ワルシャワの旅2006・8

ワルシャワはドイツやロシアによる支配のなかポーランドの民衆が幾度となく蜂起した街として知られている。

ここでは1943年のワルシャワゲットー蜂起や1944年のワルシャワ蜂起に関する史跡をみていきたい。

ワルシャワゲットー蜂起の史跡

 ワルシャワゲットーの建設は194010月のことだった。ワルシャワには多くのユダヤ人が居住していた。4万人のゲットーの居住空間に35万人が押し込められることになった。さらにユダヤ人絶滅政策により、トレブリンカ絶滅収容所などへの輸送がおこなわれ、ゲットーの段階的解体が進められた。この中で19434月ワルシャワゲットーでの蜂起がおきた。

 ワルシャワゲットーについては『Map of The Warsaw GHETTO』(ExpessMap2003年)があり、当時と地図と現在の史跡の案内図がある。冊子としてはRuta SkowskaTHE WARSAW GHETTO』があり、巻末には史跡地図がある。写真集としては『WARSAW GHETTO』(PARMA PRESS2006年)があり、DVDには『THE WARSAW GETTO1940-1943』(TPS,ZIH2001年)がある。このDVDは当時の映像で構成されたものであり、一見に値する。

 当時のゲットーの壁は2箇所に残されている。ひとつはスヴォタ通りのアパートの中にあり、追悼の碑文がある。もうひとつはヴァリッツ通りの工場の外壁にあり、ここでは多くの人々が銃殺されたという。

ワルシャワゲットー蜂起の碑はムラヌフ地区にあり、正面に蜂起する群像、裏面には連行されるユダヤ人を彫りこんでいる。この碑は1948年に建てられている。この碑の前の小さな売店にはこの地の歴史を知るうえで欠かせない本や地図・資料が並んでいた。碑の北に方向にはユダヤ人戦闘団指導部の碑がある。また、ユダヤ人墓地の南側にはユダヤ人を追悼する集合碑がある。

ワルシャワクダニスク駅の南にはユダヤ人がトレブリンカなどの絶滅収容所へと連行されたことを示す「ウムシュラークプラッツ」の碑がある。ドイツ占領下の絶滅政策により、貨物列車の貨車詰め替え場がユダヤ人輸送の待合場になった。映画『コルチャック先生』にもここでの場面が描かれていた。門をくぐると、「30万人以上のユダヤ人が1942年から43年の間にワルシャワゲットーからナチの絶滅収容所のガス室に送られた」と記されていた。

ヤヌスコルチャックの像がクロフマルナ通りのドムシェロットにある。コルチャックが孤児院として使っていた建物が残り、コルチャックの像が建物に取り付けてある。またコルチャックの胸像が正面に置かれている。

コルチャックの像とともに見たかったものはピエルザレフスキ(PIOTR ZALEWSKI)の碑だった。かれの名は、近藤康子『コルチャック先生』(岩波)の中に少し紹介されていた。コルチャックの孤児院の管理人であったポーランド人ザレフスキはコルチャックとともにゲットーに行こうとしてドイツ兵に殴られたという。

ザレフスキの碑には次のように刻まれていた。「ピエルザレフスキ、1944年8月ヒトラーの軍隊によってここで銃殺された。ドムシェロットの長年の従業員、ユダヤ人の孤児を最後まで見捨てなかった」と。親を失った子どもとちとともに生き、子どもの権利を実現しようと民族を超えて生きようとした一人の男の歴史がここにあった。

ユダヤ人墓地にはコルチャックの碑やザメンホフの墓などもあるというが、今回は見ることができなかった。ユダヤ人墓地は土曜休みだった。

 

ワルシャワ蜂起の史跡

ワルシャワ蜂起(19448月〜10月)については、『The Warsaw Uprising』(PARMA PRESS2004年)という写真集に蜂起時の写真や追悼碑の紹介がある。『Warsaw(FESTINA 2004年)は破壊された建物と再建した建物を比較して紹介する写真集である。蜂起の歴史地図としては『Mapa Powstani Warszawskiego』(2006年)がある。

ポーランドは19399月のドイツによるポーランド侵攻によってドイツとソ連とに分割占領された。このなかでソ連軍がワルシャワ市街に迫るなかで、ワルシャワ蜂起が起こされた。トハチェフスキが『ワルシャワ蜂起』の中で指摘するように、対ドイツ蜂起はロンドン亡命政府派の抵抗組織によって「ソ連への政治闘争」として起こされた。そしてソ連とポーランド(AK軍)との軍事協力はまったくないまま、蜂起は敗北し20万の市民が生命を失ったのだった。このような蜂起の政治的性格のために、戦後のポーランドでのソ連派共産主義の支配の中で、その評価は抑圧され、旧AKメンバーへの迫害もおこなわれた。 

このAK軍とソ連との対立状況を描いた映画が『灰とダイヤモンド』なのだが、ワルシャワの町を歩いてみると、ポーランド人の民族意識を感じさせるものが多い。

1989年の革命のあと、この蜂起を評価する巨大なモニュメントがワルシャワ市街地に登場する。それがクランシスキ公園の蜂起記念碑である。さらに2004年にはワルシャワ蜂起記念館が開館した。これまで再建された建物の壁や街路に追悼の文字を記されてき人々の新たな形での復権がおこなわれたわけである。

しかし政治的利害によって、20万の市民が死へと追い込まれたわけであるから、政治戦術面での批判や階級的な視点からの総括も必要だろう。

ワルシャワ郊外北西のコムナルニ墓地には蜂起したAK軍やポーランド軍の集合墓がある。蜂起軍の墓は白樺で十字が組まれている。そこに死者の名を記した札が掛けられている。そのような白樺の十字がいくつも並んでいる。その入り口にはAK軍の碑がある。

15歳や19歳など若い人々が多い。戦後亡くなった人々もそこに名を刻んでいる。ささげられた花束やキャンドルには一人一人への思いの深さが込められている。新しい白樺の木の白い輝きが追悼への厳粛な雰囲気と継承への強い意思を感じさせている。

墓の前に立つと、立つ者の内心での対話が始まっていく。ここは蜂起による死者の存在に思いをはせる場でもある。墓地には静かな冷たい風が流れている。墓碑の一人一人の名前は、歴史がその一人一人の人間のためにあることを語り伝えているようにも思う。

ワルシャワの街角には、たとえば「この場所で血を流しポーランド人が戦死した。自由と母国のために。194486日ヒトラーの軍の銃殺によってポーランド人が大量虐殺された。」という内容の碑が数多くある。これらの碑群のひとつひとつの解説が「SPPW1944」のHP内にある。

赤と白の鉢巻をして銃を持つポーランド人少年兵の像もある。子どもを兵士として顕彰するありようは好きではないが、多くの子どもが死を強いられたことも事実だろう。

ソ連派共産主義時代に建設された文化宮殿を「文化宮殿からの眺めが一番美しい、なぜなら文化宮殿が見えないから」と人々は嫌う。ドイツとソ連の密約によるポーランド分割、カチンでの虐殺、対ドイツ戦争でのポーランド内での抵抗勢力の分断など、ソ連派共産主義支配へのポーランド人の民族的反感は強いものがあるように思う。発行された写真集などをみると、「スターリニスト」と否定的に表記されている。

一方でグローバリゼーションによる経済国際化がすすみ、ポーランドはイラクに派兵した。このような動きに対抗する新たな社会運動もすすんでいくように思われる。