クーバ! もういちど行きたい国

@明星と三日月と

明星と三日月と

地引 浩

 

男はベッドに腰をかけている

破れた壁と屋根の隙間から

明星と三日月が覗いている

サン・ルイス渓谷を見下ろす

かつての奴隷監視塔のほとり

男の朽ちかけた住処を

修理できる順番はまだ先になる

夕餉の豆のスープの匂いが残っている

男は大きくあくびをする

男のまぶたが重くなってくる

今日は一月二十八日

ホセ・マルティの誕生日

男の休日は明日の次の次の次

明日のために眠りにつく時だ

男は妻に語りかける

 

男はあてもなく街を歩いている

溢れる街の灯とビルの間に

明星と三日月が潜んでいる

ハママツ駅近くの裏道を進み

石造りの公園に突き当る

男の疲れはてた魂を

横たえるベンチすらそこにはない

肉と油の焦げた匂いが漂ってくる

男は小さく息をはく

男の胃袋が勝手に泣きだす

今日は何曜日だろう

あれから何日経ったのか

男には住処も食べ物も明日も

話しかける相手さえいなくなった

男が職を失った日から

(2009.1.28   キューバ トリニダーにて)

 

 ものがありあまって使えるものさえゴミにされてしまう社会から見れば、キューバは確かに「貧しい」かもしれない。道路を行きかうトラックの数が少ないことやサンタ・クララはともかくハバナでも馬車が走っているのだから、この国では燃料も工業用原材料も不足しているのだろう。

 だからキューバは「貧しい」のか。私はキューバにいる間、ずっとニッポンの今を見ていた。

 私たちの小さな組合も昨年の夏ごろから「派遣」切りで訪れる労働者たちとともにニッポンの今と格闘していた。

 いつのまにか生産現場で働く仲間のほとんどが「派遣」になってしまっていた工場では、資本のむき出しの暴力が貫徹していた。USAの経済破綻がたちどころに「派遣」の首切りに直結した。それも契約期間満了ですらなく「中途解約」として強行された。「もの」と同じように。

 職も住居も奪われた仲間たちは最少でも五十万円程度の蓄えがなければ、再起はありえない。路上生活しか道は残されていない。

 少なくても医療が無料で教育が無償で食べるものさえあれば、私たちは明日に希望が持てるだろう。この国の人々は、厳しい状況の中で賢い選択をした。しかも「国際主義」の旗を掲げて。

 キューバから帰ったニッポンは何も変わっていなかった。捨てられた「派遣」の仲間たちの多くが職を探していた。

 

Aチェには出会った、フィデルやラウルには会わなかった

 

1回目の記事で、CUBAという表記を「キューバ」と書いてしまって、しまったと思っている。実は「キューバ」というのは英語読みで、あちらでは「クーバ」と言う。だから乾杯の時は「ビバ! クーバ!」となる。というわけで今後は私も「クーバ」と言うことにする。

では、2回目の話。チェはともかくフィデルやラウルと聞いて、ピンとくる人はそんなに多くないだろう。かの地では人を呼ぶのに愛称を使う。フィデルは、あのカストロ(前国家評議会議長)、ラウルは現議長。通訳として私たちの訪問団を案内してくれたスサーナさんも彼らを「フィデル、ラウル、チェ、カミーロ」と親しそうに呼んでいた。ニッポンで同じように「タローくん」「シンゾウちゃん」なんて言ったら連中はたちまち不機嫌になるだろうと思う。

さて、チェに出会ったといっても本物に会えるはずはない。ほら、指導者の写真とか銅像とかがやたらと露出している国のイメージであちこち探してもないのだ。みやげもののTシャツなんかには、あの髭面のイラストがプリントされていたりするが、私たちが見たゲバラ像は三つだった。サンタ・クララの共産党本部前の等身大の像とゲバラ霊廟に立つ銃を持った像、そしてハバナの革命広場のビルにデザインされたチェだ。

