ハルビン・長春の旅  
    細菌戦部隊の跡を訪ねて 
199212

 

はじめに

 199212月ハルビン・長春を訪れ、短い時間ではあったが、各地の戦争史跡を訪れた。

ここでは、ハルビンと長春の戦争史跡について、1ハルビン、ハルビン都市の形成・ハルビンの社会運動・抗日闘争・日本による弾圧・日本軍の基地・七三一部隊跡、2長春、「満州国新京」の史跡、一〇〇部隊の歴史・編成・細菌戦実験などの順にみていきたい。

 

1ハルビンの旅

●ハルビン市の形成

 現在、ハルビンは黒龍江省の省都である。広い都市であり、人口は約391万人、道里・道外・南崗・太平・香坊・動力・平房の7区に分かれている。平均気温は3.6度、1月の平均気温はマイナス19.4度であり、7月の平均気温は22.8度である。

 ハルビン市の由来は1097年に女真族が作った一村落からきている。この地域が脚光をあびるようになったのは19世紀末、ロシア帝国主義が南下し、東清鉄道と艦隊基地の建設をもくろんだことによる。ロシアはハルビンに都市を建設し、「満州」を東西南北にむすぶ鉄道の中心拠点になった。現在も、ルネッサンス様式・アールヌーボ様式の美しいロシア時代の建築物が残っている。ハルビンは第一世界大戦後の頃には上海につぐ国際都市になっていた。

 ロシア革命後、「北満」で実権を握った張作霖は「農業立国・移民誘致」の政策をとり、ハルビンは北満貿易の中心になって繁栄した。ハルビンの繁華街「キタイスカヤ」の裏街は、夜になれば「歓楽街」となった。日本人の買売春区が「一面街」にでき、朝鮮人遊廓が「柳町」におかれた。中国人街として発達した傅家甸の裏側、四家子の中心地区「平康里」には遊廓がつくられた。この地区に「妓院」があつめられ「薈芳里」と呼ばれるようになったという。

 この地区の中心広場は1918年に竣工し、以後、傅家甸地区の東側・新市街の中心となる。傅家甸の各所に「妓楼」があり、そこはアヘン窟を兼ねるところが多かった。「満州」国の都市計画によって、新陽区に「祇園遊廓」がつくられたが「成功」しなかったという。

 日本によって強制連行された朝鮮人「慰安婦」が20人ほど一棟に居住を強いられていた場所もあったという。ハルビンには性奴隷制によって呻吟した女性たちの想いの歴史が刻みこまれている。

 1993年、韓国で一人の元「慰安婦」が生をおえた。彼女は黄海道から日本軍によって連行され、ハルビンで性奴隷を強制されたという。生きて韓国にもどった彼女はひとり、人々をさけるように暮し、身体をむしばむ梅毒と闘い続けた。かの女は「慰安婦」とされ、その苦しみを癒されぬままその生をおえた。その歴史は日本の帝国主義支配の過去と現在を問い、批判し続けている。

 ●ハルビンの社会運動・抗日闘争

 1919年の五・四運動をへて、東北地方ではハルビンを中心に社会主義運動が広がっていった。1922年には、馬駿らの活動によってハルビンで「救国喚醒団」が結成された。1922年には中国共産党北京地区委員会から派遣された陳為人・李震瀛によって、東北での最初の党組織「共産主義青年団」が結成された。1925年には中国共産党ハルビン特別支部が確立された。

 そして、1925年の530闘争期にはハルビン工大生が鉄道工場・ロバートタバコ工場に行って宣伝活動をおこない、また労働者組織「東清青年協進会」の活動もおこなわれた。これらは反帝国主義闘争の性格をもつものであった。1926年にはハルビンを中心にして中国共産党北満地区委員会が成立し、以後反帝抗日のたたかいを担うようになった。

 張作霖爆殺事件にみられるように、日本帝国主義の東北侵略・鉄道収奪の動きに抗して、192811月、ハルビンで鉄道防衛のたたかいが高まった。市民・労働者によって「ハルビン抗路連合会」が組織され「ハルビン市民抗路連合大会」がひらかれた。学生たちは「ハルビン路権連合会」を結成し、さらに市民・労働者・学生たちは共同して「反日築路市民大会」を開き、デモをおこなった。これに対し当局は発砲し、250余名が負傷した。この事件は逆に大衆の怒りをかい、より大きな抗議行動がおきた。これらの動きは「119運動」とよばれている。

