ベルリン戦争史跡の旅2005・8

ベルリンはかつて戦争の拠点であり、第2次世界戦争においては激しい攻撃を受け、廃墟となった。街の各所にさまざまな戦争史跡がある。史跡を歩くには地図が不可欠であるが、ベルリンでは地図や本が出版されている。

Judishe Orte in berlin』(Nicolai 2005年)はベルリンのユダヤ人関係史跡の本であり、392箇所もの史跡が紹介されている。この本には史跡地図が付録されている。この地図は今後ベルリンを歩こうとするのであるならば、まず事前にみておくべきものである。『Orte erinnern』(Nicolai 2003年)は戦争史跡の本であり、主な34箇所の史跡についてこまかな説明がなされている。この本もベルリン調査においては欠くことができないものといえるだろう。『Das rote Berlin』(PANORAMA刊)は社会主義関係の史跡の地図である。マルクス・エンゲルス・ローザ・リープクネヒトほか多くの社会主義者やかれらの運動の史跡を紹介するものであり、ベルリンが社会運動の拠点であった歴史を知ることができるものである。これもよい地図である。この3冊はミッテ地区のシナゴーグ近くの路地の中にある小さなユダヤ人関係本屋にあった。なお『Jewish Berlin(Jaron Verlag2005年・英語版)には、ベルリンのユダヤ人小史が記され、関連史跡の紹介がある。

ベルリンの戦時期・戦後・観光用の3冊の史跡地図(IMAGE NETWORK刊)がホテルに有料でおいてあり、これも便利なものだった。また『Tag des offenen Denkmals 2005 in Berlin』は100ページほどの観光用冊子であり、地ビール食堂においてあったものであるが、ベルリンの地区ごとに戦争史跡を含めて詳細な紹介記事があり、史跡への知的な蓄積を感じさせるものであった。

以下、ベルリンの史跡のうち、いくつかを紹介したい。

●テロのトポグラフィー(地勢学)

テロのトポグラフィーはポツダム広場とベルリンの壁博物館の中間地点にある。ここには国家秘密警察(ゲシュタポ)や国家保安本部がおかれた建物があった。そこには逮捕者用監獄もおかれていた。ここは空爆で破壊され、戦後は、境界線とされ、ベルリンの壁で遮断された。建物跡は西側、建物に面したプリンツアルブレヒト通りは東側になった。今もその壁の一部が残されている。1985年に発掘された地下監獄の跡地に、1987年、小さな展示場がつくられた。これがテロのトポグラフィーのはじまりである。現在ではナチのテロルの拠点として遺構が整備され、記録館建設も構想されている。現時点では遺構が屋外展示場として活用されている。

ここに置かれていた国家秘密警察(ゲシュタポ)は、1939年9月に国家保安本部RSHAが設立されると、この配下になった。この保安本部はナチ親衛隊SSの諜報組織と公安警察とが合体したものである。この組織を作りあげたのは、親衛隊とドイツ警察長官を兼任していたヒムラーであった。この国家保安本部の長官となったのが、ヴァンゼー会議を招集することになるハイドリッヒである。

ここでは政治的反対者の処刑や虐殺が企画されていった。また逮捕した者への拷問・拘束もおこなわれた。ここは国家保安本部・親衛隊・ゲシュタポの活動のセンターであり、テロルが世界へと波及していった拠点、その発信源であった。

ここでの展示は次のような構成である。1 SS施設、2 この地区の歴史(17321933)3テロ施設解説〜秘密警察・SSの諜報組織・ゲシュタポの監獄・予防拘禁・政治犯収容所、4虐殺・絶滅・抵抗〜ユダヤ人・シンティ・ロマ・ナチ支配下のポ−ランド・ソビエトほか・政治的抵抗とゲシュタポの監獄、5 破壊と再発見〜空爆・戦後初期の状況・抑圧された過去の復活・仮施設・新しい建屋。

展示館では『Topography of terror』という270ページほどの本を出している。そこに展示文や写真が紹介されている。

2005年には「ゲシュタポの監獄展1933〜45」がおこなわれ、現場遺構近くに屋外展示がなされた。この展示の詳細な図録『Das HAUSGEFANGNIS der Gestapo-Zentrale in Berlin terror und Widerstand 1933-1945 も出されている。抵抗し逮捕された人々の写真が残され展示されている。人間の尊厳の回復を追求し続ける作業がここにある。

