「明治日本の産業革命遺産」の展示の現状 
           −三池炭鉱・高島炭鉱・長崎造船所−

 

1 植民地認識のない産業化の賛美

安倍政権は官邸主導で「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録をすすめた。

「明治日本の産業革命遺産」に組み込まれた現場には、説明板が置かれている。そこには日本語で、「19世紀の半ば、西洋に門戸を閉ざしていた東洋の一国は、海防の危機感より西洋科学に挑戦をし、工業を興すことを国家の大きな目標として、西洋の産業革命の波を受容し、工業立国の土台を築いた。明治日本の産業革命遺産は、1850年代から1910年の日本の重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)における大きな変化、国家の質を変えた半世紀の産業化を証言している。」と記されている。

その横には、英文の説明が記されている。訳せば、「1850年代から1910年の日本の製鉄・製鋼、造船、石炭採掘を基礎とする急速な産業化を示すものであり、この成功した産業化は、植民地化なしで、日本独自の条件で、たった50年ほどでなされた」となる。日本語の説明とは、その表現にズレがある。

ここでみておくべきは、対外認識を、日本語で「海防の危機感」とする内容が、英文では「植民地化なしで(without colonization)」となっている点である。この表現には、日本が植民地とされなかったというだけでなく、日本が朝鮮などを植民地としなかったという意味も含むようにみられる。それは日本の産業化を賛美し、日本による朝鮮などの植民地化をみようとしない歴史観であり、日本の戦争を欧米の植民地支配からアジアを解放する聖戦であるとする歴史の見方につながるものである。

このような歴史観によって、明治日本の産業革命遺産の展示はなされている。その展示の実態を、三池炭鉱、高島炭鉱(高島・端島)、長崎造船所の順にみていこう。

 

2 三池、強制労働を「使役」と改ざん

 この明治産業革命遺産では、三池炭鉱においては、宮原坑、万田坑、三池炭鉱専用鉄道跡、三池港が対象とされた。

 万田坑や宮原坑では、巻き上げ機の内部が一部公開され、100年を超える採炭の技術を学ぶ場になっている。小学生向けの明治産業革命遺産の「なるほどBOOK」なども作成され、配布されている。けれども、この炭鉱での労働の歴史は全く記されていない。産業近代化の技術史だけが礼賛され、労働史がない。三池炭鉱の周辺には、亡くなった労働者の追悼碑が点在しているが、それについては記されていない。

 「万田坑ステーション」の五つ折りのパンフレットには、戦時に朝鮮、中国、連合軍捕虜の「強制労働」があったことが記されている。しかし、少し大きめの案内冊子をみると、案内文が同様に記されているが、強制労働の部分だけが、「使役」と変えられていた。使役とは「働かせた」と言い換えることもできる。

この冊子では、強制性が消されているのである。『世界文化遺産 三池炭鉱』というDVD付の写真集(みらい広告出版、2016年刊)の三池炭鉱の歴史の記事を見ると、ここにも「使役」という用語が使用されていた。このような記述の出現は、世界遺産の宣伝のなかで、この地での強制労働の歴史認識を否定する動きが強まっていることを示すものである。

 「炭鉱(やま)」の祭典2019実行委員会」(行政が事務局)が出したチラシは、大牟田・荒尾の近代化遺産の「炭都漫遊」をすすめるものである。労働史のない「漫遊」観光の宣伝、明治の産業化を賛美する世界遺産の動きなどが、強制労働の事実を消すことになっているようにみられる。他方で、資本の側のリーダーとして団琢磨が宣伝され、新大牟田の新幹線の駅には団琢磨の像が建てられた。かつて、三池を象徴した炭鉱労働者の姿が消えているようである。なお、万田坑の建物の上部に、操業時には三井のマークがあったが、世界遺産にともなってマークが撤去されたという。

 戦時には、三池炭鉱に朝鮮人が約9000人、中国人が約2500人、連合軍捕虜が約1900 人強制連行された。その歴史が十分に記されることなく、明治の産業化や団琢磨等の活動などが賛美されているのである。

 

