「強制労働はなかった」・歴史否定のトリック        

 

「そもそも朝鮮人強制連行や強制労働などはなかった」、「反日種族主義の主要な主張の一つである戦時労働者の『強制連行』=『奴隷狩り』と『強制労働』=『奴隷労働』論を根絶したい」と、李宇衍は『ソウルの中心で真実を語る』(2020年4月、扶桑社刊)に記す(28、33頁)。

 強制連行を奴隷狩り、強制労働を奴隷労働と同一化して示すことは、強制連行や強制労働の歴史を否定するためのトリック(詭計)、人を欺くための手口のひとつである。ここでは、そのような手口についてみていきたい。

この本を書いた李宇衍は、1966年に全羅南道の光州で生まれた。高校生のときに民主化運動に参加し、高校を中退した。検定試験で高卒資格を取り、成均館大学に入学、1987年には学生運動の最前線に立った。火炎瓶を投げ、警官隊の催涙弾で腕を負傷したこともあった。総学生会では学術部長となり、マルクスレーニン主義派の側で革命を志向したこともあった。『資本論』に親しみ、進学した大学院では李栄薫の下で学んだという(『ソウルの中心で真実を語る』37~49頁、以下、書名略)。現在は安秉直や李大根が設立したニューライトの拠点、落星台経済研究所の研究員である。

この落星台経済研究所の理事長は李栄薫、所長は金洛年である。かれらは李承晩学堂を設立し「反日種族主義」批判を宣伝している。そこで李宇衍は、強制連行を否定する論を提示するとともに、慰安婦と労務動員労働者銅像設置に反対する会や、反日民族主義に反対する会などを立ち上げ、水曜デモに反対する街頭行動もおこなっている。

李宇衍は、韓国が先進国になる近道は日本との友好関係を維持することであり、反日は先進国への発展妨げるものであるとし、このような行動に参加しているという(52頁)。

 

1「強制連行や強制労働はなかった」のか

 

李宇衍の論を具体的にみてみよう。彼は2019年7月、日本の「国際歴史論戦研究所」が主催したジュネーブでの報告会で「韓国の『強制徴用』の神話」の題で話した。その内容は、次のようなものである。

≪朝鮮人労務動員は強制連行、奴隷狩りではなく自発的意思または徴用という法的手続きによるものである。日本へは高賃金を求めての渡航があり、密航も行なわれた。このような状況で強制連行をする理由はなかった。強制連行や奴隷狩りによる労務動員はありえないことであり、実際に存在しなかった。

朝鮮人労働は民族的差別による強制労働や奴隷労働ではなく、通常の労働、または日本人と同じ条件での戦時労働である。動員者の46%が炭鉱の地下労働でありつらいものであったが、日本人と同等の待遇だった。労働災害率は高かったが、日本の労働需要と朝鮮の労働供給がもつ特性によるものである。差別して作業の配置を決めたわけではない。賃金は正常に支払われた。賃金での格差は熟練度と経験の違いである。

処遇での民族差別はなく、制度的、組織的、継続的差別は存在しなかった。作業時間以外の日常生活は自由であり、外食、飲酒、特別慰安所に行くなど自由であった。8・15前後の例外的混乱期を除けば、契約終了と共に貯金と各種積立金はきちんと回収された。≫(73~84頁要約)

李は、このように朝鮮人強制連行と強制労働を否定する発言を行なっている。戦時の労務動員である強制連行・強制労働は、李が言うような奴隷狩り・奴隷労働と同じではない。強制労働と奴隷労働の内容は異なるものであるが、李は強制労働を奴隷労働と同一化し、奴隷状況ではないことを示し、強制労働を否定しようとする。

『ソウルの中心で真実を語る』に収録された李のジュネーブ報告文には、「1939年9月に制定された国家総動員法」とあるが、同法制定は1938年4月である。動員での徴用の適用を「1944年10月以降」とし、徴用の終了を「1945年3~4月」とする(74・75頁)。別の頁でも徴用の適用開始を10月としているが(213頁)、9月と記す箇所もある(187頁)。

実際には、徴用による動員は44年9月から始まり、45年6月まで続いた。のちにみる長崎県の江迎炭鉱でも、厚生省勤労局調査名簿から、45年5月の動員を確認できる。李の記述は不正確である。

強制的な連行と労働を示す資料は数多い。しかし李はそのような資料は示さず、都合のいい事実を示し「強制連行や強制労働はなかった」と、トリックを仕掛ける。

強制性を示す資料や証言は数多い。いくつかの資料や証言をみてみよう。

2 動員に強制性はなかったのか

 

まず、動員である。北海道炭礦汽船(北炭)による官斡旋での動員の状況を示す資料に「チロ送出情報2」(『釜山往復』所収、北海道大学付属図書館北方資料室蔵)がある。「チロ」とは、北炭が朝鮮人を送出対象とみなして使っていた言葉であり、蔑称である。

