沖縄歴史教科書問題 2008.1.27浜松集会報告
高江ヘリパッド・辺野古基地関係の映像と『沖縄戦の記録』を見た後、現場高校教員が沖縄歴史教科書問題について解説した。以下はその記録である。
●沖縄歴史教科書問題とは
今日は沖縄の歴史教科書をめぐる動きについて解説します。はじめに強調したいことは、「歴史認識としての強制性」ということです。強制性をどうとらえるのか、物理的な強制だけでなく精神的な強制、「志願」させる状況を作り出すことの強制性への理解が大切であると思います。
1 沖縄戦とは
沖縄戦について考えるにあたり、1879年の琉球処分という植民地支配への理解が必要です。それによって皇民化、いいかえれば奴隷化政策が展開されます。この皇民化での精神的な支配をみておくことが前提です。その結末が沖縄戦になるわけです。
沖縄戦は1945年3月末からはじまります。この戦争は天皇制を守るという「国体護持」のためのものであり、そのために沖縄を不沈空母とし、沖縄「特攻」や「玉砕」攻撃がおこなわれました。
沖縄守備軍は「軍官民共生共死の一体化」の方針のもとで、根こそぎの戦争総動員をおこない、「出血持久」という名の長期の戦闘が繰り広げました。最近の大江・岩波沖縄戦裁判の中で安仁屋政昭氏が証言するように戦争によって「合囲地境」状態となり、現地部隊による戦時の軍統治をうみました。そのなかで日本軍による住民虐殺と強制集団死(「集団自決」)がおきていきます。
住民を巻き込んでの戦闘は、沖縄民衆15万人の死をもたらしました。それゆえ「命どぅ宝」という言葉が生まれ、戦後の沖縄の抵抗のキーワードになります。さらに沖縄のアメリカによる占領と軍事基地建設が進められ、返還後も米軍基地が存続するに至っています。
2 高校教科書「集団自決」記載をめぐって
つぎに「集団自決」についてみておきましょう。
戦傷病者戦没者遺族等援護法が沖縄でも適用されるようになり、住民の死者に対しても1957年以降、「軍命」や「関与」など国との雇用関係があれば「準軍属」とされ、援護法が適用されます。ここには「集団自決」も含まれます。沖縄戦での「認定戦闘参加者」は5万6000人近くになりました。「集団自決」は軍事行動の一環とみなされているのです。1968年の防衛庁戦史ではこの自決は「崇高な犠牲精神」とされています。
教科書で沖縄戦が話題になるのは、1981年の教科書検定で文部省が日本軍による住民虐殺の削除を求め、1982年に沖縄民衆が抗議したことからです。日本軍による住民虐殺を政府が削除しようとしたのです。さらに1983年の家永三郎『新日本史』への検定では住民虐殺の記述に追加して、「集団自決」の記述を加筆するように強制します。殉国美談としての「自決」を入れようとしたのです。しかし、その後、教科書執筆者たちは「集団自決」の記述を「自決」自体が強制されたものであり、日本軍が住民を守らなかった事例という視点で記すようになります。
このような記述に対し、「つくる会」などの歴史修正主義者はその削除を求め運動します。2005年にはつくる会らが大江・岩波沖縄戦裁判をおこします。かれらは「沖縄戦集団自決冤罪訴訟」といっています。この訴訟で、座間味の梅澤隊長や渡嘉敷の赤松隊長は「軍命を出していない」とし、大江健三郎の『沖縄ノート』などの出版差し止めと損害賠償をもとめたのです。この動きの背景には、歴史修正主義による「日本軍の名誉回復」をねらい、南京大虐殺・軍隊「慰安婦」・「集団自決」など日本軍の戦争犯罪を否定しようとするもくろみがあります。
この動きに連動してつくる会の影響下にある検定官によって2006年に軍の強制についての記述の削除要求があり、それが判明する中で2007年に入っての各地議会決議や2007年9月29日の10万余の県民集会の開催などの沖縄民衆の運動の高まりがあるわけです。この動きは沖縄戦による多くの死とその後の収容所生活と占領、米軍基地の拡張という歴史的体験と、右翼政権での改憲・戦争国家の形成という状況が絡むなかでおきているわけです。9・29集会で参加者は「日本国政府へ・戦争は教育から始まる」という文字を掲げていましたが、この表現は沖縄民衆の歴史的体験と現状批判を象徴するものであると思います。
このような歴史をふまえての民衆運動の圧力のなかで、政府文科省は、2007年12月末、検定意見は撤回しないまま、「軍の関与」は認めるが「強制」は認めないという立場をとっています。しかし、本来「集団自決」は軍の関与による強制です。強制性の歴史認識がもっとも大切なものです。それを認めない文科省は歴史の真実を隠蔽しているといわざるをえません。最初に言いましたように、「歴史認識としての強制性」が今回の問題のキーワードです。
3 住民虐殺・強制集団死の実態
