フィランドの旅2006・8

 

 要塞島スオメリンナ

フィンランドのヘルシンキの港から船に乗って15分、スオメリンナ島に着く。この島は要塞島である。フィンランド人は自らをスオミと呼ぶ。かれらはバルト海を越えて渡来したゲルマン系を主とした民族である。スオメリンナとはスオミの砦という意味であり、もともとスウェーデンによって建設されたため、スヴェアポリと呼ばれていた。

ヘルシンキはサンクトペテルブルクとストックホルムの中間点にあり、このスオメリンナの島はバルト海での覇権形成の要衝となった。フィンランドは当時スウェーデン王国の支配下にあってロシアに対する前線とされた。このフィンランド統治は650年に及ぶ。1748年からこの要塞の建設が始まった。しかし、ナポレオン戦争の際、1809年にロシアに併合され、フィンランドはスウェーデンから分離されて自治領となった。首都はトゥルクからヘルシンキとなった。ヘルシンキのロシア風の建築物はこのロシア支配期に建設された。この中でフィンランドの民族主義が形成されていく。クリミア戦争の際には1855年に英仏艦隊が砲撃を加えている。厚い花崗岩による要塞は旧時代のものとなり、砂を固めての要塞がロシア支配時代に建設された。19世紀末には造船所も作られた。フィンランドは1905年・1917年のロシア革命を経て独立することになる。この要塞は1973年まで軍の管理下に置かれていた。

スオメリンナはこのバルト海での覇権争いを象徴する要塞であり、世界遺産となっている。なおこの要塞には呉海軍造兵廠で製造された大砲も展示されていた。

さて、この要塞の説明書から気になったことがあった。それは、1906年の要塞でのロシア水兵の蜂起事件と1918年のフィンランド内戦時に共産主義者捕虜が1年ほど収容されたという記事である。スオメリンナ博物館の解説書によれば、1906年の蜂起のスローガンは『大地と自由』『国民的結集』であったが50人が殺され28人が虐殺されたという。また1918年の捕虜のうち10・6パーセントが飢えや病気で死んだという。これらの活動の社会的背景について知りたく思った。

フィンランドの教育現場

フィンランドの教育での学力が話題となり、教育現場の視察もおこなわれるようになった。ドイツや日本からの視察が多いという。

フィンランドではグループ学習が基本となっている。そこでは平和・人権・共生が価値意識とされ、競争を否定し、協働と共助が基本とされる。形成的評価をおこない、クラブ活動はなく、教師は修士以上の学歴を求められる。競争をやめたら学力が上がったというのがひとつの総括という。差別をなくし、女性を大切にし、将来に向けて努力する人間をつくるという発想がいいと思う。

教育局によれば、平等な関係を作るために学校間のランキングリストを作らないし、地域・学校に対しては外部評価ではなく、それぞれによる自己評価をすすめるという。教師への査定は90年代に廃止した。学校自体に自己評価の権限を与える、という。

ヘルシンキ近郊の学校に行き、6年生と8年生の歴史の教育時間を見た。そこの校長は博士号を持つ人物で、学校紹介の説明では知的な気品があった。日本の子どもたちが行っている学校の管理職と比較して知性の差を感じてしまった。その説明で教育目標として「人権・平等・民主主義・環境」という項目が第一にあげられ、また子どもの福祉のための協同についても触れていた。残念なことに、これまで日本の学校でこれらを目標として説明されたことはない。

なお、日本では1945年をめぐって靖国のように論争があるが、フィンランドではより前の1918年についての歴史論争があるという。それ以上は説明がなかったが、これは内戦の評価についてのことだろう。

学校のバッチを見ると、「子どもの福祉と教育のために」とスローガンが書かれていた。机やいす、電燈などのデザインもよく、教室空間がゆったりとしている。教室の人数は2~30人だった。指導を要する子どもには「好意的な差別」をして人を当てるという。福祉と平等を価値とする社会では、人間に対する社会の関わり方が、競争と選別を批判化しえない社会とはまったく違っていく。