3 三池、企業・行政の強制連行認識

三池の歴史は産業化、それを基礎にした侵略戦争、その動きのなかでの労働の歴史を抜きには語れない。受刑者(囚人)の労働、米騒動と労働運動、戦時の朝鮮人などの動員、三池炭鉱労組の活動と三池争議、連続した大事故など、ここには労働するものの血と汗と団結の歴史がある。

『荒尾市史 通史編』(2012年)には、戦時の朝鮮人、中国人の強制労働について、詳細に記されている。この市史には市民による強制労働の調査が反映されている。

大牟田市石炭産科学館の展示にも、強制労働に関するものがあり、館による「三池炭鉱関連の近代化産業遺産ガイドブック」には、石炭関係の遺跡の情報が記されている。そこに馬渡社宅跡碑の所在も記され、「徴用で働いた朝鮮人の宿舎」の跡であると書かれている。宮浦坑にある中国人の追悼碑については記載がない。受刑者の労働の追悼碑、三池争議で亡くなった久保清の碑や三川坑の追悼碑については記載がある。戦時の強制労働についての細かな解説はない。

大牟田市の甘木公園には朝鮮人の徴用犠牲者慰霊碑がある。碑文には、「愛しき父母、妻子、兄弟と離別を余儀なくされ」、「遠い異郷の地にてあらゆる難をへられた」、「徴用され過酷な労働の果てに不帰の人となられ」と、強制動員と強制労働の内容を示す表現が記されている。

建立は1995年であり、大牟田市が敷地を貸与し、碑の費用は、戦時に朝鮮人を労働させた三井石炭鉱業三池鉱業所、三井東庄化学大牟田工業所、電気化学工業大牟田工場が支出した。裏側にある碑文には「この地に徴用され、労苦の果てに亡くなられた方々」への哀悼が記され、協力者として市と企業の名前が刻まれている。企業側も建立に際し、徴用による労苦の果ての死を認知し、費用を負担することでその責任をとったわけである。

このような歴史認識と世界遺産の観光宣伝での産業遺産賛美とが対抗しているようである。

 

4 産業遺産国民会議による強制労働否定

日本政府の内閣官房主導で明治日本産業革命遺産の世界遺産登録が推進されてきた。この運動を加藤康子が内閣参与、産業遺産国民会議理事となって、担ってきた。内閣官房は産業遺産国民会議にこの遺産の説明計画についての調査を委託したが、この内閣官房の動きに加藤康子は参与として関わり、国民会議の報告書作成を担い、国民会議のウェブサイトなどで端島炭鉱での強制労働の否定を示す論を展開している。

説明計画のための調査は2016年、17年、18年とおこなわれてきたが、この3つの報告書に約36000万円の公費が支出されている。3年目の2018年の報告書には13000万円もの予算がつけられた。この報告書には、三池炭鉱で戦時期に雇用され、中国人を管理したという元職員への聞取りが収録されている。その聞取りは、三池での朝鮮人への強制労働を否定する答えを得るために誘導質問がなされている。元職員はその誘導に応えて、朝鮮人は「集団就職」であり、強制はなかった、ノルマは無い、強制貯金はなかった、逃亡はない、朝鮮人への暴力はなかった、差別はないといった発言を繰り返している。

日本による労務動員計画の下で朝鮮からの集団的な連行が繰り返され、三池にも連行が繰り返され、逃亡も多く出たこと、そして暴力的な管理や強制貯金がなされたことは事実である。しかしこの報告書では、元職員の証言を無批判に利用し、強制労働の事実を否定する材料としているのである。

三池では、行政や関係企業は強制労働を認知してきた。世界遺産の宣伝で国民会議は、強制労働などなかったかのように示しているが、真実を消し去ることはできない。労働史の展示を増やし、戦時の強制労働を認知するほうが、世界遺産としての普遍的価値が高まることを知るべきである。

 

5 高島、強制労働の記事なき石炭資料館の展示

高島炭鉱では北渓井坑の跡が明治日本の産業革命遺産のひとつとされた。それは日本最初の洋式立坑(1869年開坑、佐賀藩とグラバーによる)であるが、1876年には廃坑となった。この井坑跡は高島の北方にあるが、簡単な解説板が置かれているだけである。外国技術と外国資本による先進的な生産技術の導入とされ、高島から端島や筑豊三池に技術が伝わったと位置づけている。

