮の独立と統一を求めた人びとの足跡を追っている。上海臨時政府と光復軍についても詳しく説明されている。2018年、館では、呂運亨の特別展をおこない、展示冊子を発行した。

 呂運亨は1914年に中国の亡命し、上海で新韓青年党を結成した。31運動のなかで臨時政府に参加し、学務部長となった。逮捕・服役後は、朝鮮中央日報の社長となった。解放後、朝鮮建国準備委員会を結成し、左右の統一の立場で建国をめざしたが、1947年に李承晩らの反共右派に暗殺された。

1960年の419学生革命(4月革命)の経過をみれば、李承晩の大統領選での不正糾弾を契機に学生デモが起きた。それに対し、警官隊の発砲などで180人を超える死者が出た。その暴虐に抗して、市民による抗議デモが起き、李承晩はアメリカに亡命した。しかし、朴正煕が翌年、クーデターで実権を握り、新たな軍事独裁を強いた。

 419民主墓地はこのときの死者を追悼するものである。記念館があり、419革命の経過が展示されている。墓地は1963年にできたが、民主化がすすむなかで1995年に国立墓地となり、整備された。

北漢山から独立運動と民主運動の墓地を抜けた北風は、ソウル市街地に流れていく。その風が、いまを問いかける。

 

7 坡州 烏頭山展望台の゙晩植像

 

ソウルから北に20キロほど北に行くと坡州市がある。坡州は南北分断の地である。軍事境界線はハン川(漢江)とイムジン川(臨津江)との合流点から数キロ先で北に向かって伸び、郡内面・津西面を分断し、東に向かう。この軍事境界線をはさんで双方に2キロの非武装中立地帯がおかれ、民間人統制区域が設定されている。イムジン川に沿って鉄条網が引かれ、監視塔が各所にある。

このハン川とイムジン川との合流点の城址に烏頭山展望台がある。展望台の目の前をイムジン川が流れ、川を隔てて北の領域が見える。

この展望台に、゙晩植の像が建っている。゙晩植は平安南道江西郡で1883年に生まれた。3・1運動に参加して投獄され、その後、新幹会結成に参加、志願兵制度にも反対した。解放後、平安道の人民政治委員会会長となり、また北の行政局長にもなった。しかし米ソの信託統治案に反対したため、弾圧され、朝鮮戦争のなかで死亡した。

信託統治は分断と新たな支配であり、独立運動をすすめてきだ晩植にとって、受け入れがたいものだったのだろう。゙晩植のような人物の評価も南北統一の動きのなかで高まる。

京義線の臨津江駅の近くに、臨津閣がある。イムジン川には壊れた橋桁が残るが、新たに鉄橋ができた。2000年の南北首脳会談以降、開城に向かって鉄道の再開がすすめられるようになり、一部だが地雷も撤去された。2002年にはイムジン川の橋を渡って都羅山駅までの鉄道が再開された。臨津閣には「自由の橋」があり、その金網の壁に人々が統一への想いを記したメッセージカード・写真や布を縛り付けている。

2018年には3次の南北首脳会談がもたれ、軍事的な緊張が和らいだ。今後が期待される。

 

8 華城 堤岩里の3・1運動記念館

 

ソウルから南へ約35キロ、水原がある。その水原の駅から西南へ20キロほど先の華城市郷南邑に堤岩里がある。当時、華城郡は水原郡と呼ばれていた。この堤岩里では、3・1独立運動の時に、日本軍によって村民が教会で虐殺され、村が焼かれた。

31運動はソウルから朝鮮全土に広がった。水原・華城地域でも、3月中ごろから4月初めにかけて、水原をはじめ郡下の城湖面烏山里、松山面沙江里、郷南面発安里、陽城面、八灘面、半月面、長安面水村里、雨汀面花樹里、飛鳳面、麻道面などで民衆が立ちあがった。

松山面沙江里では、巡査の発砲による負傷を契機に、巡査が殺害された。城湖面烏山里では主催者の逮捕に抗して、駐在所、郵便局、面事務所が襲撃され、日本人商店が焼かれた。郷南面発安里では、憲兵隊の発砲を契機に日本人小学校や面事務所、日本人家屋などが焼かれた。長安面水村里と雨汀面花樹里では面事務所が襲われ、花樹里での警官の発砲に抗して巡査が撲殺された。

このような運動の高まりに対し、憲兵と警察による検挙がはじまり、4月前半のうちに、郡下で800人以上が検挙された。焼かれた村もあった。さらに陸軍歩兵79連隊の部隊が出動し、415日、堤岩里に来た。堤岩里の活動者が331日の郷南面発安里での1000人のデモを主導したとみなされた。男たちが集められ、堤岩里の教会に収容され、銃殺・焼殺され、女性も含め23人が虐殺された。部隊はさらに古州里で6人を殺した。