 1929年、共産党中央から派遣された劉少奇らの活動によって、「東清鉄道労働者失業団」がつくられ、「失業労働者後援会」も組織された。このような労働者運動の進展は、1930年代に入り、皮靴・油房・動力粉引・烟廠などでの労働者争議へと進む。

 19305月、ハルビンで朝鮮青年が日本領事館に抗議の投石をおこない逮捕された。これに対しハルビンの中国人学生が釈放をもとめる運動をおこなっている。

 日本による九・一八事件・「満州」侵略戦争にともない、中共北満委員会は「反日会」を組織し、全市で「反日総会」をひらいた。道外では大規模なデモがおこなわれた。民衆の反日闘争は日本帝国主義の暴圧のなかで、抗日武装闘争へとすすんでいく。

 19321月、日本軍がハルビン攻略にむかうという状勢下、「抗日将領軍事会議」がもたれ、「吉林自衛軍」が結成された。しかし、この「吉林自衛軍」は日本軍に敗北し、25日、ハルビンは日本に占領された。日本は「満州」国建国を宣言するが、これに対し民衆の抵抗はたかまり、この年の78月には20万人といわれる東北三省抗日義勇軍が立ち上がった。

 日本軍によって奉天(瀋陽)が占領されたため、321月、中共満州軍はハルビンを拠点にして活動をはじめた。かれらは日帝と偽満州国による弾圧をくぐり、抗日のたたかいをすすめていった。抗日軍のハルビン・拉法を結ぶ拉浜線への攻撃は48回に及ぶという。この鉄道への攻撃は日帝による収奪のための輸送路を破壊するものであった。

 ハルビンの共産党市委員会も再建され、その書記となって抗日闘争をすすめたのが楊靖宇であった。中共満州省委員会は間島で最初の抗日武装隊を結成する。中国・朝鮮民衆の共同によって抗日闘争は展開されていったのである。楊靖宇は東北人民革命軍第一独立師団の師長となった。彼が日帝によって殺害されるのは1940年であるが、それまでかれはこの地区での抗日闘争のリーダーとして活動した。

 

 ●日本による弾圧

 このような抗日運動を破壊するために日本は特務機関・憲兵隊・警察・保安局を使い、検挙・拷問・殺害をくりかえした。とりわけ、1937年の四・一五弾圧はハルピン共産党委員会の組織を破壊した。また、19409月には、チチハル鉄道局・ハルピン工大の共産党グループが検挙され、10月にはチチハル・奉天・「新京」・ハルビンなどで抗日国民党グループが検挙された。しかしながら、日帝と偽満州権力は抗日グループと抗日思想を破壊し尽くすことはできなかった。抗日の思想と運動がおこる原因は、日本帝国主義の存在そのものにあったからである。

 日本は集団部落を設定したり、武装移民を送り込んだり、鉄道防衛のための集落を設置したり、「討伐」をおこなったりして、抗日闘争を弱体させ、その消滅をもくろんだ。これにたいし、抗日東北連軍は組織を再編し、各地で遊撃戦をたたかっていった。

 1941年1月4日、ハルピン郊外の王崗で偽満州国軍の第3飛行隊一個連隊84人が反乱を起こして逃走した。日軍偽満軍の将校を殺害し武器弾薬庫を奪いトラック3台に分乗して三肇地区へと逃亡したのである。この事態を重視した関東軍はかれらを追撃して30人を殺し、44人を捕えたが、10人は逃走した。王崗事件は偽満国軍中国人兵士による武装反乱・抗日闘争であり、この闘争には三肇地区ヘと遊撃地区を拡大していた東北抗日連軍一二支隊の工作があったという。関東軍の追撃により第一二支隊は三肇地区から元の遊撃区へと撤退した。

 194112月、ハルビン左翼文学グループヘの弾圧事件があった。ハルビン市各所に憲兵隊・警察庁・保安局・特務機関の地下牢や秘密監獄があり、検挙・拷問がおこなわれていた。左翼文学グループの関沫南が入れられたのは松花塾という秘密監獄であった。松花塾は浜江地方保安局の秘密抑留所だったのである。

 ハルビン憲兵隊は各地の憲兵隊から「特移扱」という名で、生体実験用「丸太」をハルビンヘ移送させ、平房の七三一部隊へと護送していた。石井四郎は七三一部隊長を解任され、その「厳重注意」されるが、そのときの汚職のひとつが、ハルビン憲兵隊への「丸太」移送に対する不正金品問題があった。