6年生は教師の指示でだが、立って訪問者を迎えてくれた。だが「起立」「礼」「お願いします」などの虚礼的号令はない。教室ではそれぞれが調べてきたことを発表し資料を示していた。8年生では第一次世界戦争の復習をしていたが、教師と子どもとの間に一定の信頼の空気があった。これはそれまでの関係が作ってきた蓄積によるものなのだろう。

ただし社会的矛盾の多い地域ではなかなか理想的にはいかず、その現実との開きは大きくなるように思う。

 

タンペレの「レーニン」

フィンランドの独立時には労働運動の勢力が大きかったことが大使館の観光冊子に書いてあった。ヘルシンキ市街にいてもその状況は見えてこない。工業都市タンペレには労働者住宅が博物館になり、レーニン博物館もあるというので、タンペレに行くことにした。1905年・1917年関連の情報もそこにいけば何かつかめるかもしれないと思ったからである。

タンペレまで急行で約2時間である。

 タンペレは織物工場の跡地や旧労働者街が再開発されて観光地になり、芸術をテーマに観光都市化もすすんでいるが、地図を見ると南部には多くの工場がある。駅の東にはロシア風の古い教会があり、川を越えて少し歩くと「レーニン博物館」がタンペレ労働者会館の3階にあった。建物の外側には労働者像やハンマーも持つ手のレリーフなどがあり、労働運動の歴史を感じさせる。建物自体は増築されたものという。館の入り口には観光案内のほかに『労働者階級調査2006年版』も置いてあった。

レーニン博物館には日本語の解説冊子があり、コピーの販売もある。それを読みながら展示を見た。第1部の展示はレーニンの歴史、第2部はレーニンとフィンランドのかかわりである。1989年の革命以後、各地のレーニン像は倒され、レーニン博物館もなくなってきたが、この地にレーニン博物館が存続した理由は、この建物でロシア社会民主労働党の会議がもたれたこと、レーニンはフィンランドに亡命したこと、この地が労働運動の拠点であり独立にむけての宣言を発した場であること、などであり、レーニンがフィンランドの独立を承認したという形でかれを評価できることによるのだろう。

 展示を見ていても展示物事態についてはその内容がよくわからなかったのだが、受付であれこれと説明を求めると、館の担当者が現れ、フィンランドとレーニンの関わりについて説明をしてくれた。これでやっとそこに示された展示物の意味がわかった。

 フィンランドとレーニンの展示では、フィンランドの独立を求める署名運動の絵、独立派有産階級の写真、1905タンペレコミューン・ゼネストの写真、1905年のタンペレでの赤い宣言文のビラ、労働運動活動者の写真、フィンランドとレーニンの滞在先、独立後の1918年のフィンランド内戦の攻防地図などが展示されていたのだった。

 解説冊子によれば、パリコミューンの影響を受けて190511月にタンペレでゼネストによりコミューンが形成され、スト委員会が町を支配し、自由と独立を訴える赤い宣言書を出した。この運動の中で、12月にロシア社会民主労働党の会議がこの建物でおこなわれた。ここでレーニンとスターリンが初めて会った。1906年レーニンはヘルシンキのスミルノフの家に泊まった。190611月にはロシア社会民主労働党の会議が再びタンペレでもたれた。またその後ロシア社会民主労働党の兵士たちの会議もタンペレでもたれた。11月にタンペレの労働者代表たちとレーニンは会談し政権をとった際のフィンランドの独立を約束したという。ロシア社会民主労働党の会議は1907年にはフィンランドのコトカやヘルシンキで開かれているから、彼らにとってフィンランドは革命拠点のひとつであったわけである。1917年にもレーニンは1時期フィンランドに移動していた。冊子にはこのようなことが記されている。