水原・華城でも、キリスト教徒と天道教徒(東学)が運動を主導した。堤岩里には抗日義兵の経験のある洪元植がいた。かれはキリスト教会の安鐘厚、古州里の天道教指導者の金聖烈らと救国同志会をつくっていたという。日本による土地の収奪に苦しむ農民たちが呼びかけに応えて、運動に参加した。人びとは駐在所や面事務所を攻撃した。

堤岩里事件は、洪元植、安鐘厚、金聖烈ら主導者をねらっての計画的な弾圧であり、かれらの家族や一族も殺されたのである。

解放後、堤岩教会は再建され、3・1運動殉国記念館となった。2018年4月、館は改築され、展示も新装された。館の展示は、華城での3・1独立運動の形成と展開、独立運動者の紹介、4月の堤岩里や古州里での虐殺事件の概要、残された遺族と遺骨発掘などで構成されている。展示館の周辺には、3・1運動殉国記念塔、墓地、スコフィールドの銅像などの展示がある。

 なお、華城市は2015年に「3・1運動裁判記録」を復刻した。当時、弾圧された人びとの尊厳の回復をすすめる活動である。この本には運動が激化した松山面と長安・雨汀面での裁判記録が収録されている。

 

9 天安 柳寛順記念館

 

ソウルから南に約90キロ、忠清道の天安市には31独立運動で検挙され、獄死した柳寛順の記念館、独立記念館、上海の臨時政府で活動した李東寧の生家、異国での死者の納骨所である望郷の丘などがある。

柳寛順は1904年に天安の並川面龍頭里で生まれた。父の柳重権は愛国啓蒙運動の影響を受け、興湖学校の設立に関わり、地域に教会をつくった。柳寛順は村の教会の日曜学校で、梨花学堂への入学をすすめられ、19164月、普通科3年に編入した。13歳の時だった。柳寛順はそこで新しい文化と出会う。1919年の31運動により学校は強制休校となり、柳寛順は故郷に帰った。

故郷で柳寛順は村の趙仁元らと41日の並川市場での万歳運動を計画した。前夜、周辺の山々に決行を合図する松明が掲げられた。市場に集まった民衆は憲兵分遣隊へと押し寄せた。憲兵は民衆に向かって発砲した。それにより柳寛順の父母をはじめ、19人が亡くなり、30人ほどが傷ついた。運動後の検挙で、柳寛順も逮捕され、公州監獄に収監された。8月、柳寛順は西大門刑務所に送られ、翌年の1920年の9月に獄死した。

柳寛順は裁判で、父母を殺し、兄まで留置し、無実の同胞を殺した、その大罪はきっと神が裁いてくれる、日本人の裁判を受ける理由はない、わたしを処罰する権利はない。強盗を追い出して何の罪があるのかと主張したという。

柳寛順の生家の近くに柳寛順烈士記念館が建設された。展示では、年表、学生時代、並川の独立運動、獄中闘争、天安の独立運動などが展示されている。記念館近くには銅像、追慕閣、烽火台、並川での独立運動死者の追悼碑などがある。

柳寛順生家に向かう途中には、父の柳重権の墓がある。

柳寛順たちが運動を起した並川市場の跡地は、並川独立万歳運動公園として整備されている。中央には柳寛順を中心に起ちあがる民衆の像が置かれ、周囲にはさまざまな記念碑がある。亡くなった928日には記念館の追慕閣で追悼会がもたれ、2月末には、並川独立運動を記念する烽火節がもたれている。

 

10 天安 国立独立記念館

 

 国立独立記念館は天安市の木川邑にある。この記念館ができたのは1987年である。日本の教科書検定で侵略や植民地支配の実態を教科書で歪曲するという動きを受けての建設だった。この時期は、韓国では民主化運動が強まり、戦争の被害者がその被害実態を訴えるようになった。

建設から30年、独立記念館の展示は変わった。展示物が増え、映像が加えられ、独立運動の研究内容も深くなった。展示の表現形態も変わり、芸術的な空間の使用が導入されるようになった。図録や研究書も多数、発行された。

21世紀に入って出されたDVD「ドキュメンタリー韓国の独立運動史T・U・V」(光復60周年企画)は中国、旧ソ連地域にまで独立運動の活動者の足跡を追って仕上げたものであり、韓国での独立運動の研究の成果を示すものである。第6篇が31運動の映像である。

記念館の展示は、韓民族のルーツ、韓民族の試練、国を守る、31運動、国を取り戻すための戦い、新しい国づくなどに分かれている。解放70年、731部隊、強制動員などの特別展なども企画されてきた。

