ザクセンハウゼンの旅 05・8

 

ベルリン近郊にある施設で訪問したかったところが、ザクセンハウゼン収容所跡とヴァンゼー会議教育記念館である。

●ザクセンハウゼンの旅

ザクセンハウゼン収容所はベルリンの北方約30キロのオラニエンブルグの城外区におかれた。1933年オラニエンブルクに収容所がつくられ、ナチの突撃隊SAが政治的敵対者とみなした共産主義者・社会主義者・労働組合活動者を監禁した。
19367月から2等辺3角形型のザクセンハウゼン収容所の建設が始まり、37年には18棟が完成した。

  

38年には6000人の「反社会分子」が連行され、「水晶の夜」以後は9800人のユダヤ人が連行された。さらにオーストリア・チェコスロバキア・ポーランド・フランスなどの市民が連行された。41年にはフランスで反ドイツストライキを闘った労働者が連行されている。収容者の拡大の中で収容棟は68となっていった。1938年に8300人だった収容者数は44年末には47700人と増加した。

このザクセンハウゼンには、強制収容所監督局の建物があった。ここから収容所に関する指令が出された。またSSの機密組織司令部の拠点とされた。1939年8月末、ここから数人の受刑者を連れ出し、ポーランド陸軍の軍服を着せて殺害して放置し、ラジオ局襲撃犯とした。そして、ポーランド軍の分遣隊がラジオ局を襲撃したと非難して、9月のポーランド侵略の口実とした。第1819棟は貨幣捏造の拠点ともされた。収容者が新型銃弾の実験台にもされた。ガス殺も導入された。シアン化合物アンプルやベンジン注射による人体実験も行われた。

ザクセンハウゼン収容所のもうひとつの特徴は多くの労働収容所を抱えていたことである。労働先をあげれば、KWA(自動車戦車関係製造修理)DAW木工、被服製靴工場(収容所収奪品の再加工)、シュペーア工場(くず鉄)、ハインケル工場(航空機)、ファルケンゼー(鉄道資材・戦車・砲弾・ミサイル)、クリンカー工場(煉瓦・兵器)、バッテリ分解(「黒の労働分隊」)、兵器局(対戦車砲)、中央兵器廠、原動機車両庫、通信兵器廠、壕掘削、森林伐採、軍用犬飼育、菜園管理(SS用)、IGファルベン、シュパンダウ、ジーメンス、ダイムラーベンツ、ペーネミュンデ(V1弾)、バードザーロフ総司令部建設現場などがある。また、女性の労働分隊が作られ、アウアー(ガスマスク)、ジーメンス、ダイムラーベンツ、AEG、アラド、クルップ、ベルリンシュパンダウ、アウグス、デュナミッドなどで強制労働がおこなわれた。 

収容所では虐待とともに公開処刑がおこなわれた。処刑用の壕やガス室、死体焼却場を持つ絶滅施設(Z施設)が3角形の施設の外側につくられた。人体の切片が採集された。ソ連人捕虜は2万人余が殺害された。1942年のハイドリッヒ殺害の報復として、リデツェ事件の際には、ザクセンハウゼンで250人が、クリンカー労働施設で200人が処刑された。
 死体焼却場からは処刑された人々の灰を埋めた壕が発見されている。また多くの灰が運河に捨てられている。

このような殺戮と強制労働の中で抵抗組織が結成され、生産妨害などの抵抗もおこなわれていった。1945421日にはこの収容所からの撤退がはじまるが、2月頃から5000人が処刑されている。撤退にともない「死の行軍」が強いられ、多くの死亡者が出た。空爆によっても工場労働を強いられていた人々から2000人ほどの死亡者がでている。この収容所に1936年から45年にかけて収容されたのは20万人以上、死亡者も10万人を超えるという。

ザクセンハウゼン収容所への入場施設にはたくさんの書籍が置かれていた。各地の収容所の文献があった。最近日本で翻訳された「エリカ」の原語版もあり、表紙をみるとユダヤの星のマークがはずせるつくりになっていた。収用所の壁と監視塔が残され、それらにそって収容所の入り口まで行くと、右側に資料館があり、そこには連行された人びとの経歴などを示した展示がおこなわれていた。読んでいくと、ノルウェーで戦後政治的な指導者となった人などもあり、政治犯として多様な人々が連行されたことがわかる。