テロルの拠点だった場所が抵抗の記憶とその継承への拠点となっている。そのような活動の展示形式・内容から学ぶことがらは多い。

●ドイツレジスタンス記念館

この記念館はティーアガルテンの南、ベンドラー地区のスタフェンベルグ通りにある。かつて、軍司令部が置かれていたところである。ここで1944年7月20日、軍の一部がヒトラー政権を倒すクーデター計画を練ったが失敗した。ここは将校らが銃殺された場所でもある。

現在では抵抗運動の展示館になっている。1953年中庭にブロンズ像と碑文が置かれ、1968年に3つに展示室がつくられた。1989年に現在の展示館が開館した。

中庭には「屈辱に甘んじることなく自由と正義と名誉のために生命を犠牲にして抵抗し改心の合図を送った」という意味の碑文がある。
 展示は26のテーマで構成されている。順にみていくと、ワイマール共和国からナチス政権までの経過、労働運動、キリスト教、芸術・科学の抵抗、進歩派と保守派の抵抗、軍人のクーデター計画、
1944年の暗殺計画、クレイソーのサークル、白バラ、赤いオーケストラ、青年の抵抗、日常生活でのレジスタンス、戦争捕虜の抵抗、ユダヤ人の抵抗、迫害への支援、収容所での抵抗、共産主義者の抵抗、抵抗と無法国家、などさまざまな抵抗が紹介され、抵抗した人々の名前や写真・経歴が記されている。

展示会場にはそれぞれリーフレットがおかれている。当時のパンフレットの復刻品もある。展示も枠で囲んだり、斬新な配置にしたり、監獄風に鉄格子をおいたりとさまざまな趣向が施されている。館では26の展示についての解説書『Gedenkstatte Deutscher Widerstand(約90ページ)を出版している。

ファシズムへのさまざまな抵抗運動を政府レベルで評価し、抵抗者たちの名誉の回復をすすめている。そうすることがドイツ自体の名誉の回復となっていく。このような展示館が日本にもほしい。東アジア・東南アジア全土での抵抗とそれに連なるものたちの尊厳の回復をすすめることは、これからの課題である。

●虐殺されたヨーロッパユダヤ人の記念碑(ホロコーストメモリアル)

2005年5月、虐殺されたヨーロッパユダヤ人のための記念碑と記念館がフランデンブルグ門の南に完成した。広い敷地に2711個の石碑が並んでいる。地下には記念館があり、ユダヤ人の絶滅政策の概要・虐殺状況・ユダヤ人の伝記的記録・家族生活・ユダヤ人300万人以上の死亡者のデータベース、200箇所ほどの迫害・虐殺地などが展示されている。展示の一室は暗くされ、そこに死者の名前・生年・没年が映し出されるというように追悼と黙想の場となっている。書店もあり、この時期の関連図書が販売されている。この館については『Horocaust Memorial Berlin』(Stadtwandel Verlag刊)という20ページほどの冊子がある。

館の冊子には「ドイツの歴史的責任を認めることがドイツという国の自己理解の一要素である」と記されている。ナチスによる犠牲者を復権正当し、その認知のために活動することを確認し、警告の碑群を作った行為は高く評価していい。また「歴史的責任」という言葉はこの日本にも大切なものである。

この記念館の入り口では検問がおこなわれている。ドイツはイラク派兵をおこなっていないが、イスラエルはアラブでの戦争の当事者である。抑圧されたユダヤ人が、戦後イギリス・アメリカの後押しでアラブ民衆の大地を占領した。その結果がパレスチナ戦争だった。その歴史が、このドイツの地での記念館での戦時の監視につながっている。その意味では、ヨーロッパユダヤ人の歴史展示は、シオニズムの歴史とイスラエル国家建設を批判的にとらえていく視点をも求められているように思った。

●オットーヴァイトの作業所

ミッテのローゼンターラー通りの路地に入ると中庭に古い家並みが残されている。路地入口の足元には碑文が埋め込まれている。そこには、ここにオットーヴァイトによる視覚障がい者の職場があり、ヴァイトが1940年から45年にかけて視覚・聴覚に障がいを持つユダヤ人を保護し、生命を救ったと記されている。

