フィリピンの旅 20078

 

 20078月、フィリピンを訪れ、フィリピン大学のホテルを拠点に各地を回った。以下はその報告である。企画はピープルズプラン研究所と現地NGOによる。

 

1 マニラ・イントラムロス

フィリピンは16世紀中ごろにスペインの植民地となり、19世紀末にはアメリカの植民地となった。1942年から1945年の日本の侵略を経て、1946年に独立した。しかし、アメリカへの軍事的・経済的従属は続いている。

マニラ市街にあるイントラムロスはスペイン植民地支配の跡を残す城塞都市である。多くの建物が第2次世界戦争で破壊されたが、当時の建物としては17世紀初めの建築である聖オーガスチン教会が残り、世界遺産になっている。教会のなかには日本軍によって殺された人々を追悼する部屋があり、140人ほどの名前が刻まれている。

サンチャゴ要塞には日本軍の拠点が置かれ、多くの民衆が殺害された。要塞に入ると右側の壁に戦争犠牲者を追悼するプレートが貼られている。また監獄とされた要塞の建物の前方に十字架が建てられている。マニラ戦で受けた銃弾や砲弾の跡が壁に残っている。マニラ戦でのフィリピン民衆の死亡者は10万人、日本軍の死者は12千人、米軍は1000人が死亡したという。日本軍によってマニラの北部墓地で2000人、聖パウロ大学で1000人など、各地で虐殺がおこなわれ、マニラの南方にあるバタンガス州のリパでは12千人以上が虐殺された。日本の占領と戦争によるフィリピン民衆の死者は110万人という。中には日本軍による虐殺や拷問も多い。

国立公文書館には戦後にまとめられた「日本戦争犯罪」の記録集が残されている。マニラやリパでの虐殺の記録もある。今回の旅の最終日に、公文書館に立ち寄って閲覧することができたが、殺戮の後の写真や銃剣で刺された跡を示す市民の写真なども残されていた。この記録集は日本軍による住民虐殺などの戦争犯罪を示す貴重な資料である。

 

2 スービック 米軍基地跡と汚染状況

 

19世紀末のアメリカの占領に対するフィリピン人の抵抗闘争は激しく、アメリカによって殺されたフィリピン人は60万人、フィリピンでの殺戮を「アジアでの最初のベトナム」ともいう。独立後もフィリピンの米軍基地は中国・朝鮮・ベトナム・イラクなどアジアへの軍事展開の拠点として機能してきた。

マニラの西北80キロメートルにあるスービックは米海軍の巨大な基地の町だった。1992年に米軍が撤退した後、経済特別区として開発がすすめられてきた。

スービック市の入口には検問所がある。市内建物には旧米軍建屋を転用したものが多い。市内には工業団地が作られ、大きな工場が建設されている。オロンガポなど民衆の居住区とは異なる風景がある。

フィリピン政府はスービック・クラーク地域開発計画をつくり、マニラを中心に米軍基地のあったスービック、クラークを道路で結び、経済圏としての開発をすすめている。進出企業をみると、台湾系が最も多く、ついでアメリカ、日本となる。韓国からの投資も増加し、製鉄・造船関連の巨大な工場の建設がすすんでいる。返還されて5年後のスービックの雇用状況の数値をみると、かつての米軍基地での雇用者数を上回っている。

スービックの海軍飛行場は民間飛行場となった。弾薬庫にはかつては毒ガスなどの化学戦用の武器も貯蔵されていたが、今では草地に隠れている。ジャングル戦用の訓練場跡地は観光用に使われ、一部はサファリパークになっている。しかし基地による汚染とその被害への補償は終わってない。

米軍基地の汚染物質はいまも存在している。湾の周辺には汚染物質が沈殿している。工業団地の土壌も汚染されているが、環境評価会社は問題なしの評価を出している。なかには汚染度が高いために工場立地が見送られた場所もある。川沿いに住んでいた人々が特に被害を受けている。

