「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会ソウル大会」参加記

 2004520日から23日にかけてソウルで、日本の過去の清算を求める国際連帯協議会のソウル大会がもたれ、約300人が参加した。集会には韓国・朝鮮・中国・台湾・フィリピン・アメリカなどからの参加があり、日本からは70人ほどが参加した。今回の集会は、東アジアの平和にむけて日本の右傾化を変え、第2次世界大戦60周年にあたる2005年をその過去の清算をすすめる歴史的転換点とするためにもたれた。

 この国際連帯協議会は20025月の平壌での国際集会を経て、20039月に上海で結成されたものであり、今回のソウル集会は、日本の歴史歪曲教科書を糾す韓国の市民運動体が中心となって準備した。

21日の全体会では、日本の歴史歪曲の現状、「慰安婦」・原爆・南京大虐殺での生存者の証言、各地での日本による戦争犯罪の調査報告と被害回復にむけての運動の現状が報告された。

 22日の分科会では、性奴隷、強制連行での遺骨、裁判と日韓協定、教科書問題などについての討論がおこなわれた。全体会ではその報告がなされ、共同宣言が採択された。また、被害者による中学生への体験の証言集会や羅雲奎の「アリラン」の上映、性奴隷とされたハルモニの癒しをテーマとした舞踏表現などがおこなわれた。

 共同宣言では、今後、国際的な活動をすすめること、実態調査をさらにすすめること、遺骨の調査をすすめること、侵略と植民地支配を美化する動きに反対すること、歴史を歪曲した教科書採択を止めること、日朝国交正常化のなかで調査と賠償をすすめるとともに日韓条約の見直しもすすめること、などの方針が出された。

 521日、ソウル女性プラザで全体会がもたれた。開会にあたり高校生が太鼓で「鳥と響き」を演奏した。今回の集会は日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷(2000年)、日本の過去の清算を求めるアジア討論会(平壌2002年)、歴史認識と東アジアの平和フォーラム(南京2002年、東京2003年)、日本の過去の清算を求める国際連帯協議会結成(2003年上海)などの国際的な討論会を経ての開催である。日本の歴史歪曲と過去の未清算、新たな海外派兵の動きの中で国際的なネットワークが形成されてきたことによる。

521日の全体会では徐仲錫さん(日本の教科書を正す運動本部・成均大)が基調報告をした。徐さんは「虐殺と蛮行の20世紀」を「犠牲者の心情」で記憶し、新たな未来を創造するという視点を提示した。そして日本の過去の清算によって東アジアでの平和と連帯の形成を呼びかけた。また、日韓両政府が過去の清算のための共同解釈を実現し、日本政府と企業が和解のために行動していくことを求めた。
 生存者の証言では、韓国原爆被害者協会元会長の郭貴勲さんが在外被爆者への援護法適用を求めた闘いの経緯を示し、北の被爆者への適用も求めた。戦時下、性奴隷とされた李相玉(朝鮮)、盧満妹(台湾)、アモニタ・バラジャディア(フィリリピン)さんらの証言が続いた。李相玉さんは日本軍による連行と性の奴隷とされた体験を涙とともに語り、「多くの青年が殺された。私は彼らを代表してここに来ている」「力を合わせて賠償を求めましょう」と呼びかけた。

姜根福さん(中国)は南京での大虐殺の体験を語った。姜さんは言う。日本兵によって弟は投げつけられ、母は射殺された。父はどこかへ連行され、帰ってこなかった。姉は頭を2つに切り裂かれて殺された。父母を失った子どもたちは空腹と流浪の生活を強いられ、私は養子に売られて姜の姓となった。私の姓は日帝による被害の結果なのだ、と。

証言が終わると現在まで生き抜いてきた人々に花束が贈られた。身体の奥底から発せられた体験談は、会場を悲しみと正義への共感で包んだ。それらの証言は日本の過去の戦争を問う視座とその方向性を提示するものであった。