フィデルやラウルの写真は革命博物館にはあった。だけど街中にはなかった。フィデルは自身が偶像化されることを慎重に拒否しているのだろう。そこがカッコイイし、賢いと思う。

フィデルやラウルの代わりに至る所で見かけたのは「五人の英雄」たちだ。看板や横断幕、ポスターに彼らがいた。一九九八年、アメリカによってスパイとして拘束され、十年以上も拘留されているクーバの若者たちだ。ニッポンでは知られていないが、アメリカはアフガンやイラクだけでなく世界中で不当なことを「自由」や「平和」を口にしてやっているのだ。

 

B米3s、砂糖2s?・・・・・・

 

米3s、砂糖2s、塩1s、豆250g、卵10個、肉(チキン、豚)7・5s、油500t、さてこれは何でしょう?。正解は、クーバ国民一人当たり一ヶ月に配給される食糧なのだ。

では、配給はタダなのだろうか。残念ながら有料なのだが、なんとこれだけで100円程度という。配給制度があるというのは物資が不足していることを示すものでもあるが、一方で貧しい人々が保障されるという面もあって良いか悪いかは一概には言えない。

で、これらの量が適正であるのかという疑問が次に残る。米や塩、豆などはいいとして、砂糖2sというのは、いったいなんなのだろう? ミントの葉を押しつぶし大量の砂糖を入れて、ラム酒をソーダで割ったカクテル、「モヒート」は確かにおいしかった。でも毎日あんなものを飲んでるのだろうか。社会主義圏の国々が次々と崩壊した一九九一年当時、クーバの人々の朝食は砂糖水だったとも聞けば、そうかなと思ったりするのだが。

クーバの食生活はアフリカから奴隷として連れてこられた人々の影響が強いという。毎日の食事に、ごはんに豆のスープをかけたものが欠かせないと聞いた。あとは芋類を煮たもの、肉を煮たり、焼いたりしたものが基本だが、香辛料はあまり使わないようだ。それと、魚を食べる習慣はなく、野菜も多くは摂らない。

実は、私がクーバに行きたかった理由のひとつに有機農業の国をあげての実践の様子を見たかったことがあった。結論から言えば、かなり期待はずれだった。あの時期の気温ならそこら中が菜の花の黄色で埋め尽くされもいいのだが、ほとんど見なかった。あとで聞くと、日本で宣伝されたミミズ堆肥や有機農 法の話はかなり誇張されたものだったようだ。

野菜をたくさん食べる食習慣を普及させなくてはと訪問した診療所のファミリードクターが話していたのを思い出した。

 

C私、一回目、オレは四回目

 

「私、一回目」「オレは四回目」・・・・というのは何のことだろう。バスでクーバの半分ほどを移動したツアーだったので私たちはガイドのスサーナさんにたくさんの質問をした。話題が結婚に及んだときのスサーナさんとバスの運転手のアルシーデスさんの会話だ。「クーバでは不倫はないです。いやになったらさっさと離婚します。結婚は二回、三回は普通です。」とスサーナさんは説明する。 結婚していない女性に「次はあなたの番よ」とみんなでいうのだそうだ。

クーバでは教育が無償、医療は無料(薬は有料だが)だという。そして女性が職業に就くのが当たり前でそれなりの収入があり、子供の教育や医療・老後に不安がないとしたら、女性が不本意な結婚生活をガマンしなくなって当然だと思う。

男性のあなたはそんな話を聞いて不安にならないだろうか。クーバだったら、とっくに離婚されて寂しい生活を送っていても不思議でないからだ。

クーバに行って最初に訪問したのは老人ソーシャルクラブだった。私たちを歓迎してくれた六十人ほどの方々のほとんどが女性で、男性はちらほらだった。しかも女性はみんな化粧してドレスを着たりオシャレしているのに、男性はTシャツか開襟シャツ、野球帽という格好で実にさえない。おそらく人生の楽しみ方を女性のほうが良く知っていて元気なのだろう。