オロンガポではこのようなスービックの基地汚染除去のための対策委員会が組織されている。オロンガポでは女性への性暴力に立ち向かい女性や子どもを支援する組織1984年にできているが、基地による環境破壊との闘いも始まった。対策委員会の資料によれば、DDT、クロルーゲン、砒素、アスベスト、ベンゼン、水銀、カドミウム、クロム、鉛、亜鉛、ニケッル、PCB、セレニウム他、さまざまな物質による複合汚染がある。このような汚染は空軍基地のあったクラークでも同様であり、被害者が続出している。

アスベスト被害者の会は米軍基地の労働者の集まりである。基地内作業や船の修繕でアスベストを吸い込んでいる。なかにはベトナムやサウジアラビアで働いた人もいる。

人々は汚染されたスービック湾の魚を食べていた。夫の服を洗濯することで汚染物質を吸い込み肝臓に腫瘍ができたという人もいる。土地を奪われた先住民族は基地の中で働き、基地のごみを拾い生計をたてる人もいたが、汚染の中で生活することを強いられた。

ガン・白血病や皮膚病など多くの病気が人々を襲った。対策委員会では2000件の事例をまとめている。

基地汚染に苦しむ人々の訴えを聞き、支援する人々も現れた。被害者はアメリカとフィリピン政府に補償を要求している。

子どもたちへの被害も深刻である。

オロンガポのカラバン村の小さな商店で被害者から話を聞いた。村の家の中へと日陰の風が吹き、木や糞の臭いとともに土の香を運ぶ。太陽の光を受けて果実が膨らみ、洗濯物が揺れている。鶏が鳴き、猫や犬が近寄っては佇んでいく。竹製の長椅子に座って被害者はつぎのように語った。

テレシータさんは基地のホテルで働いていた。末の娘のキャサリンさんは12歳になるが、背中が曲がり、歩くことができない。4年生まで学び、成績はよかったが、交通費がなく学校は辞めた。医療費はすべて個人持ちで負担が多い。子どもは神が与えてくれたものだから、不満は言わないが、生活は苦しい。周囲からの援助で暮らしている。市民グループは被害者として認定したが、政府は認定しない。

マイリーンさんの娘、クリスティーンさんは14歳、心臓に穴が開いている。循環が悪く、体が黒ずんで動けなくなることもある。医者は13歳までしか生きられないといった。夫は18年間燃料廠の中で働き、42歳のときに心臓病で死亡した。川沿いにも7歳の男の子で心臓に穴が開いている症状の子がいる。友人の子どもはダウン症で心臓に穴が開いていた。お金がなく、月3700ペソに及ぶ医者代が払えない。

チムチムさんは脳性マヒのため、うまく歩けず、会話は分かるが話せない。心臓も悪く、1998年に手術をした。母親の右足には腫瘍ができ、同時期に切断した。母は結婚する前から廃棄物の米軍のドラム缶を洗浄して売っていた。

地域では乳ガン、卵巣ガン、肺ガン、子宮ガン、心臓病が多発している。米軍は危険な情報を人々に伝えず、キチンと処理しないで廃棄していた。廃棄物を生計の足しにした人々が被害を受けた。

心臓を病んだクリスティーンさんの不安なまなざしは遠くを見つめうつろだった。そのようなまなざしを再び作らないための活動が必要だと思う。政府は生存環境を守り、汚染状況を調査し被害者への補償からはじめるべきであり、「テロ」との戦争をすすめるのではなく、貧困と闘うべきだ。

米兵との間に生まれた子どもはオロンガポでは8千人ほど、フィリピン全体では5万人になった。父親を知らない子どもが多く、母親に捨てられたり、出生届がないこともあるという。地図を見ると、スービック自由貿易区の北にあるオロンガポやそのさらに北のスービックの道路沿いにバーが並んでいる。「レッドライト」と呼ばれているバーでは音楽とともに女性が踊り、買春もおこなわれている。10代の少女たちを踊らせ客を集める店もある。女性の性の奴隷化も軍事基地の存在によって増殖したものであり、今でも形を変えて続いている。

 

3 グローバル戦争と政治的殺害の増加

 

