ドランシーの旅2005・8
ドランシー地区はパリ郊外の東北部セーヌ・サン・ドニ県にある。ドランシー駅に降りて橋を渡ると、鉄路が手の指のように何本も引かれ結合している風景が広がる。ここは輸送の拠点地区である。
ドランシー駅北にあるドランシーの役場から、ヘンリバブルス通りを越えて少し歩くと、シテ・ド・ラ・ミュエットというコの字型のアパートがある。そこにはユダヤ人連行追悼碑があり、連行用の貨車も置かれている。
ここはかつてユダヤ人を隔離し、絶滅収容所へ送る収容所として使われていたところである。ドランシーの収容所については、渡辺和行『ホロコーストのフランス』(人文書院)に紹介記事がある。
ドランシーから東方のアウシュビッツなどの収容所へと6万7千人が連行された。この建物は当初、憲兵用の兵舎として建設がすすむが、1939年9月からは非合法化された共産党員の収容所として使われ(〜1940・6)、フランス降伏後はドイツが戦争捕虜を収容した。
ヴィシー政権は1940年10月にユダヤ人の身分法を制定し、ユダヤ人の登録をすすめた。それを利用して一斉検挙がおこなわれた。1941年8月からはユダヤ人収容所となり、1942年7月16日のパリ・ベルディブ事件で検挙されたユダヤ人1万3千人のうち、7千人がこのドランシーに送られた。1943年7月までは、ゲシュタポ指揮下でフランス憲兵・警察がここを管理したが、43年8月からはドイツによる直接管理が始まる。ドランシーでも、ドイツ将兵が殺傷されるとその報復として政治犯やユダヤ人が処刑された。
ドランシーからは1942年3月27日から1944年8月18日までの間、東方への輸送がおこなわれるが、フランスからの72回の輸送のうち、ドランシーからの輸送は67回とその輸送の大半を占めた。
ドランシーの役場の文化部でドランシー収容所の冊子をもらった。そこには当時のポスターやドランシー収容所の写真や地図、ドランシーへの連行を指示する文書、連行される人々の写真などが収められている。
フランスでカトリック教会がヴィシー政権下でユダヤ人を保護しなかったことへの道義的責任を懺悔したのは1997年のことだった。歴史的な責任を問う姿勢がいまもある。
ドランシー収容所近くにはブランキ通りやサッコとバンゼッティ通りなどがあり、このような名前をつけるところがフランス的なところだと思う。役場には自由平等博愛の文字が掲げられている。長い年月を経て革命の精神の社会化が行われているようにも思われた。
役場の入口には、第2次世界戦争でなくなったドランシー地区の人々の名前が記されていた。兵士やレジスタンス(FFI/FTPT)、収容所への連行、ナチによる殺害などさまざまな形で死亡している。数えてみると320人ほどの死者が記されている。
役場近くに、ドランシーの墓地があったので入ってみた。そこには戦争死者を追悼する一画があり、追悼碑が建てられていた。フランスの独立や自由を求めて殺され、あるいはナチの絶滅収容所で死んだ人々を追悼するという碑板もあった。
墓地の墓碑の中には、強制収容所の赤い逆三角形のマークにFを入れた石版がおかれているものもある。ジャン・ピコリューもその一人である。かれは1924年に生まれ、政治犯として収容所に連行され、45年に死亡している。役場にはレジスタンスの死者のところに名前が記されていた。かれは抵抗運動のなかで捕らえられ、20代半ばで死を強いられたのだろう。ひとつひとつの墓碑からこのような死者ひとりひとりの歴史の、換えることのできない重さを感じる。
パリのペールラシェーズ墓地にも第2次世界戦争期の強制収容所関連の碑が数多くあった。それらはコミューン死者・「連盟兵の壁」・ヴィクトールノイール・ジュ−ヌポティエや社会主義者の墓碑とともに印象に残るものだった。しかし、観光地化された墓地ではなく、郊外で見た簡素な墓地に、より印象に残るものがあった。
ドランシー収容所跡を訪れる前に、フランス南部にあるリヨンの「レジスタンスと強制移送の歴史センター」を訪れた。リヨンは古代ローマの遺跡や中世の町並みが残る都市である。ここはレジスタンスの拠点ともなった。
このセンターは占領下でゲシュタポの本部とされた建物のなかにある。センターの入口には「フランスの犠牲者の名において忘れない」という趣旨の文字が彫られている。リヨンの青年は2000人余りが検挙され、レジスタンス運動の統一にかかわったジャン・ムーランもリヨンで捕らえられている。この場所は捕らえられた人びとが拷問されたところでもある。
内部は薄暗くされ、壁で仕切られている。いくつもの壁があり、そこに抵抗運動の資料が展示されている。当時を再現した壁のなかに映像を組み込んだり、夜景や部屋を復元したりと、展示に工夫がなされている。フランス人への強制労働を風刺したヒトラーの顔をした工場の絵や、レジスタンスが使っていた印刷機なども印象に残った。またユダヤ人の逮捕・連行についても展示されている。貨車がおかれ、連行を実体験できるようにしている。
この歴史センターからは『Histoire Resistance Deportation』(1997年)という展示解説書が出ている。
人々の抵抗を記録し強制移送への加担を記す作業は、この国と市民の名誉や尊厳を回復することである。権力によって殺された者たち、ひとりひとりの生の軌跡はゆっくりと反芻されなければならない。そのような生の確認の作業から、人間の共同社会の建設がはじまっていくように思われた。
ベルリンやパリの街ではさまざまなコンサートや演劇が開催され、人々が集う。歴史の蓄積のある建物に囲まれ、そこにいることで充足感がある。その感覚を帝国意識ということもできる。パリにはルーブル美術館、ベルリンにはペルガモン美術館などがあり、そこには各国から集められた美術品がある。けれども戦争と植民地支配のなかで獲得された各国の美術品はその国に返還されるべきものである。ルーブルやベルリンのエジプト品はエジプトに返すことが、本当の意味での「過去の清算」である。ネフェルティティ像を見に行くことは略奪する側に立ってしまうのではないかとも思う。ルーブルのエジプトの展示品などは、展示品自身がその帰還を求めているのではないだろうか。
さかんに「過去の克服」と言ってはいるが、かつての帝国主義の経済侵略や植民地支配が充分に反省されているとは思われない。ナチの時代とドイツやフランスの植民地支配はけっして別のものではない。過去のアジアへの侵略戦争の反省はないし、その中で略奪した富(美術品もそこに入るのだが)は未返還である。新たなグローバリゼーションの中で、このような意味での「過去の清算」があらたに問われているのではないだろうか。
パリの駅・空港には銃を持った兵士が警戒している。夏のパリの労働者の多くがアフリカ系であったし、ドランシーに向かう列車の大半はアフリカ系とアラブ系であり、ドランシーの駅も同様だった。そこにフランスでネオナチが発生する原因を感じたのだが、そのような風景自体、植民地主義と現在のグローバリゼーションがもたらしたものである。とするならば、地球規模で収奪された富を、民衆へと再分配することが不可欠の課題となるし、それなくして、平和はこないだろう。
ナチ支配期の「過去の清算」については豊かな事例がある。それらに学ぶとともに、現在のグローバリゼーションに至る収奪の歴史の、その清算のありようが問われているように思った。 (竹内)