そうすると結婚生活がダメになった場合、元気になって主導権を持つのは女性で、男性は受身になってしまうのだろうか。ユーモアが富んだ話ができるとか、歌が得意とか、ダンスのセンスがいいとか、ちょっと見た目がいいとか、何か売り物がないと男は次の相手を見つけるのが大変だろうと心配してしまう。

話は変わるが、前回の配給制度の補足。食料のほか石鹸も配給だそうだ。一ヶ月一人一個で、月ごとに洗濯用と身体用が変わる。すると洗濯は手洗いなのだろうか、聞き漏らしてしまった。

 

D一日、4本?

 

全労協結成二十周年の記念事業としてクーバを訪問した私たちのツァーの主な目的は労働組合との交流だった。CTC(クーバ労働組合センター)本部はもちろん、各地のCTCや農場共同体なども訪問した。

ハバナ中央駅に向かったのは、あのグランマ号も展示してある革命博物館の見学を終えて陽が傾きかけたころだった。ハバナ中央駅はコロニアル風の立派な建物だったが、かなり老朽化している印象だった。私たちを出迎えてくれたのは、国鉄ハバナ地区ディレクター、駅長、中央駅労働組合事務局長などの方々だった。

説明によるとクーバの鉄道は一七一年の歴史があるが、元々は砂糖産業のためのものだった。一九七六年の近代化で、旅客用の鉄道に改変され、ニッケルなどの貨物輸送もしている。鉄道労働者は全国で二万三千人で中央駅では六二〇人働いているという。

さて、「一日、4本」というのはハバナ中央駅の列車運行本数だという。それを聞いて「エッ」と思ったが、年間利用者が二五万人ということで納得した。平均すれば一日七〇〇人程度であり、それがクーバにおける鉄道輸送の需要であり位置なのだ。

ヨーロッパ風の天井が高いハバナ中央駅の構内にはたくさんの人々が列車の発車を待ってベンチに座っていた。いくつかのホームには列車が止まっていて一部を見学した。残念なことに車両やディーゼル機関車の状態はかなり悪かった。おそらくクーバの経済状態では鉄道産業に投資する余裕がなく、資材が不足しているのだろう。

 

Eおみやげは どこで?

 

私たちの部屋にチェの写真がある。髭面のチェが少し左に目を寄せ何かを見つめている。革命五〇周年を記念したカレンダーの表紙だ。クーバで最後に見学したホセ・マルティ記念博物館で買ったものだ。たくさん買って友人たちへのおみやげにしようと思ったが、両替したペソがほとんど残っていなくて断 念するしかなかった。クーバではドルは使えないのだ。

クーバに旅行して一番困ったのは「おみやげ」だという話を聞いたことがある。日本人は旅に出るとおみやげを持ち帰らないといけないと考える傾向がある。宿泊したホテル、立ち寄ったレストランやドライブインには確かにおみやげコーナーがあることはあった。しかし有名な葉巻タバコを除いて品揃えはごく少ない。キーホルダーなどの小物はほとんど手作りという印象だった。

クーバ政府は観光事業に力を入れているといわれる。リゾート型のホテルやアクセス道路、観光客用のレストランなどはそこそこ整備されていると言っていいと思う。しかし関連する「土産」などははまだ産業化されてなくて個人事業に頼っているのだろう。

ただし例外がひとつあった。世界文化遺産になっているトリニダーの古い町並みの一〇〇メートルほどの路地はバザールになっていてファゴッテッィングという織物や帽子、楽器など様々な手作りの品を売る小さな出店が並んでいて私たちは観光客気分を味わうことができた。同じようなバザールはハバナの旧市街にもあるというが行かなかった。

クーバには汚されていない海や自然、そして明るくて音楽好きな人々がいる。どこのホテルやレストランでも生の演奏を聞き、ショーを楽しむことができる。街にもエンターテナーがいて演奏をしている。だから「おみやげ」がなくても思い出を目と耳に焼き付ければ、それでいいのではないかと思う。クーバはそんなとこなのだ。