フィリピンの反基地運動のたかまりのなかで、アメリカは基地を返還したが、グローバリゼーションが進む中で、新たな軍事展開をおこなっている。米軍撤退後も、アメリカはフィリピンを従属させる軍事条約を結んでいる。2002年の相互兵站支援協定MLSAは、フィリピンをアメリカが「敵」とするものへの攻撃の足場として使用するものである。MLSAによって、米軍はフィリピン全土の港湾・飛行場の使用が可能になった。共同軍事訓練も増加した。フィリピン政府はミンダナオのモロや共産党の軍事組織への「全面戦争」を宣言したが、それは米軍の軍事展開に向けてのものであり、新たな形の米軍の駐留を生んだ。新たな戦時に入り、米軍はミンダナオのバシランなどで永続的に駐留するようになり、軍・警察が関与しての共産党系の大衆運動活動メンバーへのテロ・殺害事件も増加した。

フィリピンでは政治的弾圧者を救援するためにフィリピン政治拘束者対策委員会(TFDP)が教会関係者の主導により1974年に設立されている。事務所がケソン市内のカバオにあり、運動の歴史を示す展示を備えた「勇気と抵抗の博物館」の形で置かれている。ここでフィリピンの人権運動の概略を聞いた。以下、要約しておこう。

人権の概念はタガログ語から見れば、他者を意味するKAPWA、他者とのつながりを意味するKATARUNGANにあり、人権という用語は人間関係で何をなすことがよいのかというKARAPANG PANTAOという言葉になる。人権概念はタガログ民衆のなかに内在するものであるといえる。

スペイン植民地との闘いの中でカプティナンは自己と他者の尊重を訴えた。アポリナリオ・マビニは人間の尊厳やよき社会にむけての共同の権利について提示した。1970年代をみれば、ホセ・ジョセは人権を法的概念以上のものであり人間の本質と位置づけ、その否定は人間性の否定と同じことと語っている。1987年にマルコス政権との闘いの中で生まれた憲法は人権宣言を反映し国際条約にしたがって国内法を作るとした。フィリピンではスペイン・アメリカンの植民地主義との闘いの中で民族自決権と共に人権が確立してきた。アメリカの植民地支配ではバランギガの虐殺や山賊法による弾圧がおこなわれ、日本支配下では集団虐殺や財産の破壊が行なわれた。

戦後の再建ではアメリカの支援の下に復興したが、人権宣言に署名し、戦争犯罪法廷を設立して人道に対する罪の追及をおこなうなど、国際的な刑事裁判の基礎をつくった。

しかし国内的な人権状態は悪く、共産党の抗日人民軍は、戦後には政治的暗殺の被害者になった。1950年代には労働運動や集会言論の自由は規制された。1960年代から70年代にかけて、公民権運動の影響などもあり、汚職や軍閥の私兵や暴力などマルコス支配との闘いの中で人権運動が高まった。

教会は人間の尊厳と社会的変革を求める動きをとり、人権を守ろうとする中間層と民族民主運動をすすめる草の根の労働者農民の運動が結合した。1972年にマルコスがエンリレへの爆弾事件などの謀略を使って戒厳令を出し、令状無しの逮捕や無期限拘留などを繰り返しされた。このなかで7万人が検挙され、半数が拷問を受け、3000人以上が虐殺された。教会の指導者の協議会が1974年にTFDP を設立し、被害者の記録を作成し、失踪者や政治犯の救援運動をおこない、国連人権委員会への提訴も支えた。1986年にマルコス政権は倒れ1987年憲法ができた。

しかし、成立したアキノ政権は民衆運動への弾圧をおこなった。たとえば、共産党への全面戦争、農村での戦略村の建設、土地改革を求める農民への発砲、右派自警団の組織化、都市部での囲い込みなどがおこなわれ、マルコス政権下での利権も復活した。アキノの「平和と和解」とは「マルコス支配との妥協」でもあった。2001年、第2エドサ革命でエストラダは倒されたが、アロヨ政権はエリートの利権を守るための政策をすすめている。