この碑は1993年のものであり、ここに展示場ができたのは1998年である。開発されなかったことにより、作業所は当時のままの姿で残っている。当時、彼は壁張り職人であり、平和主義者だった。かれは自分の職場にユダヤ人30人ほどを雇ってブラシなどを製造した。隠れ家の提供もおこない、迫害の時代にかれらの生命を守ろうとした。展示場に製造器具やヴァイトら職場の写真が残っている。

このヴァイトの作業場の向側にはアンネフランクの展示館がある。アンネの生まれた1929年から、連行されアウシュビッツからベルゲンベルゼンに送られ、1945年に死去するまでの展示がなされ、その後の経過も展示されている。小さな展示場だが、アンネに関する隠れ家の模型、日記やアルバムなど複製品などが展示され、充実したものである。

展示室にはアンネフランク財団の『未来へむけての歴史の叫び アンネ・フランク』1996(日本語版約100ページ)もあった。この冊子は、アンネの半生に触れることで人間が互いに受け入れあい、尊敬されることの大切さや人権平和を呼びかけるものである。考えさせられる記事多い。たとえば、そこにハンネス・ヴァイスの証言がある。「ジプシー」として差別され、強制連行からは何とか逃れ、放浪する。しかし「金のためにはなんでもする者」に密告され、収容所に送られることになる。だが監視係の警官がホームで「私が制帽をとったらとにかく走れ!」といい、その合図を待つまでもなく一目散に逃げたという。
 さまざまなところで連行への不服従や抵抗があったわけである。このような一人の命を救おうとする行為は孤立したものではなかった。

●ベルリンの戦争史跡

ベルリンの夏は朝5時30分には太陽が出、夜は8時30分まで明るい。長い一日を要すると利用すると、各所にある史跡を訪れることができる。

オラニエンブルグ通りのユダヤ教会にはプレートがはめられている。そこには1938年の水晶の夜や第2次世界戦争での迫害について記されている。

ハンブルガー通りにはユダヤ人追悼碑があり、ベルリンからユダヤ人55000人が連行されたことが記されている。横には連行されるユダヤ人群を示す像が置かれている。古い墓石も残っていた。
 ハンブルカー通りに行く途中、手を握り合った紋章の家があった。そこには碑がはめ込まれ、カールリープクネヒトやスパルタクスブントの活動などが記されていた。この一帯で社会主義運動が活発におこなわれていたことがわかる。なお、テイーアガルテンの南方のランドベーア運河のリヒテンシュタイン橋の近くにローザルクセンブルグの名をかたどったオブジェ
(1987)がつくられている。

ハンブルカー通りの角には5つの名前を刻んだ金属版が路に埋め込まれていた。そこには「ウリ・アロン、1942年生まれ、1943年テレジンシュタットへ連行、アウシュビッツで死亡」といった具合に史実が刻まれている。この金属板は人々に踏まれれば踏まれるほど金色の輝きを増していく。ローゼン通りにはユダヤ人連行に抗議した女性たちを記念する彫刻がある。夜の8時頃だったが、ユダヤ人グループが追悼行事をおこなっていた。

フンボルト大学の中庭にはナチによる焚書事件を示す碑と地下の書棚を示すオブジェがある。テイーアガルテン通りのベルリンフィルの近くには「安楽死」計画(T4)の実行による死者を追悼する碑文がある。そのほかにも戦争死者を追悼し、過去の克服を求める多くの碑や史跡があり、反戦博物館などもある。ポツダム会談が行われたベルリン郊外のツィツェーリエンホフ宮殿にも行くことができた。

最後にベルリンの壁について記して、このベルリンの史跡についての項を終わりたい。

ベルリンの壁博物館が「チェックポイントチャーリー」にある。その展示館で印象に残ったのは分断時に描かれた絵や彫刻だった。シグフィールド・リスチヤーやリチャード・ハンブレトンの絵がいい。壁が芸術を生んだ。閉ざそうとする人間の力と開こうとする想像力の拮抗のなかで描かれたものには力がある。生身の人間がバラセンを弾き、コンクリートを溶かしていく。壁に呑まれながらも、それを突き抜けようとする人間の意志。キースへリングのウォールエンジェル(壁の天使)は人間が作りあげた制度や権力を超えようとする意思を象徴している。

分断線を越える。それは東アジアにおいても求められているものであり、この日本においても、超えられていない壁、たとえば過去の清算や戦争被害者の尊厳の回復の課題がある。閉ざすのではなく、解き放つ力をこそ創っていきたいと思った。 (竹内)