私たちは、八枚の音楽CDと一袋コーヒーを持ち帰った。

 

F五七三ペソと八〇〇ペソ

 

クーバ3日目の朝、私たちはハバナの庶民的な街の一角にあるファミリー診療所を訪問した

診療所といっても並んでいる家々とそんなに変わらない建物で、入口に続いた待合室には一〇人ほどの住民が診察を待っていた。

私たちを迎えてくれたのは、ドクターのダヴィンツさんとベテランのナースの二人だった。この診療所には医師三人、看護師二人、看護助手二人がいて約三〇〇〇人の住民の健康を管理しているという。このようなファミリー診療所の十数箇所が地域診療所に所属し、それを地区の病院が統括し、その上に中央病院があるというのがクーバの基本的な医療システムらしい。

例のマイケル・ムーア監督の映画「シッコ」を観ていた私たちはクーバの医療制度に興味津々で二人を質問責めにした。そして最後に聞き出したのが彼らの月給だった。

さて、八〇〇ペソなのはドクターとナースのどちらでしょう。正解は「ナース」。勤続二五年で看護大学卒のベテランの彼女はドクター歴一一年のダヴィンツさんよりも高給なのだ。

さらに驚いたことがある。質問を終えて診療所の中を見学させてもらった。カルテの保管されている受付の奥が診察室になっていてその隣が処置室だった。と言っても設備は、日本の学校の保健室プラス手術台といった程度だった。レントゲンはもちろん、消毒設備以外の機械類は一切ない。これで乳児死亡率がアメリカより低いのだ。

きちんとしたシステムがあれば末端の診療所は患者の状態を正確に判断できればばいいのだ。手に負えなければ上級に送ればいい。過剰な医療機器などは必要はないのだろう。

そのかわり訓練された医師の存在が不可欠になる。6年間の養成を終えた医師の卵は必ず最低3年間は統合内科に所属し、ファミリー診療所に派遣されるという。医療過疎に悩む日本との違いは大きい。

 

G1ペソ=24ペソ?

 

八百屋とか市場とかスーパーマーケットを覗くのは楽しい。日本国内はもちろん外国を旅した時もできるだけ行きたいと思っている。その地域や国々の人々の生活の一端を窺うことができるからだ。残念ながら今回の訪問団ではその機会がなかった。

さて今回はクーバの通貨の話だ。ハバナの空港に着いて私たちが日本円と交換したのは『兌換ペソ』だった。一般の市民生活では『人民ペソ』が使われている。クーバは二重通貨制度の国だ。『兌換ペソ』は米ドルと同じレートで『人民ペソ』の二四倍の価値があるという。そう聞いても分かったような分からない話だ。

私たちが店で買い物をしたりレストランで飲み物を注文して『兌換ペソ』で支払いをしておつりがある場合、返ってきたのが『人民ペソ』であったことはなかったと思う。おそらく外国人旅行者向けに店が用意していて『人民ペソ』でおつりを払ったりはしないという制度なのだろう。

そのへんは通訳のスサーナさんに聞きもらしてしまった。

 サンタ・クララの装甲列車博物館(クーバ革命でチェが率いる部隊がバチスタ軍の増援軍の装甲列車を転覆させ勝利した場所が屋外博物館になっている)で兌換1ペソと人民3ペソを交換しようと私たちのバスに寄ってきたクーバ人がいた。人民3ペソ紙幣にはチェの肖像とサインが印刷されていて観光客には人気があるのを知っているのだ。

 どこかでスーパーに寄って買い物をしたいとスサーナさん話したことがある。その時「ホテルの近くにあるよ。でも遅いから閉まっているかもしれない。」と彼女はあまり乗り気でない様子だった。別の機会にクーバには『兌換ペソ』しか使えないスーパーがあって一般では流通していない商品もあると彼女は話していた。