アロヨは民衆が宮殿に押しかけると革命をおそれて戒厳令を敷いた。アロヨは共産党系の議員の検挙を狙い、軍が関与しての民衆運動のリーダーの政治的殺害もおこなわれるようになった。すでに300人以上(800人ともいう)が殺害されているが、合法的な活動領域のメンバーが殺されている。2007年にはアメリカの反テロ戦争に対応する「人間の安全保障法」を制定し、「テロリスト」を罰するという口実で監視を強め、適正な手続きもなく長期の拘留ができるようにした。把握できたものをみれば、2001年から07年にかけて逮捕拘留は1371件、拷問は239例であり、失踪者も多い。

フィリピンの債務は960億ドルに及ぶが、11ドル以下の低所得や栄養失調・飢餓で苦しむ人々も多い。自由・正義・平和は国家の抑圧と闘う民衆の中にこそある。

事務所でのフィリピンの人権運動の講話をまとめるとこのようになる。

 

4        グローバリゼーションとフィリピン民衆

 

 マニラのアノナス街にある喫茶店で討論会が持たれ、グローバリゼーションの下でのフィリピン民衆の現状についてのさまざまな報告がおこなわれた。以下、このときの報告から印象に残ったものをまとめておこう。

 フィリピンの政治状況についてみれば、1986年のフィリピンでのエドサ革命は形式的な民主主義しか回復できなかった。社会的政治的にはアキノ政権はマルコスと差はなかった。その後20年が経過したが、グローバリゼーションの展開の中で、アロヨ政権は危機に直面している。アロヨはフィリピン民衆の信認を得た大統領ではない。エリート指導部は権力争いをおこない、軍部内は分裂し、経済状況も悪い。この社会の腐敗を終わらせる社会的経済的なプロセスが求められ、このなかでの民衆運動の蓄積がこのアロヨ独裁を倒すだろう。

 債務問題についてみれば、政府は綺麗な経済ビジョンを描いているが、実際は大きな債務国であり、GNPの約80パーセントが債務返済に回っている。国家予算のうち2007年には6220億ペソが債務にあてられている。税の値上げや民営化がすすめられ、国家資産の民間への切り売りがおこなわれている。そして社会的サービス部門(教育福祉など)の予算が削られている。アロヨ政権は最も債務を抱えた政権である。債務が貧困を引き起こしている。グローバリゼーション下での貧困と債務危機に対し、民衆の側からのオルタナティブが必要だ。

メトロマニラの水道は10年前に民営化されたが、水道料は高騰し、水道のない地域も多い。電気の民営化も5年前におこなわれ、値上げがすすんだ。水は基本的人権であり、民営化は中止すべきである。水道サービスへのアクセスが保障され、管理が民主化されるべきだ。 

 グローバル化による日比自由貿易協定の締結については、フィリピン上院ではまだ批准されていない。この協定により、日本からの自由な投資が進むようになる。フィリピンの自立的発展への配慮はない。日本からの中古品が増加し、失業が増える。土地問題をさらに悪化させ、農業でも職を失うだろう。漁民は沿岸部を日本の投資家に奪われ、社会的不平等はさらに増加するだろう。FTA は力のある国に有利であり、WTOよりも悪い。交渉プロセスを公開させ、反対の声を強めるべきだ。フィリピンが国として自立できる経済開発計画とより平等で公正な貿易政策が求められる。女性を介護士として労働させることも協定では考えられているが、日本に行けない場合、韓国内の米軍基地にエンターティナーとして送られる危険もある。

 女性の権利についてみれば、女性はジェンダー、階級、人種による差別の下にある。女性に対する自己犠牲の強制と女性の権利の制限が、貧困とより賃金の低い産業につながっている。政治への参加も以前に比べれば増えてはいるが少ない。グローバリゼーションは、ストリートチルドレン、児童労働、性的搾取を増加させる。規制緩和や民営化は貧しい女性の権利を奪っている。女性は、移民、芸能、家事手伝いの仕事へと流れている。多くの子どもが親のない状況だ。マニラで10万人以上の子どもが、フィリピン全体では30万人の子どもが性の売買にかかわっているとみられる。