高島の石炭資料館は世界遺産に合わせて、展示替えがおこなわれた。世界遺産登録前の資料館の展示には、高島炭鉱労働組合の組合旗や組合資料なども展示されていたが、展示替えで、姿を消した。

館内の高島炭鉱の歴史を示す年表には、1875年のガス爆発死者40人、1878年の暴動、1880年のガス爆発死者47人、1888年の高島炭鉱問題、1906年のガス爆発死者307人、1932年のガス炭塵爆発事故死者12人、1935年の端島でのガス爆発事故などの項が記載されているが、その具体的な実態は示されていない。年表の1937年の項は「満州事変後、黒ダイヤ景気となる」と記されているが、その後の朝鮮人や中国人の連行については記されていない。1940年から45年については全く記載がないのである。年表の最後に、閉山を巡る高島炭鉱労働組合の活動が記されている。端島についての年表も展示されている。戦前のストライキなどの記載もあるが、戦時の朝鮮人、中国人の連行についてはここにも記されていない。

展示には「高島炭坑を支えた人々」と記されたパネルがあり、とても危険で、戦前は12時間の交替制であったことが記されてはいる。しかし、三菱が社宅を立て、小学校をつくるなど、恩恵を与えたことも記されている。

石炭資料館は高島炭鉱労働組合の建物を利用したものである。書棚に、北海道炭礦汽船の万字炭鉱労働組合の解散記念誌「万字」と平和炭鉱労働組合の「平和よ永遠に」があった。そこには戦前・戦時の朝鮮人を含む殉職者名簿が含まれていた。ところで高島炭鉱ではどうか。戦時の朝鮮人の死者名については、端島については火葬関係資料から判明分がかなりあるのだが、高島炭鉱については多くが不明なままである。

展示替えで、資料館の前には端島の模型が置かれたが、わずかな説明があるだけである。高島の資料館の近くには、岩崎彌太郎の大きな像が建てられ、解説文には、その活動が社会に貢献するものであったとも記されている。三菱の軍需生産やそこで働いた労働者の歴史については記されていない。

 

6 高島炭鉱、消えていく労働の跡地

高島炭鉱の閉山から30年、高島の人口は400人を切った。無住となった建屋の多くが崩壊し、草木に覆われている。炭鉱の建物はすでに解体され、戦後の労働者のアパートも壊されたものが多い。労働の跡地が消えていく。

戦時に高島で増産された坑は二子坑と仲山新坑である。坑口の一部が残っている。仲山新坑は1937年から45年にかけてのものであり、高島の港の近くにある。残っている坑口は機材などを運び込むためのものであり、労働者や石炭を運ぶ坑口は、いまの高砂園(老人ホーム)の場所にあったが、埋め戻された。

高島神社には「蛎瀬坑罹災者招魂之碑」(19073月建立)がある。横に2004年に長崎市教育委員会が建てた解説板があり、蛎瀬坑で19063月に坑内ガス爆発事故で307人が死亡し、その鎮魂のために建てられたと記され、碑文に関わった学者や書家などが紹介されている。事故の詳細や死者の氏名については記されていない。

高島神社の右手には1988年に三菱が建てた慰霊碑がある。その碑の前に「旧供養塔の御遺骨については、永代追悼供養の実施の上、金松寺納骨堂へ安置されています」と記した説明板がある。様式からみて長崎市が建てたものであり、三菱の意を受けての設置のようだ。

高島の共同墓地には、三菱高島炭坑が19204月に建てた供養塔がある。ここに塔の下に遺骨が収納されていた。この供養塔に向かう道は、長崎市によって立入禁止とされ、説明板に「この先の旧供養塔の御遺骨は、永代供養のため金松寺納骨堂に移転の上、安置されており、慰霊碑が高嶋神社横に建立されています」とある。供養塔の横にも同様の説明板がある。供養塔を補修した際、三菱石炭鉱業は供養塔を囲む石に「永代供養のため、当墓地の遺骨は、金松寺納骨堂へ移転の上、安置致しました」刻んだ(19884月)。遺骨は小さな箱に入れられて、金松寺に納められているが、いつ誰がどのように亡くなったのかについては不明である。