1944年6月19日の北炭平和炭鉱向けの全羅北道茂朱郡100人の動員では、6月18日に乗車駅の永同を出発する予定であったが、輸送バスの運行が充分でなく、郡庁の意向で15日を集合日とし、15日当日には88人が集合した。翌日、査証直前に5人を追加して93人となったが、査証の結果81人になった。しかし、郡から駅までの輸送は17日に2回、18日に1回しかできず、さらに旅館の構造から4箇所に見張番を要するなど条件が悪く、連行者も連日の仕事で疲労が重なった。そのなか17日の警戒警報の夜から18日にかけて20人の多数が逃走し、永同出発は61人となった(その後、さらに5人が逃走、着山は56人となった)。

6月25日の平和炭鉱向けの全羅北道長水郡第2次100人の動員では、長水から獒樹(オス)の間の労務者の輸送は1日1回のバス運行による他はなく、獒樹出発が19日のところ、郡集合は15日となり、4日間の宿泊による労務者の逃走が懸念された。旅館の修理や張番等に留意して、16日34人、17日35人を輸送するなど、 獒樹まで108人を引率し、出発当日の19日早暁午前1時半まで現員を確保していたが、2時頃、部屋の窓を破って闇夜に乗じて24人の大量逃走が企てられ、84人となった。急病の1名を残し、乗車直前に2人が逃走し、ついに81人の乗車となった(その後も20人を超える逃走があり、着山は61人だった)。

6月28日の北炭新幌内炭鉱向けの全羅北道井邑郡100人の動員では、100%の送出に向けて補導員を督励・奮闘した。その結果、郡での集合は152人となり、厳重な詮衡により100人乗車が可能であると思っていたが、宿舎から駅までに2人が逃走し、乗車人員は98人となった。このまま輸送できればよかったが、乗車後、麗水までに42人が逃走した。松汀里駅乗換時において12人が逃走した以外は、すべて列車進行中に窓から飛び降りて逃走した。このように多数の途中逃走者をだしたが、原因は送出に無理があること、乗客満員のために労務者を客車3輌に分乗させることを余儀なくされ、充分な警戒ができなかったことである(着山は54人となった)。

※資料から動員例3つを要約し、他資料から補記した。

動員は割り当てられ、駆り集められ、見張りを付けてなされた。動員先に集合させられても、逃走し、場合によっては列車の窓から命懸けで飛び降りることもあったのである。このように企業の動員文書から、当時の動員が自発的意思によるものではないことがわかる。動員は意思に反するものであり、強制連行であった。李はこのような企業側が作成した強制動員の状況を示す資料を提示しない。

 

3 労働に強制性はなかったのか

 

つぎに労働である。労働の強制性についても数多くの証言がある。ここでは常磐炭田の入山採炭(福島県)に動員された朝鮮人の証言を2つみてみよう(ともに石田眞弓『故郷はるかに』アジア問題研究所1985年から要約)。入山採炭は1944年3月に磐城炭鉱と合併して常磐炭鉱となったが、常磐炭田の主要炭鉱である。

はじめに林潤植の事例である。

林潤植は1942年5月、21歳のときに慶尚北道慶州から連行された。2年契約の募集で集められ、厳重な監視のなか釜山から下関を経て、湯本の入山採炭に連行された。労務係は、寮では自由行動はできず2年辛抱すること、逃げたら死ぬことになると脅した。名を「深川五郎」とされ、青葉第四寮に収容された。入坑し、先山について仕事をさせられた。一日中泣き通し、死んでもこんなところにいられないと思った。食事もだんだんと悪くなり、豆かすになった。風邪などでも仕事に出され、仕事を休むと料理の屑のようなものしか出されなかった。逃亡して捕まると、入坑・昇坑のときに並ばせ、皆の前で火箸を焼いて指に挟ませたり、コンクリートの上に座らせて水をかけて叩いた。一人が逃げると他の9人が1か月の間、連帯責任をとらされ、酷い目にあった。強制貯金され、通帳も渡されなかった。同胞が死ぬと棺桶にいれ、監視をつけて朝鮮人に焼き場に持っていかせた。涙の乾く間もなく坑内に駆りだされた。満期が来ても、戦局は継続しているからもう1年いろと言われた。1年延長して帰国を求め、1945年6月に帰ることになったが、清算したところ120円だけだった。7月に新潟に行ったが、乗船する船は爆撃で破壊され、帰国できず、解放後の9月上旬に湯本に戻った。