521日の午後に日本軍「慰安婦」と強制労働について各国から報告が行われた。朝鮮からは羅南での「慰安所」調査と性的奴隷とされた女性たちの聞き取り概要が示された。日本が謝罪したら墓に来て知らせて欲しいと遺言した例など、今も被害が継続している状況が報告された。韓国からは女性部による被害者への支援金支給の開始、日帝真相糾明法の制定、挺身隊問題対策協の活動状況などが報告された。そして日本政府の「国民基金」が、被害者に再び被害を与えるものとなったことを批判した。
 日本からは記憶の保存のための国際ネットワークの形成、被害者の証言収集、リスト化、証言集作成、などの必要性が出された。朝鮮の被害者、朴永心さんの調査が国際的な連帯によって行われ、アメリカ公文書館から
25人分の個人データが発見された。そこに朴さんのものもあった。
 南京での「慰安施設」の保存に向けての取り組みの状況も示された。また、「国民基金」を批判し、真の国家賠償が求められるとした。フィリピンからも総括的な報告が行われた。

慰安婦問題の報告に続き強制労働についての報告が続いた。
 韓国の張完翼さんは
20046月に発効する「日帝強制占領下における強制動員真相糾明法」の意義を語った。この法によって真相糾明委員会の下に市や道に真相糾明実践委員会が置かれ、真相調査が行われる。また財団による追悼空間造成や史料館の運営も必要とした。朝鮮からは中島飛行機半田工場、太平丸、播磨造船などのケースを示しながら、奴隷労働の実態、それへの無賠償の状況が語られた。企業はその史実を隠して自らを被害者とし、遺骨の返還も無いものがあるとし、連行企業は共諜者であり、その責任を認めて具体的な措置をとるべきとした。

日本からは強制連行の定義を、日弁連調査報告書をふまえて肉体的精神的強制を含むものとすること、裁判の総括と史料発掘、訴訟での連携、国際的な発信の大切さが示された。関東大震災での朝鮮人虐殺のケースも示された。

日本の「つくる会」の教師用指導書を分析した辛珠柏さんは、指導書では盧溝橋事件を付随的なものとし、戦争をアジア解放への功績として侵略を合理化し、その責任を取ろうとする視点が無いことなどを示した。またアジア人の苦痛や抵抗については無視し、日本の特殊性は強調するが、普遍的な価値の共有をすすめるものではないとした。

鄭雲模さんは韓国の中学生の前で、足尾銅山への連行と強制労働の体験を語った。鄭さん自身63年ぶりの南への訪問であり、喜びもひとしおだった。

522日には「慰安婦」、遺骨、強制連行、教科書についての分科会がもたれた。「慰安婦」分科会では日本政府に過去の清算をさせるための国際的圧力についての討論がなされた。そこでは署名運動、国連人権委員会への陳情、各地でのキャンペーン、匡際司法裁判所の活用などの意見が出された。また「日本軍慰安婦」の呼称をめぐって意見交換も行われた。

強制動員の分科会で崔鳳泰さんは1965年の日韓協定時、過去の歴史認識と被害の補償について両国で認識が共有されていなかったとし、国家と国家の間の協定では個人の権利は消滅しないとした。そして真相糾明法が成立しているが、日本政府の協力が必要であり、日本は個人の権利を認定すべきとし、1981年の独仏理解増進財団に関する出損協定を例に企業の責任の取り方を示した。南北の被害者が救済にむけて共に行動することも今後の課題である。このほかに南北からの問題提起や日本の三菱名古屋、不二越での裁判の報告などがおこなわれた。強制労働の被害実態をさらにあきらかにし解決にむけての行動をすすめることも提起された。

