12回強制動員真相究明全国研究集会(高崎)報告

 

●高崎で第12回全国研究集会開催

 2019年4月6日、群馬県高崎市内で第12回強制動員真相究明全国研究集会が開催され、120人が参加した。集会は「市民のための碑(いしぶみ)から学ぶこと」をテーマにもたれ、群馬の強制連行と追悼碑、全国各地の追悼碑の事例が示された。

 群馬県は2004年3月に県立公園である群馬の森への朝鮮人追悼碑の設置を許可し、同年4月、群馬県朝鮮人追悼碑(記憶 反省 そして友好)が設置された。しかし、2012年に追悼碑前での追悼集会の発言を政治的なものとみなし、碑の撤去を求める右派の動きが現れたため、追悼碑を守る会は2013年の追悼集会を屋内でもった。2014年には、県議会で碑の設置許可不更新を求める右派の請願が採択され、県は設置期間の更新を拒否するに至った。

これに対し、追悼碑を守る会は県の不許可を違法・違憲とし、前橋地裁に提訴した。2018年2月の地裁判決は、追悼碑の価値を認め、県の不許可処分を、裁量権を逸脱し、違法なものとし、処分を取り消すものだった。これに対し県は控訴したが、東京高裁は和解協議をすすめた。

今回の集会はこのような情勢のなかで設定された。集会に先だって追悼集会がもたれ、 追悼碑裁判の経過が示され、献花をおこなった。

●群馬県の強制連行と追悼碑

研究集会での群馬県の報告では、最初に群馬の森追悼碑訴訟弁護団の下山順事務局長が朝鮮人追悼碑をめぐる訴訟の現状を話した。下山弁護士は、追悼式の発言での表現の自由、追悼式を政治的行事とする認識、追悼碑の許可条件違反と都市公園の効用機能の関係、不許可処分の裁量権逸脱などの争点を解説し、地裁判決が強制連行の文言を含む発言を政治的発言と認定としたことなどの問題点をあげた。そして、自治体が歴史修正主義に屈する動きをあげ、それに抗し、表現の自由を守るために市民が声をあげていくことの大切さを示した。

中島飛行機太田地下工場跡を保存する会の石塚久則さんは、中島飛行機の軍用機生産と戦時の工場労働や地下工場建設工事への朝鮮人の強制動員の歴史を示し、藪塚地下工場建設に動員された朝鮮人・中国人の調査の経過を話した。

竹内は群馬県の朝鮮人強制連行について、行政史料から、群馬県へは1944年3月までに約2000人が労務動員され、44年12月の現在数は約3000人であり、その後の動員状況から、動員数を6000人以上と推定できること、1943年末には群馬県の朝鮮人数は1万2000人ほどになったこと、「知事事務報告書」(1944.2)からは中島飛行機小泉工場に1943年12月、朝鮮人20人が徴用されたことがわかること、群馬県の朝鮮人労働現場は40か所ほどあるが、約半数は強制動員の現場と判定できることを示した。

続いて特別報告として、山本直好さんが「韓国大法院判決の意義と今後の取り組み」について話した。山本さんは徴用工判決を65年日韓請求権協定のはらむ矛盾が現出したものとする見地を紹介し、2002年の日鉄大阪高裁判決では、大阪製鉄所での労働を「実質的に強制労働に該当し、違法といわざるを得ない」と認定したこと、1999年にはILO専門家委員会が朝鮮人・中国人の大規模な労働徴用を強制労働条約違反と認定したことなどをあげ、保守系雑誌の論調を批判した。

外村大さんは、日本の近代化で膨張主義を批判的にみた人びとを想起し、記憶することを呼びかけた。また、現憲法の民主主義・人権・平和の理念をふまえ、軍国主義に抗した動きを公共的な記憶とすべきであり、産業革命遺産では戦時の動員での法的強制だけでなく、実態的強制を認識することが大切とした。

 

●全国各地の追悼碑をめぐる動き

つづいての各地の報告では、兵庫の徐根植さんが、兵庫の追悼碑と実地調査と追悼会の状態を紹介した。徐さんは、石碑とその調査は、歴史を伝え、教訓を刻み、歴史を忘れないために必要なものであり、各地に残る追悼碑は死亡の原因や労働の状況を伝えるものと話した。また、定期的な追悼会や現地額首魁の意義についても示した。