林は「わし達の命を何とも思っちゃおらん」「まるで犬扱いだ」「あのころの辛さといったら苦労なんてものじゃなかった」と語る。

この証言から、監視による動員、自由の束縛、非人間的な扱い、氏名の否定、暴力による労働強制、労働期間の強制延長、強制貯金、不十分な賃金清算などを知ることができる。

つぎに、李八竜の事例をみよう。

李八竜は1943年8月に慶尚北道蔚珍郡から連行された。2年契約で100人が蔚珍から大邱までトラック3台で送られ、そこから列車で釜山に連れて行かれた。下関から入山採炭に連行され、「君山五郎」とされた。日本語ができるものが班長とされ、訓練が1週間ほどあった。青葉寮は8畳に7~8人が入った。夏は南京虫がでた。坑内は40~50度の暑さであり、熱で倒れることがよくあった。寮の事務所では奴隷に等しい扱いを受けた。反抗的だとすぐに入牢させられた。処罰によって耳が遠くなった人、失明させられた人もいる。逃走して発見されると半殺しにあった。怪我で通院中に同郷の3人が逃走したため、知り合いということで物置にぶち込まれ、殴る蹴るの暴行を受けた。8・15解放時に残ったのは30人、ほとんどが逃亡し、2人が死亡した。現場での作業中に8・15を迎えた。

この証言からも、集団的な連行、連行先での虐待、殴る蹴るの暴行、奴隷のような扱い、その中での逃亡や死亡を知ることができる。労働現場での強制性は明らかである。

李宇衍は、強制労働に関する証言や資料での間違いなどを示して、強制労働のすべてを否定する。また、賃金が渡されたことを示し、強制労働ではなかったと主張する。それはトリックである。

 

4 連行者の抵抗はなかったのか

強制的な動員と労働の中で、常磐炭鉱では連行朝鮮人500人が抵抗する事件が起きている。徴用発動により動員が強化された時期である。

湯本坑の青葉第一寮に収容されていた官斡旋による第1次動員者は1944年9月21日に契約期限が満了することになっていた。しかし、会社側は期間の延長を強要した。そのため江原道伊川からの連行者53人が9月30日の帰国を求めて退出した。これに対し、警察は全員を国家総動員法違反の容疑で検束、全員に1年の延長を承諾させた。

この湯本坑の動きに連動して、内郷坑の官斡旋第2次の江原道江陵からの動員者66人が9月26日の満期とともに休業し、湯本坑青葉第三西寮の300人、高倉坑第一西寮の75人も連帯して合流した。警察は休業した第2次の動員者66人を検束し、期間延長を強要した。休業中の375人は、警察の説得により就業を強いられた(『特高月報』1944年10月分の記載に補足)。

この抵抗事件から、動員された人々が総動員法で人身を拘束され、警察の監視下、労働期間の延長を強いられ、労働を強制されたことがわかる。

常磐炭鉱では「○○一郎」から「○○十郎」という名で呼び、連帯責任を負わせ、警察力を使って労働を強制していた。植民地支配のもとで民族の名を奪い、日本の戦争のために集団動員する、そこに民族差別があるのである。

李宇衍は、動員と労働が自由な契約によるものであり、抵抗事件などなかったかのように記載しているが(31頁)、ここに示した事例からも李の主張は事実に反している。

 ※北海道炭礦汽船と常磐炭鉱での動員の詳細は竹内『調査・朝鮮人強制労働①炭鉱編』参照。

 

5 大法院判決は「歴史的虚構」によるものなのか

 

 李宇衍は、強制動員・強制労働を「歴史的虚構」とし、大法院判決を誤審と批判する。李は、強制動員、強制徴用は1939年から45年までの6年間の動員を強制とみなすものであるとし、強制連行は研究者が捏造した概念であるという。また、朝鮮青年にとって日本はロマンであり大金を稼げるチャンスの土地であり、強制的に日本に連れていくのは制度的に不可能であり、経済状況下で不必要なことだったという。そして賃金は正常に支払われ、自由な生活があったと記す(86~91頁)。

 しかし、強制徴用、強制動員は研究者による捏造ではない。解放直後には、戦時の動員を「強制動員」「強制労働」「強制使役」「強制労務」と表現し、その動員被害の回復が要求されている。動員では拉致だけでなく、だまして動員する、詐欺・欺罔による動員もあった。それも強制連行の一形態である。

日本への労務動員は甘言や暴力による強制動員であった。戦時の日本への労務動員は80万人近いものであり、強制的に動員しなければ、日本政府が策定した労務動員計画は充足させることができなかったのである。

李宇衍の、強制動員・強制労働を歴史的虚構とし、研究者による捏造とみなす論、動員先での日本人と朝鮮人の賃金格差を調べて民族差別がないとし日常生活は自由とする論などは、動員と労働での強制性を隠ぺいするトリックにすぎない。