教科書分科会では20012002年の活動の総括と2005年の採択をめぐっての活動が話しあわれた

遺骨の分科会では、日本政府が自国民の遺骨調査に1967年から2004年の間だけをみても1537千万円を費やしてきたが、ブラウン島での調査では韓国人遺族の同行を拒んだこと、日本人として連行しながら遺族は外国人として扱いその責任をとろうとしないこと、11万人余の朝鮮人軍人軍属の未払い金が供託され不払いのままとなっていることなどが示された。また山口・長生炭鉱、東京・祐天寺、兵庫の善光寺・東福寺、愛知・死亡者名簿、海南島、北海道の西本願寺札幌別院のケースが報告された。金銀植さんは海南島での調査報告をおこなった。

北海道西本願寺札幌別院の遺骨についてはすでに金益中さんの遺骨がみつかっている。今回、三菱美唄炭鉱(鉄道工業)に連行されて死亡した具然浮ウんの遺族が発見された。京畿道金浦出身の具さんは結婚してまもなく連行され、行方不明のままとなっていたという。これは日本による強制連行の状況とその未完の責任を示す事例である。日本政府と企業による誠実な対応がもとめられている。遺骨の調査と返還は人道的な課題であり、過去の清算にむけての第一歩といえるだろう。

アメリカの市民団体の展示をみると、クァンオフンさんは三菱横浜造船所へと19443月に連行され労働を強いられた。三菱コンツェルンは戦争経済を支え、朝鮮人を多数連行した。朝鮮内の三菱の鉄山へと連行されたパクチョンハクさんの展示もあった。

522日の全体集会では各分科会の報告や日韓の被爆2世からの反戦アピールなどがあった。集会の最後に朝鮮、韓国、日本の代表が以下の内容の共同宣言をよみあげた。

@「慰安婦」問題解決のための国際司法裁判所や各国での立法化、署名活動などで、日本政府に対し一日も早い解決を求める。

A強制連行調査を強め、各国が共同してあきらかにしていく。被害者が死んでもその犯罪行為はかくせないことを示す。

B被害者の遺骨を調査・収集・返還することで政府の無責任、不道徳を告発し、日本政府に犠牲者の名誉の回復をもとめる。

C過去の侵略戦争・植民地支配の美化に反対し、日本の極右による軍国化策動を阻止する。

D歴史歪曲とたたかい、2005年の歪曲教科書の不当性を伝える。

E日本政府と企業に対する訴訟を支援し、政府の隠蔽を糾弾する。

F日朝正常化交渉での日本の過去の反省を求め、賠償を要求し、日韓協定の改定もすすめる。

全体集会が終わったあとで、被害者の癒しをテーマにした舞踏「花は咲いて微笑んで」が上演された。

522日の歓送会では全北全州の子ども合唱団が歌った。戦争批判のうたでは、『戦争を止めてほしい、私たちの笑顔を軍隊と戦車でなくさないで、戦争は女性や子どもを切りすてる』というメッセージを伝え、「先生、光州の5月を知っていますか」ではキャンドルを持って1980年の死者を追悼して歌った。次代を担う若い世代の成長を示す表現だった。

 歓送会では韓国側が「ソウルからピョンヤンまで」をうたい、南北統一ヘの想いを表現した。523日には南北の交流会ももたれた。

今回の集会は韓国政府・警察のきびしい監視のもとでおこなわれた。たとえば北の在日朝鮮人がバスで移動するときには、私服がバスの中にまでのりこみ、人員を点呼させて乗車を確認し、会場入口やホテルのフロントでも出入をチェックするという監視態勢だった。このような形での統制は、南北分断の現実が人々の関係を今も引き裂いていること示すものだった。

 集会はイラク戦争への日本・韓国からの米軍を支援しての派兵、米軍によるイラクでの性的迫害の真相調査がすすむといった状況下でもたれた。集会では、日本の侵略戦争とその下での戦争犯罪に対する清算がけっして過去の問題ではなく、現在・未来の問題としてあることが示された。過去を隠蔽しさらに派兵をすすめるありようを変えることは、北東アジアの平和の確立のために欠くことのできない作業である。