奈良の川瀬俊治さんは天理・柳本飛行場の説明板をめぐる動きについて話した。柳本飛行場については市教育委員会が1995年の説明板で、市民運動の調査成果をふまえ、強制連行された朝鮮人の存在を示し、また、「慰安所」が置かれ、朝鮮女性が強制連行された事実も記した。この説明板に対し、群馬と同時期の2014年に右派の攻撃が強まり、市教委は説明板を撤去した。市民団体はこれに抗し、日韓の共同作業で説明板を設置する活動をおこない、2019年4月にその説明板の除幕をおこなう予定である。

山口の井上洋子さんは宇部の長生炭鉱での追悼碑設置と遺骨収集への取り組みについて紹介した。井上さんは、戦時の長生炭鉱事故は犠牲者183人、そのうち朝鮮人136人という事故であったことを示し、その追悼碑の建立は、海底に埋まったままの遺骨の発掘という新たな事業のはじまりとなったことを、遺族の思いを示しながら、話した。

長野の北原高子さんは長野県での松代大本営の労働者名簿の発見とその分析について話した。北原さんは新たに発見された特高集約の朝鮮人名簿2432人分を分析し、慶尚道の出身者が多いことを示した。そして、労働者の家族に会える可能性があり、真相究明をすすめたいと話した。長野でも松代大本営の碑の改ざんが起きている。

報告後の質疑では、群馬の訴訟で強制連行の事実を語ることを政治的行為としたことの問題、政府・企業の中国と韓国に対する道義的責任の認識の相違の理由、若い世代への継承の取り組みの課題などが議論された。

 

 ●藤岡の関東大震災朝鮮人追悼碑と群馬の森の追悼碑

 翌日の4月7日、フィールドワークで藤岡の関東大震災朝鮮人追悼碑と群馬の森の追悼碑などを歩いた。

 藤岡第二小学校前には桜の並木があり、満開だった。この桜は1960年の朝鮮への帰国に際し、植えられたものである。その由来を記した碑が残されている。戦後、強制動員(集団移入)された人びと2200人ほどの帰国がすすみ、群馬からの帰国者は3400人を超えることになった。群馬に在留した朝鮮人も多かったが、1960年代の帰国運動で朝鮮北部に移住した人びともいた。移住後も、苦難の歴史だった。その一人ひとりの歴史を語ることのできる日はいつになるのだろう。

 藤岡市の成道寺には、関東大震災で虐殺された17人の名を刻んだ追悼碑がある。1923年9月5日、藤岡の住民が成道寺に横にあった警察署を襲い、16人を虐殺し、さらに翌日1人を殺した。殺された人びとは近くで砂利採集に従事していた労働者とみられる。現在の碑は1957年に再建されたものであるが、碑文には誰が殺害したのかは記されず、自然災害で亡くなったかのようである。兄弟としての世界平和が記されているが、加害の事実は記されていない。この碑の前では毎年、慰霊祭がもたれている。

この碑をめぐる経過については、朝鮮人強制連行の調査と群馬の追悼碑の建立をすすめた故猪上輝雄さんの「藤岡での朝鮮人虐殺事件」(1995年)に詳しい。事実を記した副碑(説明板)も必要である。

県立公園である群馬の森には、かつて東京第二陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所が置かれていた。重要な戦争遺跡であるが、戦後、多くは破壊された。爆発防止用の土塁の一部、火薬製造用建屋、射撃用トンネル状構築物(1935年完成)などが残っている。それらの遺跡から過去を見つめ、未来への道を思考することができる。公園内には「我が国ダイナマイト発祥の地」(1973年)の碑もある。富国強兵と産業史への貢献が記されているが、その火薬は砲弾や爆弾にも使われた。その加害の歴史への反省は記されていない。

群馬の森の朝鮮人追悼碑は日本による戦時の労務動員とそこでの犠牲者を記憶し、その歴史を反省し、追悼し、友好を願うものである。碑は、この国の市民の歴史認識の現状を示す。碑の前に立ち、現在の碑をめぐる状況を聞いた。この碑には「強制連行」は記されてはいないが、この碑の前で、強制連行を語ることが政治的行為とされ、そのように現時点で県は認識している。このような歪曲された認識は市民の力で払拭されなければならない。

追悼碑は、名も記されないままの無縁の死者のまなざしを受け止め、新たな時代を創造する精神を分かち合う場でもある。            
                        (竹内)