沖縄紀行・1995年11月
●シーサー
沖縄にはさまざまな形態のシーサーがある。それぞれ表情があっていい。このようなさまざま顔のシーサーに出会えたことは実によかった。私もひとつシーサーを作ってみようと思った。
旅には見知らぬものとの出会いがある。出会うことで精神的な充実や変革がある。それは魂の回復にむかう契機をもち、消費を前提とした商品的世界とは別なものであると思う。
人はどこでどのように出会っていくことができるのだろうか。魂の領域での共感というものがあるとするのなら、それはどのようなものであるのだろうか。繋がっていくこととその繋がれかたそのものへの問いがある。もっと違う形で人は出会えるのではないか。これは沖縄での旅のなかで増幅していた問いである。
●佐喜真美術館
沖縄を訪れた初日、佐喜真美術館に行った。この美術館は普天間基地の横にあり、近くには亀甲墓がある。軍事基地は民衆の居住地のみならず、墓地をも奪って作られていた。この美術館が建てられてちょうど1年目(11月23日)にあたり、1周年行事をしていた。この美術館は米軍基地から土地を取り返して建てたものであり、反戦・反基地のアートの場である。
館内には丸木夫妻の沖縄戦の図、コルビッツの版画、上野誠の版画などがあり、特別展として丸木スマの絵画展が開かれていた。この夏、長野でコルビッツと上野の作品を見たのだが、偶然の再会だった。
この美術館は「もの想う場」として設定されている。今日、アートは商品化され、情報の商品にもなっている。そのなかでアート・表現とは何か、表現する人間の方向性や人間性の回復に向けての問いを深めたいと思う。技巧に優れ、上手な作品であっても、美術館の空間に納まってしまう傾向が強すぎる。よりスピリチュアルでポエジーのある表現に向かってゆっくりと考えたいと思う。
夜、知念定男とネーネーズの島唄の店に行った。ヤマトの資本がエスニックな形をとりながらウチナーの文化を商品化していく。詩がヤマト化され、島唄の腰を砕く。もっと自身の言葉で唄が歌い継がれていってほしいと思うことがある。
●嘉手納基地
1995年、沖縄での米兵による少女暴行事件にともない沖縄では8万5千人の決起集会が開かれた。その集会会場近くから嘉手納基地に向かった。沖縄の米軍基地の配置状況をみると、本島では嘉手納・読谷・普天間・那覇の中部、キャンプハンセン一帯、北部の訓練場の3地区が基地の集中地区であり、沖縄本島が米軍の要塞となっていることがわかる。
嘉手納基地を眺望していると、足元には防衛施設庁の杭があった。基地は強制収用されているのだが、日本から「借用」の形をとっている。沖縄が切り捨てのうえに基地がある。
嘉手納の役場で地図を買い、「
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読谷にはグスクの跡や焼き物場があり、産品には織物や紅イモもある。基地や戦跡を見るよりも土をこねているほうが好きだ。
最初に行ったのは残波岬だった。残波岬には波の跡を刻む岩が並んでいた。砕ける波によって黒茶色の岩には細かな穴があいている。岬近くには波に向かう大きなシーサーが困難に立ち向かう民衆の意思を示すかのように建っている。波に向かうシーサーに太鼓の響きは確かに似合っている。
シーサーのまなざしが西を見つめる残波の散る風の岬で、目を閉じて風の音と胸の鼓動を聞く。そのときめきを素直に見つめ、人間の方向性を思う。残波岬には『おもろそうし』と『神の家』のモニュメントが2つあった。岬のレストランのソーキそばも美味だった。
役場の奥にプレハブがあり、そこに基地関係の課が入っていた。そこで
●チビチリガマとシムクガマ
役場から知花スーパーに行った。ここに日の丸引き降ろし行動の頃には右翼の宣伝カーが押し寄せたという。この日は朝までのテレビ放送のための朝日テレビの取材が那覇であるという。スーパーには読谷の泡盛「残波」が置いてあり、1本お土産にした。大田県知事が抵抗できるのは地域での反戦地主の存在がある。日常的には抵抗感覚が崩されるなかで、持続されている抵抗とその抵抗の意思のうえに現在の沖縄の闘いがある。
反戦地主はかつてと比べれば小数になったが、この存在が知事や市町村長を動かす歴史的な力になっている。現場での闘争力が現実の政治を規定する。掘ればそこに泉があるということだ。大きなガジュマルがあった。シーサーとともに戦争と基地の時代を抜けてニライカナイへの根を、このガジュマルの根のように張っていきたいと思う。
知花さんのガイドで読谷の米軍通信基地とチビチリガマ、シムクガマに行った。