 反テロ戦争によって、モロの女性たちが最も被害を受けている。いまも800人以上の女性たちが拘束されている。また難民も多数出ている。ミンダナオでの和平合意を引き延ばすための口実のために「反テロ」戦争がおこなわれている。戦争が更なる貧困と人権侵害をもたらしている。

 フィリピンでは、グローバル戦争がモロや共産党への戦争と大衆運動メンバーへの政治的殺戮のかたちで展開している。それをすすめる政府の経済危機は深刻であり、民衆の貧困を解決する術をもちえていない。民衆の側の運動にも根強い蓄積がある。

 

5 ラグナ州の農民運動

 

 ラグナ州では農民運動の現場を2つ訪問した。ひとつはベイ市のサンアントニオでの土地獲得の闘いの場であり、もうひとつはカランバ市のカルンバンでの大地主による土地追い出しに対し居住権の維持を求める現場である。

 ベイのサンアントニオはマニラから南東に約50キロ、ラグナ湖畔の村である。農民を支援するATCRDのメンバーが状況を説明した。

この地は農民が稲作をおこなってきたが、アメリカからの独立の頃、1946年にヴィセントという男が所有権を宣言した。しかし、その証明はない。1972年にマルコスが農地改革を始めた。地域では農民組合が結成された。政府の土地銀行に地代を払う形での土地の分配が始まったが、土地の所有権はなかなか農民のものにならなかった。農地改革法には大農場や産業原料用農地、転用地は農地改革の範囲から除外する規定もあり、大地主は農地を改革適用除外の農地へと転用して改革を逃れようとした。

 ベイの農民組合には8カ村、200戸ほどが参加している。農民たちは地権獲得にむけての運動を強め、農地改革省に土地の所有権の確立を要求し大衆行動を重ねた。2007年には21戸が土地の権利証書のコピーを得た。農民組合の委員長のドロさんの場合、1,haを獲得した。

ドロさんの家が組合事務所を兼ねている。子どもが古い手押しポンプで水を出し、桶に水をためて犬を入れて洗う。子どもたちの笑い声が響く。犬も鶏も牛も人間と共に大地のなかで生きている。かなたに湖に入って魚を取る人々の姿がある。この地域に住む農民にとっての真の土地改革はまだ終わっていない。

ラグナ州を含むカラバルソン地域では工業化計画がすすんでいる。あと10年もすれば、地域農業が破壊されるおそれもあるという。ラグナ湖には工場からの汚染水が流入し、汚染は深刻である。

 カルンバンはベイ市よりもマニラよりにあるカランバ市の集落である。このカルンバンの集落はユロ家が所有する大農園の中にある。農民はかつて稲作やサトウキビ作りをしていた。ユロ家などの大地主は第2次世界戦争の頃には日本軍に協力し、ユロ家がこの地域を所有するようになった。

 マルコスは土地改革を進めたが、その改革対象地を稲作ととうもろこし作地にしたため、この地は改革を逃れてサトウキビの大農園になった。ユロ家はこの農園での雇用や米の配給、住居・医療・電気・水などの供給という条件を出したから、農民たちは土地の権利書をユロ家に渡し、ユロ家の所有地は22ha余に拡大した。そのうちこのカルンバンが1haを占めている。このカルンバンは9つの村がひとつにまとめられてできたため、フィリピンでも大きな村という。                      

 ユロ家は土地改革を逃れ、土地をサトウキビ農園、住宅地、商工業地へとつぎつぎに転用した。ここの人々はサトウキビ農園で働いてきたが、転用によって農地を失い、ユロ家はこの土地から居住者の追い出しを求めた。ユロ家は地域で影響力を持ち、一族の中からは市長も出している。裁判となり、居住者側が抵抗し、この土地の所有権をめぐっての問題が明らかになるなかで、ユロ家は土地からの追放を撤回した。しかしユロ家はユロ家と結託したNGOを利用して転居に同意させるといった手法で居住者の追い出しをすすめている。居住者たちは農民組合をつくり、署名やデモやピケなどの行動によって居住権を主張し、「土地の占拠は違法ではない」と闘っている。ユロ家がどう言おうと占拠して耕作しなければ生きられないのである。居住地の家屋の横にはジープニーやトランシクルなどが置かれている。ここから町にでて働き、生計を立てているという。