収容所入り口の門には「労働は自由をもたらす」とある。近くには高圧電流を流していた柱やバラセンが残っている。奥のほうには追悼碑があり、18の赤い逆三角のマークが政治犯死亡者の出身国数を示して描かれている。収容棟も再建されたものも含め、数箇所残されている。収容所内の監禁施設の棟の一部が残され、庭には3本の柱が立てられている。ここは人々が吊るされ拷問されたところである。監禁施設の中に入るとそこが独房であったことがわかる。その一室にはそこでの死者を追悼する写真などが置かれていた。この棟の近くには同性愛者を追悼する碑もあった。

この監禁施設の近くにはユダヤ人収容棟と建屋が2棟あり、内部は収容状況を示す展示がなされている。洗い場が拷問に使われたことが記されていた。この建屋は1992年に放火されたが、再建されたものである。展示を見ていくと、殺された人々の名前とその経歴が記されている。死者の名前とその歴史を記すことの大切さがわかる。

また医学実験がおこなわれた棟も残され、その犯罪についての展示がおこなわれている。ガス室・処刑場・焼却炉があったZ施設近くの収容所の壁にも展示があり、Z施設に入ると半地下型の施設が復元されている。さらに、焼却場やガス棟の部分が発掘され保存されている。ガス室に向かう階段が3段残っていた。多くの人々を殺した施設が眼前に現れた。

ザクセンハウゼンは戦後ソ連による収容所(1945〜50)としても使われた。その展示が収容所施設の奥の方にある。その近くの監視塔の内部には入ることができる。収容所入口の左方にはさまざまな追悼碑が建てられている。

このザクセンハウゼン収容所はベルリンに近かったから、ここをナチスSSは収容所管理の拠点とし、強制労働分隊の派遣拠点とした。大量処刑も行われた。謀略の拠点とされ、死の行進の出発点ともなった。

廃墟となったベルゲン・ベルゼンと比べ、ここには構造物が残されている。収容所の棟の跡地には白・紫の小さな花々が咲いていた。その花々のかなたに、赤茶けた鉄線、はがれた高圧電流用柱のコンクリート、バラック跡の礎石、色あせた壁、拷問用の柱、死体焼却用炉、棟の跡に作られた追悼板、そこに来訪者が置いた小石の群があった。棟内には死亡者の写真、履歴が明らかになった人々を語る文字、掘り起こされた遺品、拷問道具、解剖台などさまざまな展示がなされていた。

ここには生を絶たれた多くの人々の歴史が刻まれている。このザクセンハウゼンの現場は、大量殺戮の時代において、このような殺戮する行為をすすめた心性と、それに抵抗する行為を支えた心性についての問いかけを発しつづけているように思われた。

 

     ヴァンゼー会議教育記念館

  

ヴァンゼーはベルリンの南西にある湖である。この湖畔の森には別荘などが立ち並んでいる。この森の中に1915年に作られた別荘を、ノルトハフ親衛隊財団が1940年11月に購入した。この財団は国家保安本部長官であったハイドリッヒによって設立されたものである。別荘は1941年夏に改装され、警察や親衛隊の将校によって利用されるようになった。1942年1月20日、ここでハイドリッヒの召集によってユダヤ人の絶滅に向けての会議がもたれた。その後、この別荘は国家保安本部の客舎として使われた。

ヴァンゼー会議自体は90分ほどで終わっている。この場所に、ハイドリッヒを議長に行政関係者が集まり、「ユダヤ人問題の最終的解決」が話し合われた。1100万人のユダヤ人を東方に連行して強制労働をさせ、不要なユダヤ人は「処置」するというのである。国家保安本部ユダヤ人局の責任者アイヒマンはこの会議の議定書の草案を用意していた。 

この会議以降、ガス殺・銃殺による大量絶滅政策がすすめられていくことになる。すでに前年の12月からへウムノではガス殺がはじまっていた。

戦後の1965年に歴史研究者のヨーゼフヴルフがこの場所に国際的な文書記録センターの設立を要求したが、実現しなかった。記念館の開館は1992年、会議からちょうど50年後のことである。この別荘はヴァンゼー会議についての公立の教育・記念館として整備されたのである。建物や会議場の天井・窓などは当時のままである。

