ウレシパモシリからの波紋 2009年
はじめに
アイヌ民族はこの地をアイヌモシリ(人間の住む静かな大地)と呼んでいます。アイヌ語でアイヌとは人間、カムイは神という意味です。アイヌ民族は、アイヌウタリ(人間たち)がカムイウタリ(魂ある自然界の生き物たち)と言葉を交わし、歌いあい、学びあい、助け合い、心を交わしあって生きるこの世界を、ウレシパモシリ(自然の万物が互いを育てあう大地)と呼んでいます。
「北海道」という地名は、和人による明治政府がアイヌ民族の大地を占領してつけた呼び名です。北海道を歩くとアイヌ語の地名がたくさんあります。地名の8割はアイヌ語によるものといいます。たとえば、札幌はサッポロ(乾いて大きいところ)、白老はシラウォイ(沼の後にある川)、小樽はオタルナイ(砂浜のところの川)、釧路はクッチャロ(河口)という意味のアイヌ語が語源です。
●札幌
札幌は人口約180万人の都市ですが、明治の初めには、わずかなアイヌと和人が2軒7人だけであったといいます。北海道や札幌の開発の拠点が北海道庁であり、本庁舎として使われた建物が残されています。通称は「赤れんが」です。この建物は1888年の建築物であり、現在では公文書館として利用されています。ここには北海道の歴史に関する資料が多数保管されています。
この建物の近くには北海道大学の植物園があり、そこにはアイヌ民族の住居跡なども発見されています。園内には北方民族資料室もあり、アイヌやウィルタなど北方民族の資料も展示されています。
さっぽろテレビ塔の北には時計台があります。この建物は札幌農学校の演武場として開拓使によって建てられました。建設は1878年です。館内には時計や農学校時代の展示もあります。札幌控訴院として使われてきた建物は札幌市資料館として利用されています。時計台は「開拓使時代の洋風建築」として北海道遺産にされています。また、サッポロビールや雪印乳業などの工場は「札幌苗穂地区の工場・記念館群」の形で北海道遺産にされていますし、ジンギスカンやラーメンも北海道遺産です。北海道遺産とは、北海道が次世代に継承していきたい有形・無形の文化財をNPOの北海道遺産協議会が認定をすすめているものです。
駅北にある北海道大学は札幌農学校として1876年に創設されたものです。建学の基礎づくりをウイリアムSクラークがおこないました。この学校は北海道開拓の拠点でもあったわけですが、アイヌ民族にとっては研究の名でアイヌの人骨を収集していった場でもありました。
北大医学部構内にあるアイヌ納骨堂はそのような歴史を物語っています。ここにはアイヌの人骨が969体、納められています。これらは1930年代に墓地などをあばいて収集したものであり、1980年に北大内で1004体発見され、21世紀になってからイチャルパというアイヌ式の追悼会が持たれるようになりました。また、北大の古河記念講堂で1995年に朝鮮・アイヌ・ウィルタの頭骨6体が発見されています。遺骨のいくつかは返還されましたが、アイヌ民族への迫害の歴史という過去への清算はこれからはじまるところといっていいでしょう。
郊外にある北海道開拓の村には北海道開拓記念館があり、北海道開拓関係の展示がなされています。情報公開もすすみ、館内の所蔵物が検索できるようになっています。非公開の文書類もありますが、閲覧室に問い合わせれば丁寧に対応してくれます。開拓記念館の売店には数多くの北海道関係の書籍がおかれています。北海道の歴史・文化に関する書籍はここで探すと便利です。開拓の村には旧札幌停車場、旧開拓使札幌庁舎などの53棟の歴史的建築物も保存されています。
札幌に行く前に、支笏湖に行きました。支笏湖はカルデラ湖です。カルデラ湖としては屈斜路湖についで2番目の大きさの湖です。3番目は洞爺湖です。支笏湖周辺ではナナカマドなどの紅葉樹が秋の到来を告げていました。当日は風が強く、太陽と雨雲とが交差するなかで、幻想的な色彩を湖に与え、湖は時化たときの海のようでした。国立公園では公園のガイドブックを作成しています。支笏湖の冊子(「パークガイド支笏湖」)をみると支笏湖には自然探勝路や野鳥の森が整備され、湖畔の自然観賞ができるようになっています。ゆっくりと散策したい場所です。冊子には支笏湖の歴史や花図鑑・野鳥図鑑なども収められています。冊子の初版は2008年7月であり、このような手頃な冊子で支笏湖について知ることができるようになったのは最近のことです。
●小樽