ヘレンさんがこの地で20世紀のはじめから祖先がサトウキビを作ってきた歴史を話す。農民組合PKMPのメンバーがこの地域での闘いの歴史を語る。話の途中、茹でた小ぶりのバナナとチマキ、バタンガスのコーヒーが出た。この地域の民衆のおやつで、見かけはいまひとつだが、味は絶品だった。

ユロ家に土地には巨大なサンミゲルのビール工場が建ち、検問所近くにはコカコーラの工場も見える。大地主の支配地は検問所で守られている。その土地に向かって高速道路までつながっている。巨大な利権の上に工業化がすすんでいることがわかる。

人口の1パーセントほどの大地主や資本家が農地の8割を所有するという大土地所有制が貧困と暴力と不正の根源である。

 

       マニラのイスラム居住地

 マニラの南部、タギグ地区のマハリカ村はイスラム・モロの居住区であり、街にはブルーモスクがある。ここはニノイアキノ空港の西方にあたる。

 この地域は団地になっている。1975年にトリポリで政府とモロ民族解放戦線との間で和平の合意がなされた。それにより、マニラのこの地域に難民を保護するための団地が建設された。マニラには20万人のモスリムが居住するという。

 ミンダナオ島、バシラン島、スルー諸島にはマラナオやタウスグなどの諸民族が居住しているが、イスラム系の民族を総称してモロという。モロとはスペイン人による蔑称による。スペインの侵略の前にイスラム教が渡来し、この地域には独自の王国ができた。歴史的ルーツを持つモロはスペイン、アメリカ、日本、フィリピンに屈服しないで、抵抗した。モロ戦争は500年に亘って継続しているともいえる。現在、ミンダナオ島の西部からスルー諸島にかけて、ムスリムミンダナオ自治区になっている。

 このミンダナオ地域には21世紀になって米軍が新たな形で展開している。ミンダナオのバシラン島は東南アジアでの米軍による対イスラム戦の前線となっている。ミンダナオの鉱物資源の支配が背景にあるともいう。グローバル戦争がアフガン続いてミンダナオで展開されることで、多くの難民が出ている。

団地で話を聞いたが、モロが抵抗すれば、「テロリスト」とみなされ、拘束され、攻撃される。現地では兄弟たちが今も殺され、マニラでもムスリムであることで差別を受ける、と現状を批判する声が多くでた。

立ち寄ったモスクで青年と話をした所、青年が要求するものは「ストロングピース」だと語った。長い間戦争状況にあり、その地から逃れてここに居住する人々にとって、「強力な平和」こそ、第1の課題である。

 

        カビテ州経済開発区の労働運動

 

カビテ州はマニラの南西部にあり、工業化がすすめられている。カビテは米・コーヒー・砂糖・とうもろこしなどを生産する農業地でもある。スペイン統治下でこの地は修道士領となるが、あらたに形成されたインキリノという階級が修道士領を借りて小作させるようになり、地域の支配階級となった。カビデ出身のアギナルドはインキリノの出身であり、かれの革命政権は地域のインキリノを結集したものであったという。今もこの階級をルーツにする人々が地域で実権を握っていることが多い。

1979年に州知事となったレムリャは工業化にむけて「産業平和」を掲げ、労働組合やストライキを実質的に禁止した。誘致企業への雇用に村長や市長・知事などの紹介状を必要とさせ、その際に組合やストライキに参加しないことを確約させたのである。95年になってベラスコが知事となると、労働組合の結成もおこなわれるようになった。

現在ではマリクシが知事である。現知事を訪問する機会があったが、労働団体とも友好的な対応をする姿勢を持っていた。NGOの活動にむけて建物の供与もおこなっている。

カビテには輸出加工区や経済区などが設定され、衣料・電機・電子・自動車など多くの企業が誘致されている。労働者数は120万人ほどであり、正規雇用は2割、あとの8割は非正規雇用である。カビテではさまざまな形で労働者の組織化がすすめられている。