 館の説明によれば、スターリン時代にかかれた絵ではスターリンとレーニンの会見のとき、スターリンがレーニンを見下して話しているように書かれている。また、亡命フィンランド人の内、粛清された人もいるという。そういえば、アイノ・クーシネンの本に『革命の堕天使』があった。かの女はコミンテルンで活躍したクーシネンの妻であり、かれらはフィンランド人だった。

 独立時の動きについて他の資料も加えて、ここでみておけば、ロシア革命によって191711月にはヘルシンキでゼネストになり、フィンランド社会民主党は8時間労働制、男女平等選挙権の地方自治への拡大などを立法した。12月等フィンランドは独立した。その独立にあたっては、フィンランド社会民主党のEサリーン、Eフットゥネン、Kマンネル、KHヴィーク、Eギュリング、Mトゥルキアら使節団がレーニンとあって交渉した。このような社会主義運動のたかまりの中での独立であったが、19181月ヘルシンキ革命内閣の設立によってフィンランドは赤白の内戦になったが、4月のヘルシンキ制圧によって革命は敗北した。この中で革命派は五千人という人々がロシアへと逃走した。タンペレでは500人以上が射殺された。赤軍捕虜は8万人にものぼった。そして555人に死刑が宣告され、半数はすぐに処刑された。亡命者はカレリアコミューンを形成した。両軍死者の追悼碑がヘルシンキにあるという。

 このあとソ連が1939年にフィンランド侵略を行い、そのためフィンランドはドイツと手を組んで防衛戦をおこなったが、フィンランド社会主義者は亡命者の粛清をすすめるソ連側には立たなかった。のちソ連との講和によって、今度はドイツ軍との戦闘となり、ドイツによって北部のロバニエミ民衆の虐殺がおこなわれた。戦後、フィンランドはソ連に賠償を要求された。戦後は社会民主党の力が強く政権を担うことが多かった。1982年には社会民主党のコイヴィスト大統領が生まれた。

 このような歴史があるから、1918年の評価がいまも歴史論争となるわけである。タンペレの町に行くことでやっとその経過がわかった。タンペレのフィレイソン工場跡地には労働者中央博物館がある。そこにはフィンランドの労働運動史の展示があり、その記述からこの国の社会変革を求めた労働運動の歴史を知ることができる。ちなみにヘルシンキの国立博物館では、20世紀についてはニュース映画が流されている程度で近代史についての記述は少ない。

 1918年の追悼碑について調べるためにタンペレの図書館に行った。図書館は雷鳥をイメージした外形建築であり、内部配置は円形状になっていて、中央にレファレンスがあり、親切に資料紹介をしてくれた。ネットで検索し、タンペレの郷土資料に写真入りで紹介されたページを示し、場所も教えてくれた。また、関連の演劇まで紹介してくれた。図書館は文化の最先端であり、社会の中で最も高いレベルの民主主義を示すというが、タンペレの図書館の雰囲気はよかった。

 駅を越えて墓地まで行くと、墓地の入り口近くと中央部左側に1918年関連の碑があり、さらに奥には第2次世界戦争(193945年)の墓碑が並んでいた。民衆の歴史はこのような墓地に刻まれている。ヘルシンキのキアズマの前にあるマンネルハイムの像からはみえないものだ。協働と扶助を基底において、民衆の側からの新たな1918年と1939年を超える歴史記述が求められるといえるだろう。

フィンランドの北方先住民族をサーメという。かれらのシャーマンが精霊と交流する際、象徴的な言葉とドラムで即興表現「ヨイク」を歌った。先住民族の精神世界には協働と扶助があると思う。そしてこのような精神性は、今もこの森と湖の国フィンランドにおいて造形力や社会民主主義的な福祉の形で生きているように思う。けれども、フィンランドは原発を推進しているという。これは問題だ。

夏の樅・松・白樺の森にはさまざまな苔が生え、コケ桃・ブルーベリーが実をつけ、ヒースの花が咲いていた。森と湖とそれとともに生きる人々から豊かな精神世界を学びたいと思う。