反戦地主には、米軍基地支配50年の屈辱をふまえ、今こそ撤去へ!の不退転の決意があり、99年には2900人の拒否行動への決意がある。基地関係地主2万9千人のうち、今回は反戦地主39人の拒否が今の状況を切り開いている。
通信基地の前で、知花さんは反戦地主としての立場と行動、この地域の歴史、今後の展望を語った。この想いと語りの横を特権車両の米軍のYナンバーの車が通り抜ける。道路標識は、上にSTOP、下に止まれとなっている。この標識はこの土地をだれが支配しているのかを示すかのようだ。
チビチリガマに着く。入り口の小さなガマである。入り口の前方には碑と像が建っている。日本の皇民化教育は母が子を殺す状況をつくった。死んでも「集団自決」という名で美化され「自決者」として讃えられる。日本の精神の操作による集団強制死が本質だ。
殺すように追い込んだものたちの責任はとられていない。3歳の子、6ヶ月の子を失うことは辛く悲しいことだ。それを美辞麗句で包んではならない。チビチリガマの中に黒くなった土がある。それは人間の油を吸い込み、黒ずみ粘土状になっている。83人の死者の肉体が黒い土に変わった。その肉体は土を手に取りながら語る知花さんの姿を借りて、わたしたちに生のあり方を問いかける。
チビチリガマは墓である。けれども、重い口を解き放つ作業とともに人々に語り伝えなければ、死を強いられた人々の「恨」は解き放たれないように思う。この解放にむけての作業は、訪れた者たちの課題になって世界に広がる。
中国大陸での戦争体験がチビチリガマのなかでの集団死につながり、ハワイへの移民体験がシムクガマでの米軍への降伏と生の継続につながった。移民によって世界を知った体験が1000人の住民の集団強制死を止めたのだった。シムクガマとチビチリガマ、沖縄戦での米軍上陸地にある二つのガマは、生と死のそれぞれの軌跡を語り続ける。「非国民」のレッテルは民衆の生にむけての回路であったのだ。
死ぬため、国のため、天皇のための死の軌跡、チビチリガマ。
生きるため、民のため、人間のための生の軌跡、シムクガマ。
二つのガマは、命を捨てるのではなく、命と命を結ぶための道を示す。命どぅ宝のメッセージのルーツがここにある。民を死に追いやる基地も「君が代」もいらない。人を殺し、戦争マシンをつくる現代のシステムを変えたい。
沖縄の近代史において、日本による植民地支配は皇民化による奴隷化と世界各地への棄民を生んだ。その果ての沖縄戦は沖縄人の抹殺につながるものであり、それは「捨石」以上の結果を生んだ。本土の天皇制の維持のために青年層をも根こそぎ動員し前線へと追い出し、死を前提とする戦術が取られた。戦後には沖縄を米国にわたす「天皇メッセージ」が続く。その後は米軍による沖縄の要塞化、復帰という名での日米の共同支配の強化がすすむ。沖縄への収奪はすすむばかりだ。
植民地支配の自覚がないまま、資本の利益の対象として大地の開発がすすみ、自然破壊となっている。そこには現代の帝国日本の臣民意識があるということもできるだろう。「金と武器は送るが、愛(精神)は送らない」という日本帝国の体質は民草に宿っている。鉄砲がカメラとペンに変わって侵すこともある。
自己の精神の奴隷制とのたたかいは始まったばかりなのかもしれない。内なる奴隷のメンタリティはなかなか手ごわいものである。
海洋博覧会の跡地で沖縄館を見た。石垣島の豊年祭マコンガナシ、八重島の盆のアンガマなど好きな仮面が置いてあり、パスポートの実物もあった。さまざまなシーサーの作品も参考になった。空き缶の三線もあり、「凶々しきものよ、わたしたちの海から去れ」とも記されていた。それは、軍事的存在とその支配的メンタリティに送る言葉だ。
この日の夜には、水平軸の思想を語る岡本恵徳さんと詩人の高良勉さんを囲んで沖縄の平和をめぐる現状を聞いた。翌日は一人で本部半島に行った。
●本部・豊原地区
伊江島に行くことを計画していたが、名護の海岸で浜と海を見、珊瑚のカケラを集めていたら5分遅れでフェリーに乗れなかった。伊江島の阿波根昌鴻さんのぬちどぅ宝の家を訪れたかったのだが。仕方なく本部半島から伊江島を眺め、島の形を覚えた。阿波根さんの視点を見ると、奴隷・服従の精神を変えて人間へ、人を助ける考える人間へ、金の雨と闘い剣と闘う、平和と命が宝、豊かな心による救済、助け合いともに生きる、太陽に学ぶ、というものであり、現場で闘いながら独自に思想し続けるスタイルがいい。訪問は次回にして、