二重通貨制度はクーバが抱える困難な状況の一端なのだろう。『兌換ペソ』を手にする機会のある、なしが経済的な格差の原因になってしまうのだから。

 

H ◯◯主義

 

クーバで私たちが訪問し交流できた人々の話のなかで一番多く聴き最も印象に残った言葉は、「◯◯主義」だった。県共闘ニュースの読者はすぐに見当がつくことだろう。

クーバに着いて最初に泊まったホテルはラテンアメリカ各地から来たという多くの人々でごったがえしていた。「識字教育」運動の国際的な研究集会が開かれていたのだ。

その南米識字キャンペーン『私もできる』は、人々が文字を学び文章を書き本を読む能力を身につけることでラテンアメリカ社会の仕組みや貧困の原因を知り、変革への道筋を認識することができるという確信に基づいている。クーバはこの運動の中心であり、全面的に援助してもいる。

もうひとつ例を挙げよう。クーバは世界百二十五カ国から三万七千人もの医学生を受け入れ無償で養成してきた。また現在五万八千人の医師が海外の貧困地域に派遣され活動しているという。そしてラテンアメリカから多くの患者がクーバの病院に治療にやってくる。

このことを「いまあるものを分かち合う」と通訳のスサーナさんは説明する。余ったものを分けるのではないというのだ。「それが国際主義です」と彼女は言う。クーバではあのチェたちの国際主義が形を変えて今も生き続けているのだ。

私たちはかって口にした「国際主義」という言葉をいつのまにか忘れてしまった。そして「国際支援」とか「国際貢献」が幅を利かせている。両者の違いが計り知れないほど大きいことをあり余る商品に囲まれている私たちは認識できていない。

ハバナの老人ソーシャルクラブを訪問したとき、交流の最後に全員で肩を組み「インターナショナル」を合唱した。スペイン語と日本語の違いがあってもその場の人々は皆同じ歌を歌っているという実感があったと思う。クーバの人々の国際主義という言葉と同じ意味で、私たちも口にできる日は来るのだろうか。

Iもう一度、国際主義

 

もう四年くらい前と思うが名古屋で「ぜんぶフィデルのせい」という映画を観た。一九七〇年代初頭のパリが舞台だった。アンナという九歳の女の子の目を通してクーバやチリとの連帯運動にのめり込んでいく両親との生活を描いた作品だった。

次第に暮らしのランクが下がっていくのに戸惑い、それが「フィデルのせい」だと思ってしまうアンナがかわいかった。「パリの五月」を経験した当時のフランスの人々にとってクーバやチリは極めて身近な存在だったのだろう。

では、それから四十年の時を経た今の私たちにとってクーバやラテンアメリカ、そして世界はどのようなものだろう。それは「国際主義」をキーワードに読み解けば一目瞭然ではないか。アメリカを中心とした新自由主義という剥きだしの暴力に世界中の民衆が晒され、それに対抗する勢力の力はまだまだ弱い。とりわけ日本ではそうだ。

もちろんチェの時代とは違ってラテンアメリカの親米政権のほとんどは崩壊しクーバを含めた反米包囲網が出現しているのだから、展望がないわけではないとも思う

一月一二日のハイチ地震の直後、クーバが医師を含めた救援チームを派遣したことはあまり報道されていない。クーバで医療訓練を受けたハイチ人医師四百人もその中に含まれているという。ベネズエラも即座に五十人の救援隊を派遣し、二十二万バーレルを超える石油を提供した。彼らの国際主義は本物だと思う。アメリカが海兵隊を大規模に投入したこととは明らかに対照的だ。

二〇〇八年の二度のハリケーンの被害からクーバ経済は立ち直ってはいない。クーバの社会主義に少しでも心を寄せるなら、日本の労働者に何ができるのか、私たちは真剣に考え実行しなくてはならないと思う。

記載にあたり、私の記録に不十分な部分は全労協交流派遣団の「報告集」を参考にさせてもらった。最後に感謝したい。

                            (遠州連帯ユニオン・門奈)