また李は、強制労働の定義で「特に報酬のない無賃金労働を指す」(85頁)と書き加えている。しかし、強制労働の定義は、本人の意思に反する労働の強制である。報酬のある強制労働は存在するのであり、賃金があるから強制労働ではないとみなすことはできない。李は、賃金問題を強制労働の定義にすり込ませる。これも、賃金の支払いを示して強制労働を否定するためのトリックである。

 

6 日鉄原告の主張は「嘘」なのか

日本製鉄の工場には募集・官斡旋・徴用の動員により、判明分で8,000人の朝鮮人が動員された。日本製鉄は1944年1月に軍需会社に指定され、募集や官斡旋で動員された労働者は現員徴用され、徴用扱いとなった。現場では意思に反する労働がなされていた。

日鉄裁判の原告である呂運澤の証言をみてみよう。呂は1923年に全羅北道で生まれ、動員当時、平壌の床屋で働いていたが、1943年9月ころ、大阪工場の募集広告を見た。待遇はいい、2年勤めれば技術者資格をとれ、朝鮮に戻れば資格者として働くことができるというので、募集に応じた。協和訓練隊に入れられて軍事的訓練を3日間受け、釜山から大阪に動員された。寮では格子窓の一部屋に4人が入れられ、だまされたと感じた。軍事訓練では動作の遅いものは銃で殴られた。クレーンを操作し、燃える1,000度以上の平炉に材料を運ぶ仕事をさせられた。朝鮮人は日本人指導員からよく殴られた。給料の具体的な額は知らされず、小遣い程度に2~3円が渡され、あとは強制貯金させられた。1944年2月ころ、寮の舎監に募集で来た朝鮮人は徴用されたと言われた。空襲や事故で亡くなった者もいた。1945年6月、朝鮮の清津に異動となった。貯金通帳は渡されず、清津では1円も受け取れなかった(訴状を要約)。

呂運澤は、会社は騙して強制的に連れてきて酷使し、賃金も支払わず、戦後、政府の指示で供託したが、その責任を取るべきと訴えた。

その訴えに対し韓国大法院は、日本の不法な植民地支配や侵略戦争の遂行に直結した日本企業の反人道的不法行為を前提とする強制動員被害者の慰謝料請求権を認定した(強制動員慰謝料請求権)。判決は企業の責任として、未払金の支払いではなく、強制動員に対する慰謝料請求権を認定したわけである。判決は原告の強制動員に関する主張をほぼ受け入れた。

李宇衍は、日本製鉄の原告の主張に嘘があるという。李は、原告の未払金額を示し、未払金額から2年の動員中に賃金が正常に支払われていたとみなさなければならないだろうと記す。貯金通帳と印鑑を寮長が保管し、最後に返さなかったというのも信じられないとも記す。原告は賃金をもらえなかったと主張するが、大法院が賃金について実態を追求していないという(93~97頁)。

李宇衍は、判決の主眼である甘言による強制動員、暴力による労働の強制については言及せず、日鉄訴訟原告の賃金の受け取りや賃金清算の可能性を示し、それをもって原告の主張を嘘と決めつける。

しかし、呂運澤の未払い金は、供託文書では大阪製鉄所分が495円ほどである。数か月分の給与に値する金額であり、未払いを主張するにあたって十分な額である。原告の主張を嘘と決めつける行為は、原告の尊厳を侵す行為でもある。

また李宇衍は、日本製鉄の資料が日本製鉄に1991年まできちんと保存され、研究者がその資料を閲覧したとも記している(93、96頁)。しかし、日本製鉄にどのような資料が保管され、だれが閲覧したのかについては記していない。典拠資料名や閲覧者については明示して記述すべきであろう。

 

7 不二越で「給料は正常に支払われた」のか

 

 李宇衍は、不二越鋼材工業の女子勤労挺身隊員への賃金不払いについて、次のように記している。

≪不二越は当時、銃弾、爆弾などを作る会社であり、約1,000人の朝鮮人女子勤労挺身隊を動員した。その供託資料では、未払金の内訳に退職不足額、退職積立金、厚生年金、国民貯金、預金があるが、賃金はない。ということは、賃金は正常に支払われた。挺身隊契約は1年間だが、満1年になる前に戦争は終わった。供託金額は9万325円24銭であり、債権者数は485人であり、一人平均186円24銭になるが、研究者はこれがどの程度の価値か調べようとしていない。江迎炭鉱では運搬夫の1か月の賃金は110円程度であり、当時の186円は女子勤労挺身隊の1~2か月の給料となるが、高等法院の判決1億ウォンはこの未払金の270倍に相当する≫(98~100頁要約)。