展示には、独立とは分断の克服と統一であり、自由と平和の実現であるという思いが込められている。

展示館の上方には、追慕の場が設置されている。この追慕の場の左方には、3・1運動を記念する東倉己未万歳運動碑がある。右方には独立運動者を顕彰する碑が数多く建てられている。独立運動者の詩や言葉に出会う場所とされ、散策のコースになっている。展示館を見学後、この碑群を散策すると、独立への思いや運動の歩みを学ぶことができる。

 独立記念館の近くには李東寧の生家がある。李東寧は1869年に生まれ、1905年の保護条約後、満洲の龍井村に亡命した。1907年に帰国し、安昌浩、金九らと新民会を組織した。1910年には満洲で新興武官学校を設立した。31運動を経て、上海での大韓民国臨時政府設立に参加した。臨時政府の議政院議長、内務部長を経て、1927年に主席となったが、1940年に病死した。記念館には、年表、胸像、肖像画、直筆、書簡などが展示されている。

この生家の近く、木川小学校の校庭には、木川の31運動記念碑がある。碑は人びとが運動に立ち上がった歴史を物語る。

 

11 済州島の独立運動

 

日本による経済での略奪と飢饉は南の済州島に地での抗日意識を高めた。済州島に流刑された崔益鉉の影響を受け、義兵となった者もいた。済州島での3・1運動は済州島の北東部にある朝天が中心になった。321日に独立宣言式とデモがもたれ、24日まで続いた。主導者は検挙された。

上海に臨時政府ができると、臨時政府は独立軍形成のために資金の支援を求めた。それに応え、19195月、独立犠牲会済州支部が設立され、資金を集めた。しかし、活動をすすめた趙鳳鎬は検挙され、獄死した。1930年代には農民や海女による抗日運動が起きた。日本へと渡る人びとも多く、社会主義の影響を受け、済州島に戻って活動する者もいた。

朝天には、万歳の丘聖域化公園が置かれ、抗日記念館や3・1独立運動記念塔、愛国先烈追慕塔、独立烈士碑などがある。

抗日記念館の1階には、安重根の書の複製をはじめ、抗日運動の年表、1918年の西帰浦の法井寺抗日運動のジオラマなどが展示され、2階には朝天の3・1運動での判決文、その3・1運動、拷問場面、海女の抗日運動などのジオラマがあり、白応善の墓や青年・農民などの運動を示すパネルなどがある。趙鳳鎬の獄死や1934年に農民組合運動で62人が検挙されたことなどが具体的に示され、日本の戦争末期の済州島の軍事基地化を示すパネルも展示されている。

公園内には、金年培、金時成、夫生鐘、金淳鐸、金文準の墓碑が、独立烈士碑として並べられている。墓碑は碑文が問題視され、警察によって埋められたもの、警察に留置されていたものである。

墓碑の一つは「獄死夫生鐘墓」と刻まれている。夫生鐘(19091936)の墓碑の裏には、抗日運動に参加し、木浦の刑務所で亡くなったことなどが、詳細に刻まれている。墓碑は、圧政への怒りとそれに抵抗する精神の継承を物語る。夫生鐘は社会主義者であり、咸徳里の赤色農民組合の宣伝を担当した。墓石も警察の倉庫に幽閉されたのだった。

金文準は1894年に朝天で生まれ、教員となり、31運動にも参加した。1927年に渡日し、大阪朝鮮労働組合の執行委員になった。民衆時報を発刊し、共産党の再建運動にも関わったが、検挙され、1936年に病死した。

戦時下、済州島は日本の大陸侵略の拠点とされ、南東部の海軍航空基地からは南京への爆撃もおこなわれた。アジア太平洋戦争末期には、済州島は沖縄戦に続く戦闘地域として想定され、米軍の上陸を前提に島全体の要塞化がすすめられた。壕掘削のために多数の朝鮮人兵士や住民が強制動員された。

済州島では解放後、人民委員会の活動が展開された。人民委員会は戦前からの社会運動の影響を受けた組織だった。1948年には済州43抗争が起きた。43抗争のはじまりは、1947年の31節での弾圧事件とそれに抗議するゼネラルストライキだった。この抗争の犠牲者は6万人という。

かれらは「暴徒」とされてきたが、20世紀末から21世紀初めにかけて、43抗争犠牲者を復権する動きが強まった。人々の遺体を発掘する作業がおこなわれ、43平和公園・追悼館も建設された。

2018年には、済州島出身者の多い大阪天王寺区の統国寺に追悼碑が建てられた。

 

過去を清算する動きは、民衆が人権と平和の基礎を確立し、歴史を自らのものとするものである。31運動だけでなく、43抗争での被害者の復権もすすんでいる。