長崎の旅 原爆資料館 2005・12 

         
平和公園の折り鶴          刑務所跡中国人朝鮮人も死亡  城山・カラスサンショウの木
        
朝鮮人追悼碑・資料館入口近く  銭座小の碑            浦上地区の追悼碑
           
岡まさはる記念館の友好旗    岡記念館の展示        祈りの丘美術館の展示から

見るたびに新鮮な思いを与え、心に刻まれていくものがある。そのような思いを幾度となく刻んでいくことが、平和に向けての精神には必要なのだろう。内橋克人が『神戸大空襲』(2005年刊)でいうように「戦争を憎むのは能力」「加害を掘り下げてこそ被害を語ることができる。それを語り継いでほしい」と思う。

時を止めた時計がある。針は止まり、振り子は飛び去り、数字はゆがむ。木枠はねじれて曲がった形をつくり、止まった時間、失った生命を語り伝える。爆心点から1キロ近くの山王神社付近の時計だ。

爆心600メートル近くの溶けたロザリオ。このロザリオをもった人間は失われたが、自らの罪をわび、許しを請うという行為は継承されている。ステンドグラスは高熱で溶け、失われた命の結晶のように、赤・緑・黄・青の小さな丸い球になった。被爆した聖堂の天使の顔は変色し涙を流しているように乾いて固まっていた。

いくつもの沸騰痕を残して固まり泡立った瓦、さまざまな命ある存在の影を映した壁、タイルもガラスも人骨も一体となった固形物、空洞を残して蘇生した木々、捻じ曲がった長崎三菱製鋼の鉄骨、砕けた石臼や歪んだ仏鏡・・・。大量殺戮兵器による長崎での殺戮が遺品によって示されている。核兵器廃絶への思いが記され、最近では朝鮮人やオーストリア兵など外国人被爆者の証言も、映像で見られる。レネ・シェーファーの「最後の閃光」という作品もいい。

戦争には原因とその責任がある。展示の価値はそれを捉える表現力に拠るだろう。アメリカは、戦争企業である三菱の軍需工場群を狙い、その周辺に住むものすべてを抹殺する大量殺戮をおこなった。三菱の作った兵器によってアジア民衆がどれほど殺害されたのか、アメリカの大量殺戮がその後もアジアでどのようにおこなわれているのか、この2点についてのいっそうの表現が求められる。

展示年表には植民地支配の項がある。そこでは、朝鮮での強制連行を1942年2月としているが、それは国民徴用令公布の1939年7月とすべきだろう。また台湾での徴兵についても記されているが、徴用や志願兵についても追記すべきだろう。ここでも加害の掘り下げが必要だ。

城山小学校の被爆校舎に写真が展示されている。一枚は小学校で荼毘に付された髑髏の目がこちらを向いているものだった。無言の語り、このまなざしに、後世の人々がどのような表現を示すのかが問われているように思う。校舎の脇にある被爆後に復活したカラスザンショウの木はムクの木によって支えられ、今も生きていた。2本の木は、共存扶助による生命の復活を象徴している。

1600年のことだが、大分に漂着したオランダ船の名はリーフデといった。リーフデとはオランダ語で愛を意味する。このときの航海では、愛・希望・信仰・誠実・福音の名の5隻がマゼラン海峡を経由して「東インド」へ向かった。そのうちの一隻が大分に漂着したのだった。オランダの東インド支配に向けての航海ではあったが、それから400年、人々に継承されたものは文化であった。これからも長崎からは平和の文化がさまざまな形で表現されていくだろう。

資料館の売店には「リボン」という歌のCDがあった。32歳でなくなった槙健一は「希望の歌 心に響けば 天まで届く そして今 僕らがねがいを込めた リボンが 風に舞う」と歌う。また、時の蘇生・柿の木プロジェクトのDVDもあったが、人々が参加してのアートプロジェクトとして学ぶ事柄が多かった。ちなみにこのプロジェクトにかかわる宮島達男の作品展を今年の10月に熊本で見た。熊本から自衛隊がイラクへと派兵される当日のことだった。 

大浦天主堂近くにある「祈りの丘絵本美術館」の一室で「イラク白血病と闘う子どもたち」の絵画展がおこなわれていた。お土産を求める観光客はこの館の2階にある展示を見ようとしないのだが、今ある戦争と被爆をテーマにし、その絵を描いた子どもの多くが生命を失っていること自体、もっと注目されねばならない。絵の上手さ下手の問題ではない。絵とその表現者の関係と、自らとの関係が鋭く問われているのだ。

 戦争を始めるのも止めるのも人間だ。三菱の現在の軍需生産を問う活動ともに、この館のような展示が続くことが平和への表現だと思う。 

(竹内 2005・12)