小樽は港湾都市です。小樽の人口は減少傾向にあり、近年14万人以下になりました。小樽にはかつてニシン漁や港湾貿易で栄えました。その歴史を示すものが、鰊御殿や小樽運河、北のウォール街と呼ばれる銀行街です。開発のなかで札幌から小樽(手宮)へと鉄道が引かれ、幌内などの空知の炭田の石炭が輸送されてきました。手宮線のレールは今も残されています。小樽は横浜や神戸に次ぐ港湾都市として発展しました。そのなかで労働者も増加し、1926年には北海道で最初のメーデーがもたれ、小樽高等商業学校での軍事教練に反対した民衆運動も起きました。また、小林多喜二や小熊秀雄といった労働者や民衆の側で表現活動を続けた文学者の出身地です。
ニシンの群れが小樽の沖に来ると、その群れが太陽光を反射させて小樽の山の色を変え、その産卵で海の色が乳白色に変わったといいます。海を歩けると錯覚させるほどのニシンの大群が押し寄せ、そのニシンをとるために多くの人々が集まったのです。いまではそのような形でニシンの大群が押し寄せることはありません。
このようなニシン漁とともに小樽はサハリンをはじめとする北方貿易の拠点であり、戦時下には北方での軍事基地建設の拠点にもなりました。そのため多くの物資が小樽に集まりました。小樽運河の石造倉庫群はそのような時代を物語るものです。旧日本郵船小樽支店は1906年にポーツマス条約による樺太の国境策定会議がもたれたところです。北のウォール街には日本銀行、北海道拓殖銀行、三菱銀行、安田銀行、三井物産などの建物などが残され、いまでは別の用途で使用されています。
小樽といえば、小林多喜二関係の史跡が数多くあります。2009年には「蟹工船」の映画がリメイクされ上映されました。
旧日本銀行の建物の前には市立小樽文学館が入っている建物があります。古いビルですが風情があり、小林多喜二をはじめ石川啄木、伊藤整、小熊秀雄、八橋栄星らの作品や経歴が紹介されています。小林多喜二関係の写真や作品、多喜二のデスマスクはその時代の表現の自由の実態を物語る貴重なものです。館の売店にはノーマフィールドの講演録があり、そこには多喜二の墓前祭の模様が描かれていました。それは冬にその墓前祭に参列したいという気持ちをかきたてるものでした。
多喜二の碑が旭展望台の近くにあります。この碑は本郷新という作家の作品です。本を見開きにした形状に漁業労働者をイメージした顔と多喜二の顔を組み込んだ碑ですが、1933年2月20日に東京の築地署で拷問死した彼の未完の想いを伝えるものでした。旭展望台からは小樽の街が展望できます。秋空の下で小樽の街がよく見えました。
●白老
白老に行く前に登別で温泉につかりました。登別の名はアイヌ語のヌプルペツ(水色の濃い川)からきています。2008年は登別開湯150年とされましたが、古くからアイヌ民族が薬効のある湯として使ってきたわけです。温泉水は体に浸透し、湯上りののちも体を温め続けます。
白老の町にあるアイヌ民族博物館ではチセ(アイヌの家)で学芸員さんからアイヌ民族の歴史についての話を聞き、ムックリやトンコリの演奏を聞き、ともに輪を作り、アイヌ舞踊を踊りました。もともと白老のアイヌコタン(アイヌ民族の村落)は海辺にありましたが、文化保存のために今のポロト湖の近くに移転しています。
白老のアイヌ民族博物館は1984年に開館していますが、その前の1976年に白老民族文化伝承保存財団が設立されています。白老のアイヌ民族博物館のホームページは工夫されたもので一見の価値があります。このアイヌ民族博物館では館の冊子「アイヌの歴史と文化」を発行しています。初版からすでに改訂5版を重ねています。アイヌの歴史の項目をみると、1997年に旧土人保護法が廃止され、アイヌ文化振興法ができたが、生活の向上・安定、先住権の問題など多くの課題があると記しています。
登別は1923年に『アイヌ神謡集』を書いた知里幸恵(ちりゆきえ)の出身地です。幸恵は19歳で、旭川で亡くなっています。弟の知里真志保はアイヌ語研究者になりました。
白老では古老からムックリの弾き方について学び、弾きなおしてみました。すると、音の出が変わりました。白老料理のサケの丸焼き料理は美味でした。
アイヌ文化振興法ができてから、財団法人アイヌ文化振興研究推進機構が設立され、2001年には中学校用テキスト『アイヌ民族・歴史と現在』が編集され、2008年には『パイェアンロふれてみようアイヌの文化』なども編集されています。
日本伝統文化振興財団では『萱野茂のアイヌ神話集成』(書籍・CD・VHS)や『アイヌ・北方民族の芸能』(CD)などを発行しています。このようにアイヌ民族文化の継承についての活動は強化されています。さらに先住民族としての政治的経済的権利の確立が課題ですし、その表現が求められています。
アイヌ語地名、アイヌ文様、アイヌ口承文芸、サケの文化などは北海道遺産です。
●函館