ここで住民虐殺や強制集団死(「集団自決」)の実態をみておきましょう。
主な住民虐殺の現場は、座間味島、渡嘉敷島、久米島、伊是名島、伊江島、沖縄本島では、
主な「集団自決」は、
軍のいる各地で住民虐殺と集団死があり、見せしめの処刑と「自決」への誘導があったのです。防衛隊に手榴弾を2つ持たせ、「ひとつは米軍、ひとつは自決」と指示されたという証言は複数あります。軍による誘導と強制が「集団自決」をもたらしたことは史実です。
久米島の住民虐殺の例をみてみましょう。久米島の現場指揮官は鹿山兵曹長です。隊約30人が1万人島民を支配していました。6・27米軍久米島上陸、6・27米軍による捕虜1人が降伏勧告状を持ってきたところを鹿山は銃殺、6・29米軍による拉致帰還2人を含む9人の島民を虐殺(ここには区長・警防団長も含む)、8・15 米軍協力・避難民救出を理由に仲村渠一家の虐殺、8・20朝鮮系の谷川一家8人の虐殺と続き、計住民21人が虐殺されます。また、「切り込み特攻」帰還者をも命令違反として処刑しています。鹿山は16歳の「現地妻」を持って移動しています。9・4に上官の説得で投降しました。
部隊は山岳戦を想定し、不服従への処刑を命令し、投降者をスパイ・利敵として処刑したのです。1969年に鹿山はつぎのように発言しています。「スパイ行為で厳然とした措置をとらないとアメリカ軍にやられる前に島民にやられることになる。島民の忠誠心をゆるぎないものにし、島民を掌握するためのことだった。良心の呵責はなく、日本軍人として誇りを持っている」と(要約)。このように戦後もその犯罪性は理解されずに、住民虐殺を肯定する意識が継続していたのです。戦争犯罪として追及する枠組みを持てなかったのです。
渡野喜屋(とのきや)事件については、NHKが05・6・18に放映しています。これは
渡嘉敷・座間味の「集団自決」者数は判明している約半数にあたります。この事件に対し「軍命」はなかったから軍は関与していない、村が独自に命令しておこなったこととして起こされたのが、大江・岩波沖縄戦裁判です。しかし裁判のなかで、「軍官民共生共死の一体化」の状況が明らかにされ、渡嘉敷の金城重明証言では、3・27軍による集結命令、28村長による自決命令伝達、上陸前に兵器軍曹による手榴弾の配布と訓示、当日の防衛隊長による手榴弾配布、不発が多く相互殺害へ至ったこと、座間味の宮城晴美証言では、母からの聞き取りがその証言の中心ですが、2・8戦隊長が住民に玉砕を訓示、3・25助役が梅澤に玉砕用の弾薬要請、梅澤は「今晩は一応お帰りください」と発言、島は海上挺身戦隊の秘密基地化、住民にスパイ防止証明の布切れをつけさせ、島外への移動を禁止していたことなどが明らかになっています。
日本軍は住民に対して捕虜の禁止と「玉砕」を指示しています。そのもとで「集団自決」が起こされています。また、助役は兵事主任・防衛隊長であり、軍命伝達の役割を持たされていました。最高指揮官は部隊長であり、村独自の「集団自決」などはありえない行動であることが明らかにされています。
4 高校生の意見から
この問題への高校生の意見をみてみましょう。紹介する文は、細かな説明をしてのものではなく県民大会前後の「沖縄タイムス」の社説を読んでの感想です。
要約しますと、「改竄・責任逃れ・問題解決の遅さ・・何が美しい国日本だ。真実を伝え未来を考えさせる教科書が大切。うそはいけない。」「戦争を起こしたことが一番のまちがい。」「自殺したかのように見せかけた殺人、政府が人の命をなんとも思っていなかったことによる。反抗する意思が少しでもあれば違っていた。このように考えられるのも過去の犠牲者の命が私たちに戒めているから。政府に対する怒りが強くなった。もっと生きたいと思っていた人に死を強制した罪は重い。」「集団自決がなくなったら次は朝鮮人に対しおこなったことを消すのか。そんなことで真の平和を手に入れることができるのか。」「この話を聞くまで沖縄の人たちは喜んでお国のために死んでいったとずっと思っていたが、でも違った。正しい歴史を知れば戦争はよくないと思う。」「このようなことが起こさないようにすることを考えたい。名誉なんかよりもっと大切なことがあると思う。」このような意見がほとんどです。
高校生の意見には核心をついたものが多いように思います。このような青年の声が現場での実践への意欲につながります。教育現場はこのような青年のまなざしに支えられていると思います。
最後になりますが、軍には「積極的服従」という発想があります。この発想は「集団自決」への「志願」の際の志向でもあったでしょう。このような志向に抗して、人間の尊厳の立場から歴史の真実を学び、「命こそ宝」の視点を提示していく必要があると思います。
(文責人権平和浜松)