権現山からは高島の二子坑跡や端島を眺望できる。この海の下に坑道が幾重にも掘られ、石炭が掘削されていた。

北渓井坑跡と石炭資料館の展示だけでなく、仲山新坑跡、二子坑跡、百万の朝鮮人収容所跡、蛎瀬坑罹災者招魂之碑、三菱の慰霊碑、金松寺、供養塔、権現山などを歩くことで、労働史を追想することができる。

 

7 端島・軍艦島、観光で消される強制労働

端島炭鉱は「軍艦島クルーズ」が組まれるなど、明治日本の産業革命遺産のなかでも観光人気の場である。海上に現れる護岸とビルの灰色のコンクリート群は迫るものがある。そこでの石炭採掘での労働の歴史が大切であるが、クルーズではその解説はほとんどなく、炭鉱の廃墟を探訪するようである。

端島については、先に記した産業遺産国民会議が「軍艦島の真実」というウェブサイトを作成し、端島には強制労働はなかったと映像を流している。そこでは、朝鮮人と日本人とは一緒に働いた、端島には人情があって人間味のある扱いをした、虐待はないとし、戦時中に強制連行され、ひどい虐待を受け、人権を蹂躙されたとする主張は事実ではなく、強制連行や虐待はねつ造であると断定している。元端島住民の郷愁を利用し、端島炭鉱の世界遺産登録による観光地化にむけ、歴史の歪曲がすすめている。

高島炭鉱には高島・端島の両方に4000人近い朝鮮人が強制動員された。それは石炭統制会や中央協和会の統計資料から明らかであり、日本政府と企業による集団的動員だった。動員現場では、「内鮮一体」「鉱業報国」の名で労働が強制され、労務担当による殴打は日常的だった。動員された朝鮮人は、孤島の海底の深部で炭鉱労働を強制されたため、逃れることができない監獄、地獄のような場所だったと語っている。採炭現場での労働者の共同性をもって、動員の強制性をうち消すことはできない。動員された人々にとって、端島は「仲の良いコミュニティ」などではなかった。

なお、長崎市が編纂した『新長崎市史3近代編』(2014年)では、高島炭鉱が日本近代史での「苦難の歴史」・「負の遺産」を示す社会教育の場であると指摘している。明治以来、甘い言葉で炭鉱に連れてきて、暴力で働かせ、多くの死者が出たとし、戦争中は朝鮮半島、中国からも連れてきて同じことがなされたと記している。このような歴史認識を共有していくことが求められる。

 

8 長崎造船所、反省のない軍需生産の展示

長崎造船所のはじまりは、江戸幕府が艦船の修理のために長崎熔鉄所をつくったことである。西南戦争後の1879年に第1船渠ができ、1887年に長崎造船所は三菱に払い下げられた。三菱経営の下、日清戦争後の1896年に第2船渠、日ロ戦争により1905年に第3船渠ができた。三菱は戦争で利益をあげた。1909年にはジャイアント・カンチレバークレーンをイギリスから購入した。

三菱は軍需生産で莫大な利益を上げた。長崎市の浦上川沿いの平地を三菱の兵器、製鋼、造船、電機の工場が、長崎の湾に沿って三菱の造船所の大きな工場が占めた。1941年のハワイの真珠湾攻撃では、長崎で製造された航空魚雷が使われ、長崎への原爆は三菱の工場群を狙って投下された。そのため、アメリカとの戦争は長崎で始まり、長崎で終わったといわれている。戦時に、長崎造船所に動員された朝鮮人は6000人を超えた。

長崎造船所の木型場は、現在は史料館になっている。1898年に建築され、長崎造船所では最も古い建物である。展示を見ていくと今も昔も軍用艦を建設してきたことがわかる。戦争でその兵器が使用されたことへの反省はない。

史料館の年表には、水雷艇白鷹、駆逐艦白露、巡洋戦艦霧島、戦艦日向、戦艦土佐、巡洋艦古鷹、戦艦武蔵、空母隼鷹、制式空母天城などが建造されたことが記され、写真や建造資料なども展示されている。