函館に行く途中、洞爺湖に行きました。洞爺の名はアイヌ語のトヤ(湖の北岸)からきています。洞爺湖には幌別硫黄鉱山や徳舜別鉱山などの鉱毒が流れ込み、一時期湖水が酸性化し、死滅した生物もありましたが、その後の中和事業や有珠山噴火による火山灰の堆積で湖水の中和化がすすみました。
この洞爺湖では2008年にG8サミットが開かれました。サミットはグローバリゼーションを進める場として機能してきました。このサミットに対しては、金融資本を中心とする新自由主義を批判する立場から強い抗議の声も形成されてきました。特に投機マネーへの規制や食料・環境危機への対応が問われています。
函館に向かう途中、駒ケ岳がしだいに大きく見えてきました。函館へは落部から大沼や七飯を経ていくのですが、戦争期にはこの地域の鉄道工事で多数の朝鮮人や中国人が強制連行されて労働を強いられています。
函館山から夜景を見ることができます。海上にはイカ釣り船の光が点在します。函館山は標高334メートル、ここには明治期に構築された砲台跡も残っています。観光地図からも御殿山第2砲台跡、千畳敷要塞跡地などの存在がわかります。ここは戦争遺跡です。「函館山と砲台跡」は北海道遺産です。
函館山の東端には立待岬があります。立待岬からは津軽海峡がみえます。岬の右手には戦時中に岩を切り出したところもあります。かつては、函館山や立待岬は津軽軍事要塞とされ、現在では開放されていますが、当時は一般の立ち入りや写真撮影などが禁止されていました。立待岬は自殺の場所としても知られています。たとえば『函館市史』をみると、1932年3月に20歳と21歳の2人の朝鮮人女性が生きる希望を失い、ここで身を投げたことがわかります。
立待岬の近くには石川啄木一族の墓があります。ここは啄木夫妻、両親、子どもの墓地です。啄木は岩手の出身、かれの父は上京した啄木の生活を支援しましたが、住職の仕事を失い、墓を作ることができなくなりました。そのため友人の宮崎郁雨が1926年にここに墓を建てています。啄木は1886年に生まれ、1912年に肺結核のために亡くなっています。26歳の生涯でした。亡くなる前年の1911年には「大逆事件」によって12人の社会主義者が処刑されていますが、啄木は処刑された人々への共感を書きつづっています。失業、貧困、病気の中で彼は社会変革への想いを強くしています。啄木の『一握の砂』や『悲しき玩具』には次のような短歌があります。
はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る
石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
夜おそく つとめ先よりかへり来て 今死にしてふ 児を抱けるかな(以上『一握の砂』)
百姓の多くは酒をやめしといふ もっと困らば 何をやめるらむ
家を出て 五町ばかりは 用のある人のごとくに 歩いてみたれど
本を買ひたし 本を買ひたしと あてつけのつもりではなけれど 妻に言ひてみる(以上『悲しき玩具』)
函館の朝市の壁に、函館開港150年の展示会のポスターが貼られていました。1854年の日米和親条約によって日本は下田・箱館(函館)を開港し、さらに1858年の日米修好通商条約によって横浜、新潟、神戸、長崎、箱館が開港することになります。和親条約による開港は寄港地用であり、修好条約による貿易港としての開港は1859年からになります。このなかで函館の港は整備されていくわけです。函館の町に残るハリストス正教会、カトリック元町教会などの近代建築や外国人墓地などはこのような貿易港の歴史によるものです。「函館西部地区の街並み」や「五稜郭と函館戦争の遺構」は北海道遺産です。
函館には五稜郭があります。1868年から1869年の函館戦争の史跡です。五稜郭の建設は1864年であり、フランス式の築城方式です。ここに箱館奉行所がおかれました。現在では五稜郭タワーができ、五稜郭全体を上空から展望できます。五稜郭内には当時の大砲なども展示されています。
函館の港湾や繁華街はグローバル化の中で衰退しています。新たな街づくりが課題になっています。
おわりに 二風谷からの波紋
今回は札幌・小樽・白老・函館を訪問しました。最後に2005年に訪れた二風谷(にぶたに)について記しておきます。
太平洋に面した静内にはシャクシャインの像があります。この静内から沙流川を北に上ったところに平取(びらとり)町二風谷があります。『平取町百年史』をみると、240人ほどのアジア太平洋戦争期の戦争死者の名前が記されています。この地からもアジア各地に兵士とされて連れていかれ、若くして命を失った人々が多いことがわかります。また沖縄戦の死者35人をはじめ1945年の死者が約40%と非常に多いことが特徴です。戦争を早く終わらせていれば死者は少なかったはずです。