 ハルビン刑務所道裡分所で敗戦時の814日、孫国棟が秘密裡に処刑された。彼は抗日連軍第三路軍の幹部であった。

 

 ●日本軍基地

 ハルビンは関東軍にとって「満州最大の戦略要点」であり「総兵姑基地」であった。ハルビンには1940年以降、関東軍第二八師団がおかれた。また、第一二飛行団飛行第一戦隊(孫家)、同第一一戦隊(ハルピン)、第一二航空地区司令部(ハルビン)、第一二行場大隊(孫家)、第二三飛行場大隊(ハルビン)、第一二野戦航空廠(平房)などの飛行隊もおかれていた。平房の航空廠からは侵略軍の飛行機が「満州」各地へ飛びたっていった。

 ハルビンとその周辺にはたくさんの飛行場がつくられた。1942年当時、ハルピン・綏化・延寿・珠河・孫家・平房・王崗・双城・拉林・一面坡・葦河・陶頼昭・背陰河・安達などに飛行場がつくられていた。ハルビンの平房には気球兵器研究部隊もおかれていたという。

 ハルビンは日本軍の細菌戦の研究基地でもあった。「満州」侵略戦争の開始直後から、細菌戦基地がおかれていた。1933年、石井四郎らは背陰河に基地をつくり、細菌戦研究や生体実験をおこなっている。実験用捕虜の逃走によって、かれらはハルビン市内に研究基地を移し、よりひろい研究基地の建設をもくろんだ。1936年、かれらはハルビン南の平房地区に基地建設を始める。地域住民を追放し、大量の労働者を強制連行し、細菌戦研究基地が平房につくられた。基地一帯は軍事特別地域とされ、厳重に警戒された。数千人の労働者が虐待され死亡した。また、細菌戦用の生体実験用の「丸太」が四千人以上、石井部隊によって生体実験などに使われて殺された。ペスト・コレラ・チフス他の細菌が飛行機の撒布や・諜略投入などの方法で中国各地にまかれ、多くの中国人が殺害された。敗戦時に七三一部隊は監獄内の「丸太」を殺害し、人体標本とともに松花江に捨てた。

 19457月時点での、日本の軍事配置をみてみれば、ハルビンには第4軍独立混成第一三一旅団、第五七航空地区司令部・四大隊、第一二野戦航空修理廠(平房)があった。ソ連軍の参戦と日本の敗戦にともない、これらの軍は敗走し武装解除された。国境近くに「移民」された日本人は「棄民」になった。日本帝国主義の敗北によってハルビンは解放された。

1945817日、ハルビンで反日朝鮮民族独立同盟北満特別委員会が発足、9月中旬にはハルビンで代表会議を開催している。464月、ハルビンの国民党部隊は武装解除され、ハルビンに赤旗が翻った。

 

       七三一部隊跡

 七三一部隊跡地はハルビンの南方約20キロ地点にある。七三一部隊の建物で残されているものは少ないが、現在では、本部建物、兵器庫、南門・衛兵所、ロ号棟跡、特別監獄跡、吉村班冷凍実験室、仁木班実験室、石井班小動物地下実験室、黄鼠飼育室、兵器班跡、田中班昆虫舎、山口班建築物、ガス実験室、ボイラー室煙突、死体焼却場跡、八木班農場跡、航空班跡地、東郷村の官舎、引込み線などを見学できる。部隊本部の建物が七三一部隊陳列館となっている。

 展示品にあった拷問用の体をベルトで縛り、首をいれて水を注ぐ板製のベッドが印象に残った。

今回は吉村班の冷凍室、石井班の小動物飼育室、黄鼠飼育室、死体焼却場跡、陳列館内部などを見学し、韓暁館長と元労働者から話を聞いた。

方振玉さんはいう。七三一部隊で1941年から労働者として使われ、石井班で動物を飼う仕事をした。動物の血は採血して四方楼(ロ号棟)に送っていた。43年の10月ころ、警戒が厳しくなり移動を禁止されトイレに閉じ込められたが、貨車から鎖や針金で縛られた人が四方楼に運ばれていくのを見た。

潘洪生さんはいう。1941年から七三一部隊の工務班で働気、荷物の輸送と積み込みをした。ハルビンの吉林街に輸送のために行ったが、1945年に囚人の輸送車を溝から引き上げた。輸送車の中の手枷や足枷をみたこともある。ハルビンの警察署から2台の車を動かしたときには、憲兵が監視した。