ここでの李の記述には、誤りが多い。『不二越25年史』には当時、海軍の高角砲や機銃の部品を製造し、陸軍の機銃弾丸の製造もおこなったと記されているが、爆弾の製造をおこなったとは記されていない。朝鮮女子勤労挺身隊の動員数は約1,100人であり、約1,000人ではない。不二越鋼材工業による挺身隊への動員は1944年5月からであり、6月から現場で労働し、1年以上動員された少女もいる。満1年になる前に戦争が終わったのではない。44年8月の女子挺身勤労令公布以前から、朝鮮女子勤労挺身隊の不二越への動員は始まっていたのである。

不二越鋼材工業の供託金についての明細を示せば、退職金が1252円44銭・441件、退職積立金が510円57銭・122件、厚生年金が3464円82銭・184件、国民貯蓄が2万9226円17銭・459件、預金が5万5188円19銭・430件である。また、不二越鋼材工業東富山製鋼所による供託は厚生年金が1395円9銭・34件、貯金が72円・4件である(『経済協力韓国108 帰還朝鮮人に対する未払賃金債務等に関する集計』大蔵省文書、国立公文書館つくば分館蔵)。

不二越の「朝鮮人労務者調査の件」にある「半島労務者未払金調書」では朝鮮女子挺身隊分432名、4万4426円88銭があり、一人当たりの金額を102円84銭としている。また、「朝鮮人労務者等の未払金に関する件」では、供託金額は9万325円24銭、債権者数485人とする。ここには男性の朝鮮人徴用工の供託金額も含まれているとみられる(「朝鮮人労務者調査の件」、「朝鮮人労務者等の未払金に関する件」は『不二越訴訟裁判記録』所収)。

李のように合計金額を債権者数で割り、それを勤労挺身隊員の平均額とみることはできない。また、100円を超える未払金は、少女たちにとって3か月分ほど金額になる。

女子勤労挺身隊員の賃金は日給1円ほどの低賃金であるが、李は石炭坑夫の賃金と同等に論じているが、それは労働者の賃金実態についての無理解を示している。

女子勤労挺身隊員の1日の賃金を詳しくみておけば、1944年6月の稼働時が76銭であり、以後84銭、1円8銭、1年後に1円12銭と昇給した。しかし、日給80銭で30日働いて24円、1円10銭で30日働いて33円である。残業をして45円ほどになるというものである。そこから、強制貯金や食費などが引かれたのである。

不二越の証言では、「給料の封筒がないどころか、中身もくれない。戦争が終わったらくれると、貯金しておいたからと、だから5円ずつ小遣いで、1回か2回かもらった記憶がある。(李〇オ)」、「給料、私は一銭ももらってないよ。朝食が10銭、昼食が12銭、夕食が10銭、合わせて32銭だったの。その残りは、貯金してくれるから韓国に帰ってからそれをもらって使ってと、韓国へ全部送るからと言ったのに、どこにあるのよ。一銭も使ったことない(権〇順)」、「月々いくらか給料をくれたの。鉛筆を買うぐらいだったっけ(李〇トク)」という(『「朝鮮女子勤労挺身隊」労務動員の調査』日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会2008年、※証言者名の〇は真相糾明委員会による処理)。

1日で1円ほどの賃金から1日の食費が30銭ほど引かれる。さらに、積立金、強制貯金、会社預り金などが引かれ、1か月分の支給額はわずかなものであり、鉛筆を買う程度の小遣いが与えられた。これが実態であろう。原告が言うように「給料は正常に支払われていない」のである。

韓国高等法院の判決は、甘言で欺罔して連行し、低賃金で工場労働を強制したこと、挺身隊動員のために戦後に差別を受けたことなど、強制動員への慰謝料請求権を認めたものである。李のように当時の未払金の平均額と慰謝料とは、対比すべきものではない。

 

8 賃金統計分析で強制労働を実証できるのか

李宇衍は、長崎県にあった日窒鉱業開発株式会社江迎炭業所(江迎炭鉱)の1944年8月の賃金台帳を使い、統計分析を行なっている(「1944年、日本の江迎炭鉱における朝鮮人坑内夫と工作係の労働と賃金」『ソウルの中心で真実を語る』第2部所収)。その分析結果は、強制労働とみなす通説を支持するものではないとする。

李は賃金台帳を分析し、1日10時間労働が多く、ときどき12時間労働が現れるとしている。論文には朝鮮人坑内夫の李鐘淳の個表が示されている。李鐘淳の個表では、全31日のうち、休みは3日であり、毎日が12時間の労働である。追加して坑道工事で10時間労働した日も1日ある。労働日数は28日、就業時間は346時間に及ぶ。