地域にこだわり、それを突き詰めていくことで普遍性につながることがある。掘れば泉という。浜松でのAWACS配備反対にしても普遍性のある運動を作ることが求められている。文化的基層の中にある反国家的・反権力的原質を見出して共有し、それをばねにしていくこと、そのような営みもひとつの力になるだろう。
●キセンバル
キャンプハンセンの前から金武町を経て恩名村の喜瀬武原に行った。県道104号線越え実弾訓練がおこなわれている現場である。海瀬頭豊の歌にあったあのキセンバルである。ここの訓練がヤマトの各地に分散移転する。この場から富士への移転について考えた。ここでの演習が移転することでやっと日本の課題になるということはこれまで想像力が貧しかったということなのだろう。キセンバルの花の集荷場ですこし住民の話を聞いた。「演習反対」の反対の文字のところが少し壊れている看板があった。
沖縄の軍事基地はアメリカの世界戦略のなかにある。それに日本の防衛が付随する。ともに支配階級の維持のためといっていいのだが、ヤマトの利権のために沖縄の地域としての権利が破壊されていく。このような沖縄差別のありようは近代の植民地支配から変わっていないようにみえる。沖縄県民というが、「県民」で括ってはならないし、沖縄人としての自治区あるいは独立社会の形成を展望すべきだろう。
『沖縄県』の設置は琉球王国の廃止と植民地化なのだが、植民地支配としての歴史認識が確立されていないところが第一の問題なのだろう。基地の撤去や安保の廃棄というスローガンはいいのだが、『沖縄を返せ』という歌が今も好まれているという現状は「沖縄に返せ」と歌詞を変えるだけでは、問題が解決できない課題を抱えているように思う。米軍基地撤去だけではなく、沖縄の政治的自立・自治・独立などが大胆に提示されるべきなのだろう。
この日の夜、1995年の米軍基地撤去をめぐる動きについて新崎盛?さんや普天間の教員たちに話を聞いた。沖縄戦をめぐる歴史認識の経過や戦後の民衆運動の歴史、個々人の戦後体験と運動への参加、その表現形態の変化について考えた。「平和を守ろう」「沖縄を返せ」から反基地・沖縄自立への軸の転回についても考えた。現場での日常的な活動が大切なのであり、発言した高校生を守ろうとすることを軸に平和と人権があった。
● 那覇
首里には琉球王朝の玉陵、金城町の石畳など琉球王国のたたずまいが各所に残されている。首里城近く、木陰の静かな場所に神が宿るというウタキの場があった。首里城には日本軍壕跡や沖縄戦の追悼碑もある。見学しているとヤマトの王朝の墓や財宝も民衆に還元されなければとも思う。
沖縄戦では沖縄人60万人のうち15万人が死んだという。首里城は焼け落ちるなど、貴重な文化財が失われた。戦争を日本政府が行ったこと、戦争が沖縄を守るものではなく天皇を中心とする支配権力を守るものであったこと、民衆の生命と大地を守るものではなかったこと、そして今もそのようなありようが続いていること。これらの沖縄戦の戦争責任を追及することを止めてはならない。沖縄の植民地化とその果ての抹殺につながる戦場化、沖縄人のスパイ視、虐殺、集団強制死、そして米軍による基地建設と世界各地の戦争への派兵の拠点化。偽りの弔辞を剥ぎ取って民衆の生の実現につながる真の表現が必要だ。
書店に入ると、ヤポネシア、琉球孤、オキネシア、アジアへの架橋、自治共和国・・などさまざまな沖縄の地域論が提示されている。故郷沖縄を離れてヤマトに渡った青年の吃音がウチナー口の詩となって結晶化した軌跡なども読むことができた。史書をみると、琉球処分・民権・沖縄戦・基地建設・「復帰運動」などが、沖縄の近代4世代に凝縮されている。
南部の戦跡を歩く。小高い山々と田畑、サトウキビ畑が続く。糸数壕に着くと、そこには具志川高校のバスがあった。日曜に父母・生徒が先生の案内で平和学習をしていた。このような沖縄戦の理解への営みが運動と変革の力につながっているのだと思った。現場に行くことで、壕がただの史跡ではなく、そこが墓場であり、残されている生活具が遺品であり、多くの遺族がいることを知った。
沖縄は亜熱帯の島、太陽の光が豊かな大地であり、人情のある風土である。一度来ると二度来たくなるものである。海を見つめてゆっくりと時間をすごす余裕もほしい。伊江島・慶良間・久米島・石垣・西表島にはいついけるだろうか。沖縄戦と強制連行、琉球史の中で一地域を焦点に歴史を考えてみたいなどと思いながら、沖縄を後にした。
※この旅のノートは1995年11月に、静岡の「侵略」上映委員会のメンバーとともに沖縄の戦争史跡を歩いたときのものである。
(1995年12月記・竹内)