展示からは、これらの軍艦のほかに、駆逐艦神風、潜水母艦迅鯨、巡洋艦川内、巡洋艦青葉、巡洋艦鳥海をはじめ多くの軍艦が建造されたことがわかる。それとともに米軍の攻撃により、沖縄、ブーゲンビル、フィリピンなどの南方で多くが沈没したことがわかる。

貨客船の軍艦への転用の歴史もわかる。橿原丸は客船として建造が計画されたが、建造途中に海軍が買い上げて空母に改装され、空母隼鷹とされた。新田丸、八幡丸、春日丸なども海軍に徴用され、特設空母に改装されたが、潜水艦による攻撃で水没した。ほかにも多くの貨客船が建造されたが、戦時動員され、沈没したものが多い。特攻兵器である特殊潜航艇の蛟龍も建造した。

沖縄で発見された九一式魚雷の実物も展示されている。この魚雷は三菱長崎兵器で航空機用の魚雷として、1932年から45年にかけて約9000本製造されたものである。説明板には「唯一高速力・高高度からの投下に対応した強度・信頼性を有し、命中率及び破壊力ともに世界に冠たる性能を有していた」とある。真珠湾攻撃でも使用された。

戦後は、最新のイージス護衛艦のこんごう、きりしま、みょうこうをはじめ数多くの軍艦を建造した。展示には建造艦のしおりや写真が展示されている。

ここでは、艦船の建造能力や魚雷の性能を誇示してはいるが、船と共に海没した人びとへの追悼や戦争への反省を示すものはない。戦時の学徒報国隊、動員学徒のカシメ作業風景、徴用令書、原爆後の写真なども展示されているが、朝鮮人や連合軍捕虜の強制労働に関する展示はない。

史料館には解説担当がいて、展示を案内しているが、そこに三菱の兵器生産への反省や批判の言葉はない。批判的な視点を持ってこの展示をみれば、過去から現在に続く、反省なき三菱の兵器生産の歴史を知ることができる。

 

9 グラバー、「死の商人」から「志の商人」へ

トーマス・グラバーはジャーディン・マセソン商会の仕事のために長崎に来た。この商会は1832年に中国の広州で設立され、アヘン貿易で利益を上げ、横浜にも支店を出し、武器類を売買した。グラバーはこの商会の代理店として、1859年に長崎でグラバー商会を設立し、武器や機械・船の貿易をおこなったのである。長州など反幕府側だけでなく、幕府側にも武器を売って利益をあげた。また、イギリスへの長州や薩摩からの留学も支援した。グラバー商会は明治維新後、諸藩から代金を回収できず、武器も売れなくなり、1970年に倒産した。その後は高島炭鉱の事業を通じて岩崎弥太郎と関係を強め、三菱の顧問となった。

グラバー邸の建設は1863年のことであるが、グラバー邸の解説板には、次のように記されていた。

「幕末の動乱期に対立する双方の派閥に武器等の取引をしていたことから、グラバーには「死の商人」という異名が付けられました。ですが、現在の研究では、他の多くの外商達も水面下でグラバー同様の取引を行なっており、グラバーにとって武器等の売買は社会情勢に合わせた一部の貿易活動の一環にすぎなかったと考えられています。加えて、グラバーは幕末の志士たちに私財を投じてまで援助を行なっていたことから「志の商人」とすべきではないかとも言われています」。

このように現地では、「死の商人」から「志の商人」への書き換えがなされようとしている。「現在の研究」が何かは記されていないが、世界遺産認定に合わせて日本の産業化に貢献した人物としての評価を強めている。歴史を都合よく書き換えようとしているわけである。

以上、三池炭鉱、高島炭鉱、長崎造船所の順に展示の状態を見た。産業遺産は、資本(技術)、労働、国際の3つの視点でみることが大切である。しかし、現時点の明治日本産業革命遺産の展示は、資本形成、産業化を賛美するものであり、そこでの労働の歴史や対外関係、戦時の強制労働などについては十分な展示がない。植民地支配を認めず、過去の戦争を正当化する動きに連なるような展示内容もある。

展示を資本・労働・国際的視点でバランスよく改善し、戦時の朝鮮人の強制労働についても被害者の証言を含め、明記すべきである。

 ※この調査は201910月におこなった。                   (竹)