李鐘淳の個表からは、1915年生まれであり、雇入日が1940年3月3日であること、家族手当の記載から家族持ちであること、一日12時間働き、5円から6円ほどとなり、平均すると一日5円40銭ほどであること、月に240円90銭という賃金総額から、保険料、税金、貯金などが控除され、実際の支給額が157円15銭であったことなどがわかる。貯金では地域貯金、職域貯金、婦人会貯金、国債貯金、協力貯金など計46円が引かれている。個表の明細項目からは分会貯金や寮貯金等などもあったことがわかる。

李宇衍は李鐘淳の台帳を示すことで、創氏改名ではなく本名であり、賃金が高額であることをあげて賃金差別がないことを示し、民族差別はなかったと言いたいようである。けれども、賃金の支給があったから民族差別がなかったと結論することはできない。

また李宇衍は個別の労働者の具体的な分析はしない。そのため、他の377人の朝鮮人労働者の具体的な賃金の状況について知ることができない。個表からは具体的な賃金状況や動員日などを示すことができ、そこから朝鮮人労働者の置かれた実態の一端が見えてくるはずだが、それがない。統計で平均値を示すだけでなく、一人ひとりの賃金状況を明示したうえで、分析すべきであろう。けがで仕事を休んだ者、逃亡した者などの台帳なども残っているとみられる。月に3円ほどの低賃金の労働者もいたというが(169頁)、そのような労働者の個別の分析が求められる。

民族別に集計された平均値が示されるが、朝鮮人の採炭での1か月の平均労働時間は265時間10分、給与は105円3銭であり、日本人は222時間8分で153円33銭である(168頁表1)。この数字からは、朝鮮人は長時間労働しても低賃金であったということもできるが、李は熟練度、労働生産性によるものとし、差別とはみなさない。

李は「統計分析結果は、朝鮮人の労働を個人の意志に反する『強制労働』として把握する通説を支持しない」(175頁)とするが、「賃金台帳」から強制労働の要件である拘束性や暴力的管理などを示すことは困難である。個別の台帳を詳細にみていけば、意思に反する労働の一端を示す記載がみられることもありえるが、個別の分析のない統計分析では、意思に反する労働の存在や民族差別・強制労働の実態を示すことができないだろう。にもかかわらず李はこの分析をもって強制労働の通説の否定に利用しようとするのである。

 

9 控除金で強制貯金より寮食費の額が多いとは

李宇衍は同論文で、控除金についても分析を行なっている。朝鮮人坑内夫の1か月の控除金平均額は58円14銭、貯金の平均額は25円84銭である。日本人は34円66銭と18円65銭である(176頁)。

李宇衍は、日本人の月給は朝鮮人より31%ほど高いが、これを生産性と家族手当によるものとみなす。控除後に引き渡される賃金は民族間で大きな差があったが、朝鮮人には41%が引き渡されていたとする。強制貯金の民族差は少なく、それよりも寮食費15円の差が大きいとする。さらに単身でも、社宅や一般住宅にしていた朝鮮人の存在を指摘し、強制労働説を支持しない新事実とする(199頁)。

このような李宇衍の分析からは、民族差別や強制労働の実態は示されない。分析は、特徴的な朝鮮人の個表を複数抽出して、具体的に行なわれるべきである。複数の朝鮮人の賃金状況を示し、動員日、労働日、賃金高、各種貯金、寮食費、税金、借金などを具体的にみることからはじめるべきであろう。

『ソウルの中心で真実を語る』に掲載された論文での江迎炭鉱の1944年の賃金台帳は九州大学の記録資料館(産業経済資料部門)に所蔵されている。その所在は『九州石炭礦業史資料目録』に記されてはいるが、個人情報を理由に公開はされていない。筆者は2012年に請求したが、閲覧を拒まれた。資料は九州大学に関係を付けた者にだけではなく、広く公開され、実態解明に利用されるべきである。なお、李宇衍は参考文献でこの賃金台帳の資料名をあげているが、その所蔵先については示していない。

李は、強制貯金の民族差は少なく寮食費の差が大きい、単身でも社宅や一般住宅に居住していた朝鮮人が存在するとし、強制労働説を支持しない事実とする。しかし、朝鮮人への強制貯金項目が数多くあり、寮食費15円の倍以上が貯金とされた。それが移動の自由を拘束するために利用されていたことは事実である。既住朝鮮人は単身の場合でも寮に住んでいない者がいたから、朝鮮からの動員者と既住者を区別することもなく、寮への不居住を理由にし、強制労働の否定の材料とすることはできない。

寮食費や寮不居住者の存在を示すことで、強制貯金や強制労働の問題を後景に押しやること、それもトリックである。

10 江迎炭鉱の1944年の在籍数については史料がないのか

この論文で李宇衍は、1942年6月までの動員数は中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」から639人が動員されたことを示し、朝鮮人の「1944年の在籍者数は400人以上と推測されるが、これについては資料がない」と記す(163頁)。