二風谷には萱野茂さんが設立した二風谷アイヌ資料館があります。萱野茂さんは地域でアイヌ文化の継承に努め、1972年に二風谷アイヌ資料館を設立、1983年には二風谷アイヌ語塾を設立しました。1992年には国会議員に立候補して落選しますが、1994年になって繰り上げ当選となり、アイヌ語で国会演説をしました。1996年には『萱野茂のアイヌ語辞典』を出版します。萱野さんは2006年に亡くなりました。このようなアイヌ民族の文化運動のなかで、平取町立アイヌ文化博物館も建設されました。
二風谷には二風谷ダムが作られ、アイヌの聖地が埋められてしまいました。ダム建設に反対してこの地に住む萱野茂さんと貝沢正さんが1989年に、国による強制収用の差し止めを求めて裁判を起こしましたが、1993年に棄却されました。しかし同年、萱野さんたちは北海道収用委員会による土地の強制収用裁決を無効とし、建設の差し止めを請求しました。1997年にはこの請求は棄却されましたが、その判決の内容はアイヌ民族を先住民族と認め、ダム建設を違法とするものでした。萱野さんたちは勝ったのです。この年、アイヌ文化振興法も成立します。しかし、すでにダムは完成し、二風谷は水底に埋まるのです。
二風谷ダムは森林に似合うように彩色されていますが、偽りを隠すような印象を与えます。
萱野茂さんはつぎのように記しています。
「日本ほど先住民族の事を何ひとつ考えず無視している国は他にありません。北海道の主であるアイヌ民族と日本政府の間には条約のひとつもなく、それは世界に類例のない暴挙です。アイヌの領有権を認めるべきです。世界で広がる自然破壊をアイヌである私はひどく憂慮しています。アイヌ語の中に「自然保護」という言葉はありません。自然の神々は「人間たちよ、自然保護などという大それた言葉を慎しめ。我々自然は保護される事を望むのではなしに、人間であるあなたたちがぜいたくをしない限りにおいて、紙にする木材でも、薪でも、家を建てる材料でも供給できることになっているのだ」とおっしゃるでしょう。全ての生きものの生存を可能とする地球環境の保護こそが、人類が生きていく条件であり、人間が人間らしく生きていける山を、川を、畑を、村を、町を、子々孫々に至るまで残さなければならない、と私は考えています。一人ひとりが人間として、正しい歴史を学び直してください。そして、本当の事を知ってください。日本は、単一民族国家などではないことを知ってください。正しい事を伝え残し、「人間の住む静かな大地」をよみがえらせ、そして残せる人間の姿で生きましょう。「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります。アイヌ民族も、ピリカシサム(良き隣人)も、心をひとつにして、無知を改め、正しい行動を起こす勇気をもって、大いなる出発をしましょう。それらがペシッ(波紋)となって、世界に拡がりますように、アイヌモシリより心から切望いたします。」
この文は1992年に萱野さんが書いた「ペシッ 波紋 アイヌより祈りをこめて」から要約したものです。
このような想いが実現するような社会になってほしいと思います。ウレシパモシリ(自然の万物が互いを育てあう大地)という言葉にあるように、人間と自然とが共存しあうという世界観が波紋のように広がり共有されていくことを、わたしも願います。
「アイヌネノアンアイヌ」とは、精神がよい人、人間らしい人間を意味します。旅をするなかで、人間について考え、よき精神について学ぶことができればと思います。
(T) 2009年11月
参考文献
『アイヌヤイコシラムスイエ』アイヌ民族生活文化館運営委員会1888年
ポンフチ『ウレシパモシリへの道』新泉社1980年
『アイヌの歴史と文化』改訂第5版 財団法人アイヌ民族博物館2002年
『パイェアンロふれてみようアイヌの文化』財団法人アイヌ文化振興研究推進機構2008年
『アイヌ民族・歴史と現在』財団法人アイヌ文化振興研究推進機構2001年
『平取町百年史』平取町2003年
萱野茂「ペシッ 波紋 アイヌより祈りをこめて」(『夜明けへの道』人間家族特別号1992年)
『函館市史』通説編第1巻1980年
平和国際教育研究会『北海道修学旅行ハンドブック』平和文化2002年
『パークガイド支笏湖』財団法人自然公園財団2008年
小林多喜二祭実行委員会『小樽小林多喜二を歩く』新日本出版社2003年
「小林多喜二をめぐって」小樽文学舎2003年