このカビテ州のイムスで労働団体から話を聞いた。イムスには日本の矢崎の工場もある。カビテ労働資料センターや衣料工場の労働者がイムスのNGOのビルに集まった。

フィリピンでは6ヶ月間雇用すると正規雇用とすることになっているから、たとえば5ヶ月契約で非正規労働者として雇用する。外資企業は外注化をすすめ、3~5か月分の発注をおこない、そのために人を雇うというやり方をする。派遣労働や契約労働といった不安定な契約労働者が増加する。雇用は長期化せずに、短期契約の雇用となる。グローバリゼーションによる「労働力のフレキシブル化」は労働者から権利を奪うものにほかならず、この権利侵害が輸出加工区・経済区で先行しておこなわれている。

カビテではフィリピンでの労働基準以下の労務管理が慣習となっている。マニラの最低賃金は350ペソ、カビテでは283ペソだが、カビテでの短期契約労働者の場合、賃金が220ペソとより低額なものになっている。下請け企業を装って雇用し、実際には人材派遣をして中間搾取するという会社もある。その場合、220ペソから手数料として40ペソを搾取し、労働者には180ペソしか支払われていない。

10年以上衣料工場で働いてきた女性労働者はいう。以前は社会保障があったが、2004年からなくなった。残業代も出ず、ボーナスもなくなった。労働中はトイレにも行けず、水も飲めない。企業側が掛け金を支払っていなかったため、病気になっても保険が出ない。生産ラインも4つから2つに減らされた。ノルマを14000枚とされ、できなければ残業が強制される。給与の支払いも遅延する。会社は、10年間は税が免除されるから、10年後には他での操業をねらっている。ある会社で労働組合ができたが、経営者は会社を閉じた、と。

とくに韓国系や台湾系の企業の労務管理に問題があるという。かつての日本や1970年代の韓国での「女工哀史」がグローバリゼーションのなかでこのフィリピンの加工区に持ち込まれている。

正規労働者のうち労働組合に組織されているのは10パーセント以下であり、その多くが会社側の労使協調組合である。これに対し、資本と闘い民族の解放を求める組合は弾圧されている。非正規労働者は労働組合に入れないし、組合は労働者の2割を組織しないと認知されない。このため組合を結成して団体交渉や争議の権利を行使できない状況に追いやられている。

輸出加工区の労働者には、組合の結成や賃上げ、雇用保障、労災補償、労働安全衛生といった労働条件の改善に向けての交渉権、政治的権利の保障など労働者としての基本的な権利がなく、その権利の確立が今、求められているのである。非正規の契約労働が増加し、最低賃金さえ守られていないのである。

このような中で、活動者たちは労働者の居住区に労働者同盟などの組織をつくり、地位向上を目指して、経済監督局との交渉をおこなうなどの活動をすすめている。また「新たな政府を目指す労働者と労働組合の連帯」といった組織を結成し、闘う労働者のネットワークづくりもすすめている。

 

 

 フィリピンでは植民地支配の影響を受けて大土地所有制度が残り、いまも数十の家族が国土の半分以上を支配している。その利権や金権が公的・私的な暴力によって維持されている。土地改革は不十分なままであり、その土地が経済開発区に転用され、そこに外国資本が導入され、労働基準以下の労働条件が強要される。民衆の社会的権利が疎外され、貧困が支配的となり、路上での生活者も増加する。グローバリゼーションは強者が弱者をさらに搾取するものであり、このグローバリゼーションによる資本の結合によって、フィリピンの貧困はさらに深まる。それは債務の増加や労働者の無権利、路上生活者の増加という形で現れている。

けれども、それに抗する民衆運動も確実に形成されている。それぞれの地域での社会的権利に向けての運動と権利の蓄積が、必ず民衆の未来を拓く財産になるだろう。戦争をおこすのではなく、貧困とその貧困をもたらすものとの闘いが必要なのであり、搾取と戦争のグローバリゼーションではなく、権利と尊厳のグローバリゼーションが求められている。

                               竹内記 20079