しかし、1944年の動員については複数の資料がある。

1943年の江迎炭鉱への動員数からみておけば、石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」(長澤秀『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集Ⅰ』所収)からは、この年に371人が動員されたことがわかる。動員状況を具体的に示せば、江迎炭鉱へと1943年4月に忠清北道から29人、残数を5月に16人送出した。6月には全羅北道から98人、8月には全羅北道から70人、9月にはその残数14人が送出された。

50人、100人という動員割当をこなすために残数を指定し、執拗な動員をおこなっていたのである。

1943年から44年にかけての動員状況については石炭統制会「労務状況速報」「労務者移動状況調」「給源種別労務者月別現在数調」などから判明する(長澤秀、前掲資料集所収)。これらの資料から江迎炭鉱での朝鮮人の現在員数の変化をみれば、1943年5月に422人であったが、43年11月に504人、44年5月に524人、44年8月に583人、44年10月に645人と増加したことがわかる。1944年12月には639人となったが、その内訳は、既住24人、移入615人(徴用87人、その他528人)である。ここでの「その他」は募集や官斡旋での動員者であり、この時点で現場に残っていた朝鮮人である。徴用発動による動員の強化は、現場での拘束性をさらに強めるものになっていた。

 このように石炭統制会の資料からは、江迎炭鉱での1944年の在籍数は「400人以上」ではなく、「600人以上」ということができるのである。

 

11 江迎炭鉱への朝鮮人動員は1500人以上

 

李宇衍は資料として利用していないが、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」の長崎県分に江迎炭鉱の名簿がある。この名簿の作成時期は1946年7月5日であり、戦時に動員されていた朝鮮人約680人が記載されている。このうち450人ほどに動員年月日の記載があり、その約半数の240人ほどが1943年以降に動員された朝鮮人である。住所や動員年などが不明なものは230人ほどである。逃走者は328人であり、逃走者以外は異動状況が記されていない。死亡者についても記されていない。

この名簿には動員者すべてが記されていないが、労務動員計画によって募集・官斡旋・徴用の形で、各郡から集団的に動員された状況がわかる。石炭統制会や中央協和会の資料と照合しながら動員状況を示すと、つぎのようになる。

江迎炭鉱への動員は、日本政府から1939年に150人の承認を受け、39年12月からはじまった。最初は全羅北道の益山・沃溝からの動員だった。

1940年、41年にはそれぞれ200人の動員が承認され、40年3月全羅北道南原、41年12月全羅北道南原・任実・淳昌から、42年5月慶尚南道昌原などからの動員があった。さらに42年10月全羅北道高敞・全羅南道羅州、42年12月全羅北道高敞・井邑および全羅南道麗水・長興などと動員が続いた。

 1943年の動員承認数は400人であり、43年4月・5月忠清北道陰城、6月全羅北道錦山、8月全羅北道扶安・井邑、11月江原道江陵・金化からの動員がすすめられた。

 1944年にも同様に動員がなされ、8月までに全羅北道茂朱、京畿道加平、全羅北道南原、江原道高城、全羅北道扶安などから200人ほどが動員された。8月から11月までに現在員数で100人以上の増加があった。動員状況から44年の動員承認数も400人規模であり、これに近い動員があったとみられる。

 1945年には、1月京畿道長湍、2月忠清北道清州、3月京畿道楊州、5月忠清南道洪城・青陽と、動員は5月まで続いた。

このように江迎炭鉱への朝鮮人動員は、1942年6月までに639人が動員され、43年に約400人が動員された。44年にも同様の動員がなされ、45年に入っても動員が続いた。動員数は1,500人を超えるものになる。

また、日窒鉱業開発は45年2月に近隣の日満鉱業江里炭鉱を買収し、傘下とした。当時、江里炭鉱には500人ほどの朝鮮人が在籍し、44年12月には全員が徴用扱いとされていた。かれらも江迎炭鉱の傘下に入った。これを加えれば、45年までの江迎炭鉱での朝鮮人動員者数は2,000人を超えるということができる。

厚生省調査の江迎炭鉱の約680人の名簿はこれらの動員者の一部を示すものである。このような動員と労働の中で亡くなった朝鮮人もいたはずであるが、江迎炭鉱での朝鮮人死者は一人だけが判明している。死者の状況は未解明である。

 

12 朝鮮人1100件以上、11万円を超える未払金

 

「帰国朝鮮人労務者に対する未払賃金債務等に関する調査統計」『経済協力韓国105 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』(大蔵省文書、国立公文書館つくば分館蔵)からは、江迎炭鉱では現金(給料・退職金・貯金)で960件・10万8512円40銭、証券で154件・3,270円の計1,100件以上、11万円を超える未払金が供託されたことがわかる。李宇衍はこの実態についてはふれない。