建物の1階は展示会場となっていて、屋外にもパネルの展示がある。展示は14の部門で構成されている。順に主な展示をあげてみよう。

1 ドイツでの独裁政権の成立(1933〜37) 強制収容所・人種差別・焚書・ニュルンベルク法・ユダヤ人の主張、2 戦争前の時期(1938〜39)ゲシュタポ・水晶の夜・逮捕・国外退去、3 ポーランドにおける戦争(1939)ワルシャワ侵攻・恐怖・登録・懲罰・再移動・ウッジゲットー、4 ゲットー(1940〜42) ワルシャワゲットー・ゲットーの一日・フランク総督の演説・強制退去・へウムノやトリブリンカの収容所へ、5 大量射殺(1941) 1941年6月22日・コフノ・ルヴォフ・パルチザン処刑・リジェパジャ

6 ヴァンゼー会議(1942年1月) 絶滅計画指令・「最終的解決」・会議参加者の履歴、7 強制追放(1940〜43)ビエレフェルド・ヴュルツブルグ・ハーナウ・アムステルダム・強制連行・ヴェステルブルクから 8 一八の国々 アルバニア・オーストリア・ベルギー・ブルガリア・チェコスロバキア・デンマークほか 9 輸送中継収容所 パリでのユダヤ人狩り・ガース・ヴァーネット・ドランシー・強制輸送・テレジンシュタット・絶滅収容所(へウムノ・ベウジェッツ・ソビブル・トレブリンカ) 10 アウシュビッツ 到着・選別・地図・大量虐殺・チクロンB輸送許可書・レジスタンスの写真・ガス室・焼却炉

11 強制収容所の生活 強制追放・強制労働(IGファルベン・クルップ・ラインメタルほか)・生体実験・懲罰 

12 ワルシャワゲットー蜂起(1942〜43)戦闘・逮捕・アピール文・処刑・破壊 13 戦争末期(1944)パルチザン・大量埋葬地の発見・マイダネック解放・ガス室の爆破・アウシュビッツ解放、14 解放 死の行進・死の輸送・生への帰還・ブーヘンバルトの誓い・ベルゲンベルゼンの集団墓地・死者の埋葬・ニュルンベルク裁判。

このような展示がおこなわれている。ナチスの権力掌握からその戦争犯罪の追及までが写真や資料で展示されているわけである。

展示の中で最も印象に残ったものは、会議がおこなわれた場所にあった会議参加者の写真と履歴の紹介だった。現場の持つ力とその真実を伝えようとする意思がそこにはあった。ここでは、ユダヤ人の大量虐殺が国家保安本部を中心に外務・内務・警察などの官僚たちの合意の下におこなわれていったことが示されている。

会議がおこなわれた現場にいると、最初の東方輸送はギリシャからでどうだ、まず軍需生産にユダヤ人を使ってから処分すればいい、生き残ったやつは活力があるから有害だ、ユダヤ人をどううまく駆り出すかが大切だ、700年間の純血を見極めたい、残されたユダヤ人の全財産を算定してみよう、射殺計画はすすんでいるか、殺害専用の収容所の建設状況はどうか、長く苦しめるよりはガス殺のほうが人道的だし効率がいい、このような呟きが聞こえてくるようだった。

ハイドリッヒはプラハ近くで抵抗者に襲撃され、そのときの傷がもとで死亡している。アイヒマンは1960年に捕らえられ62年に処刑された。ドイツの収容所からアウシュビッツへの強制移送を指示した国家保安部のミューラーは南米に逃亡し死亡年は不明だ。中には、内務省のシュトゥッカートのように戦後「故郷を追われ権利を剥奪された者の同盟」の地区議長などを務めたものもいる。

戦後も人種差別の観点を持ち続けたものも多かったであろう。そのような力が1960年代のヴァンゼーでの記念館建設を止める力になっていたと思われる。しかし、過去の克服を求める力もまた60年代には形成されていった。現在の展示はこの50年間の歴史認識をめぐるたたかいの結果といえるだろう。このヴァンゼーの近くの駅には強制輸送を語り継ぐプレートがある。わたしたちが、こういった表現方法や記念館の展示方法・内容から学ぶことがらは多い。                   (竹内)