花岡の旅

 2002年9月14日から16日にかけて秋田県大館市で戦時下の強制連行に関するフォーラムが開かれた。大館市花岡は1945年6月30日、花岡鉱山鹿島組へと強制連行された中国人が蜂起したところである。大館までは浜松から新幹線と高速バスで8時間、大館には安藤昌益の墓もある。

 秋田県北方には黒鉱鉱床があり、銅・金・銀・亜鉛・鉛などの金属を産出する。鉱山としては花岡をはじめ小坂・尾去沢・小真木ほか多数の鉱山があった。戦時下には朝鮮人・中国人・連合軍捕虜がこの北秋田の鉱山地帯へと連行されている。花岡での蜂起は戦時下での強制連行による迫害と抵抗の縮図でもある。現在、中国人被連衡者と鹿島建設との裁判和解をうけ、NPO「花岡平和記念会」が設立され、記念館設立に向けての活動がすすめられている。

 フォーラムでは花岡、長崎、広島、七尾、ウトロ、高槻、雨竜などの地域報告や戦後補償裁判の総括、中国人遺骨の行方、中国人船員の連行、東北での連行状況などの報告が行われた。また、花岡現地のフィールドワークもおこなわれた。

 現地で活動を続けてきた李又鳳さんは解放後大館を中心に約4万人の朝鮮人が在住朝鮮人連盟の活動が行われていったこと、いきるための酒づくりが弾圧されて検挙者を出したこと、自由労組を結成し活動したこと、中国人の遺骨発掘に取り組み町長と交渉したこと、遺骨送還運動を担ったことなどを証言した。

 フィールドワークでは、鹿島により中国人が連行された中山寮跡、日中不再戦友好碑、共楽館跡、朝鮮人収容所跡、連合軍捕虜収容所跡、中国人強制労働者地の滝ノ沢第一ダム工事現場と花岡川改修工事地、信正寺の七ツ舘弔魂碑と華人死没者追善供養塔、十瀬野墓地の中国殉難慰霊之碑などを見た。

 戦時下、花岡は年間3000トン以上の銅を産出し、最も将来性のある鉱山とみなされていた。このため当時の政府(帝国鉱発)は花岡の経営権を1943年12月に藤田組から全面的に譲り受けた。政府は選鉱場建設を含め大規模な増産計画を立てていた。鉱山の整備を担ったのが鹿島組であり、第一波の中国人連行は1944年の8月のことであり、以後鹿島が連行した中国人は1000人におよぶ。虐待の中、人間の尊厳を求めての蜂起がおき、連行期間中の中国人死者は400人を超えた。鉱山への中国人連行は300人、朝鮮人の連行は1942年から始まり解放までに4000人以上が連行され、連合軍捕虜も約300人が連行された。花岡は日本帝国主義の戦争遂行のための銅生産のための一拠点とされ、その生産のために連行労働者が大量に配置されたことがわかる。花岡事件の経過については『大館市史』第3巻下にまとめられている。鉱山史については同和鉱業の『創業100年史』に記されている。

 花岡の現場を歩くと、歴史を民衆のものとしてくたたかいが今も続いていることがわかる。すでに中山寮跡や遺体が埋められた鉢巻山跡、大穴は第二滝の沢ダムの鉱泥の底に沈んでいる。1949年に鹿島組がたてた追善供養塔は、コンクリートの穴に遺骨を埋め、上からコンクリートで固めたものであった。ここから遺骨が再びだされて第一次の送還が行われた。この塔は鹿島の虐待による400余りの死と死後の放置・無責任を象徴する碑であった。この小さな追善塔は2001年、現地市民団体の保存の声を無視するかたちで鹿島によって改修された。2002年にはこの塔の横に「告示」と題された看板が作られ、そこには蜂起日を「7月1日」と記された。権力側の蜂起の誤記日が「史実」として記されているのである。このように改修された碑は原状に戻され、誤った記述の碑は糺されねばならない。事件は今も続いている。

 現地の追悼会6.30行動を記録した冊子『蘇生する6月』が発行されている。ここには中国人や現地住民の証言や集会記録が収められている。2001年の報告書には中国人が帰国後に国民党軍に無理やり編入されたことや1950年の慰霊祭への弾圧状況なども詳細に報告されている。返還遺骨で放置されているものも多いとみられる。課題が多いことを学んだ。

 連行され死んだ中国人への追悼とともに、中国人を虐待することで生を終えざるをえなかった現場管理者についても、その生の復権に向けて考えることも必要だと思う。天皇の臣民となることで、虐待の最前線に駆り出され、資本と国家の労働奴隷を暴力的に管理する尖兵として自己を表現することになり、人間性を失うことで評価された。日本の帝国主義社会の中で創られた人格のおおくがそこにいけば同様の行動を取っただろう。彼らの人間としての復権のための論理を考えることは、再発の防止の視点からも大切なものだと思う。

 花岡からの帰り道、小坂銅山に行った。この鉱山にも中国人、朝鮮人、連合軍捕虜が連行されている。花岡鉱山の跡は消えているが、小坂鉱山はその姿を残している。鉱山の歴史や鉱石などは郷土館に展示され、小坂銅山資料も保存されている。また鉱山史の研究が紀要に記されている。中国人が収容されていたという康楽館は観光用劇場となっている。しかし、連行を記した文献は少ない。『鹿角市史』をみると尾去沢鉱山など各地の鉱山には数多くの連行者がいたが、そのことについては記述されていない。この事例のように、東北各地へと連行されていた人々の軌跡の多くは不明のままといっていい。宮城や秋田については比較的まとまった朝鮮人連行者についての名簿が現存する。今後の調査課題といえるだろう。

(竹)