江迎炭鉱の厚生省調査名簿をみると、未払金が個別に記されている。たとえば、1943年8月に全羅北道の井邑から連行された丁炳喆(1921年生まれ)は採炭夫とされたが、45年7月に逃走した。貯金で954円ほど、工賃で38円ほどが未払いのままである。2年近い労働での多額の強制貯金を捨てての逃走である。名簿には工賃、退職手当、貯金が支払われていない者が多数みられる。

この名簿には680人ほどが掲載されているが、そのうち逃亡の記載があるものは328人であり、名簿の48%ほどになる。このように逃走者が多数出るということは、自由に契約が解除できないことを示している。それは労働の強制性の証でもある。

 戦時の朝鮮から江迎炭鉱への1,500人に及ぶ集団動員は、日本政府による労務動員計画の下で、日窒鉱業が動員を許可され、朝鮮総督府による動員郡の指定と現地での駆り集めによってなされたものである。それは植民地権力の強制によるものであった。動員されたのちの逃亡は労働の強制からの自由を求めておこなわれたのである。

 石炭統制会の動員資料や厚生省集約の名簿は、強制動員と強制労働の状況を示している。これらの資料と賃金台帳を照合することで、この台帳は強制労働を否定するための資料ではなく、強制労働現場の実態を示すものとして活用することができるだろう。

 

13 長時間労働が「誠実」なのか

 

李宇衍は、江迎炭鉱の1944年5月の賃金台帳を使った統計分析も行なっている。『ソウルの中心で真実を語る』には未収録であるが、「1944年5月、日本の江迎炭鉱の朝鮮人労働者の労働と賃金」(2019年、落星台経済研究所研究報告)という論文が、落星台経済研究所のウェブサイトに収録されている。この報告書には、1944年5月の金南□の賃金台帳が事例として掲載されている。金南□は朝鮮人の中でもっとも高賃金とされ、李宇衍は彼を「非常に誠実」と記している(※金南□の□は李論文での処理)。

その台帳を見ると、金は1922年5月生まれ、1942年10月に動員され、寮に居住していたことがわかる。台帳では44年5月の労働での休日は1日だけであり、1か月の労働時間は516時間にも及ぶ。一日の労働時間は10時間であるが、超過労働が2時間の日が17日、14時間の日が13日もあり、徹夜労働による36時間労働が繰り返されていることがわかる。5月2日から4日の3日間では、2日が24時間、3日が24時間、4日が12時間と、連続して60時間の労働がなされている。5月の516時間の労働時間を労働日数30日で割れば、一日約17時間の労働となる。

この月516時間労働での賃金が171円8銭であり、ここから税金、貯金、寮食費などが控除され、支給額は85円35銭となる。貯金額は45円ほどである。

このような労働を高額な賃金を求めての労働とみなし、「非常に誠実」であると評価すべきなのだろうか。超過労働がなければ、月の賃金は100円に満たず、控除により支給額は40円ほどになったとみられる。現場では過重労働への安全配慮はなされていなかったといえよう。

金南□の賃金台帳からは、これほどの長時間労働がなされた理由は不明である。このような月1日だけの休日による一日平均17時間という労働実態は中規模炭鉱での長時間労働による酷使を物語るものである。李はそれを指摘することなく「非常に誠実」であると記すのである。

この論文で李は、高額賃金の朝鮮人の事例をあげ、賃金差別がないという結論を出しているが、すでに言及したように賃金の存在は強制労働を否定するものではない。また賃金支払いによってさまざまな民族差別の存在を否定することもできない。植民地朝鮮から大量の朝鮮人を日本へと集団連行し、多くを炭鉱労働に投入し、長時間労働を強いたことが問題なのである。

金南□の賃金台帳は、動員された朝鮮人の長時間による酷使を示すものである。李はその酷使を示さずに強制労働の否定に利用するが、金南□の賃金台帳は、石炭労働の現場に動員され、長時間の労働を強制されたという朝鮮人のさまざまな証言を実証する資料となるものである。

 

以上、李宇衍の主な主張をみてきた。彼の主張は強制連行・強制労働を否定するために、都合のよいものを集めているにすぎない。真実を意図的に歪曲し、歴史を否定する論である。それは、読者の認識をトリック(詭計)で欺くものである。詭計により歴史を否定する行為は罪行である。彼は公開での討論を求めているが、詭計による論は討論の対象とすべきものではない。

まず詭計の加担への自省が求められる。植民地下の強制動員でも数多くの人びとが生の可能性を破壊された。また、植民地からの独立と社会の民主化を求めて多くの人びとが亡くなった。そのような一人ひとりの歴史に思いを馳せ、青年期の正義と民主の初心に返るべきと思う。     
                                                                                                 (竹内)