傳景岐さんはいう。七三一部隊で1942年から働いた。桑原という憲兵が毎日8時ころに車を出し、夜12時くらいに帰ってきたが、知識分子や共産党の工作者を中に押し込んで運んでいた。

冬のハルビンはマイナス20度を超える。カメラやペンも凍りつき、足裏から冷気が足骨の芯にまで凍みてくる。ここで殺された人々の無念を想い、真相究明の必要性を感じた。

 七三一部隊の残した細菌は解放後も周辺の村々を襲い続けた。日本では天皇制が存続し、天皇の戦争責任は免責された。細菌戦部隊についてみれば、石井らの七三一部隊の資料はアメリカに供与され、それと引き換えに日本の細菌戦部隊の存在は隠蔽された。

 日本政府は現在も、その細菌戦や人体実験を史実として認めようしない。

 平房地区には25ヵ所に及ぶ七三一部隊関連遺跡が今も残っている。ハルビン市内には抗日民衆を拷問し監禁した建物が残されている。元七三一部隊下級隊員の証言や実験報告書の発掘もすすんでいる。史実を認めようとしないという犯罪を問い、そして天皇制を存続させ歴史の捏造を許してきた「戦後」のありようを痛切に問い直す作業がいま求められている。七三一部隊跡にたち、日本帝国主義とハルビンについてまとめること、七三一遺跡地図を作成することなどを今回の調査の課題とし、ハルビンをあとにした。

 

 

ハルビン市内の戦争史跡表

当時の建物の名称

現在

松花塾

ハルビン警察庁

特務機関

ハルビン憲兵隊

日本領事館

南棟

江防艦隊司令部

白樺寮


忠霊塔


松花江


「慰安所」


マルタ


石井宿吉


永和街

保護院


アヘン店

ハルピン駐在関東軍司令長官邸

満鉄ハルビン病院

横浜正金銀行ハルビン支店

朝鮮銀行ハルビン支店

ヤマトホテル

ホテルニューハルビン

松浦洋行

ハルビン日本人小学校

共産党満州省委(少戎街2)

浜江地方保安局 秘密監獄

図書館を日本軍は警察庁とした   東北烈士記念館

地下牢あり、「満州」地域を統轄

地下牢あり、マルタ移送担当

地下牢あり、マルタ収容     ハルビン鉄路局公安処

七三一第3部として利用(輸送班も)   解放軍施設

                  第2職業学校

旧日本領事館七三一隊員中継地・更衣し 花園小学校
て出入、地下室はマルタの集結地?  花園旅社

「満州」事変戦死者を祀る       ハルビン烈士陵園
解放軍のパラシュート訓練場へ   革命烈士史料陳列館

19458月七三一部隊はマルタを処分し
松花江に捨てた。

朝鮮人「慰安婦」が20人、20部屋の長屋
が存在

憲兵隊分室、特務機関、憲兵隊本部、日本
領事館から七三一ヘと輸送       

吉林街36

七三一関係者居住区

ハルビン特務機関がロシア人を収容・情報
収集、一部をマルタへ

日軍占領以来、キタスキー街・大正街地帯に
500軒以上できた。(1935年頃)

和平邨賓館

                        
                         黒龍江省医院門診部

                         黒龍江美術館


                        地段小学校

                          鉄路局第一招待所

国際飯店


                          新華書店

兆麟小学校

                         
                         南崗区光芒街22























































































(参考『悪魔の飽食第
3部』『証言石井731部隊』『日の丸は紅い泪に』『日中アヘン戦争』「日本の中国侵略調査ハンドブック」)

 

  
2 長春の旅

 

       「満州国」の首都「新京」

長春はかつて「満州国」の首都であり「新京」とよばれた。当時の建物が今も残る。日本軍は満州侵略戦争が始まると翌日の919日には長春を占領した。そして翌年三月には「満州国」をつくり、この長春を首都にした。

溥儀が生活した勤民楼や緝熙楼は儀満州国帝宮陳列館となり、国務院や司法部などの建物は白求恩医科大学、興農部や文教部の建物は東北師範大学、日本大使館別館の建物は吉林省人民政府、関東軍司令部の建物は中国共産党省委員会として利用されている。白求恩医科大学として利用されている旧国務院の建物は議事堂の形をし、旧関東軍総司令部の建物は天守閣の形をしている。侵略の跡を今も残る多くの建築物から知ることができる。

長春には関東軍司令部だけではなく、細菌戦部隊である一〇〇部隊が置かれた。抵抗する中国人民衆を警察や特務機関に捕えられ拷問を受けた。たとえば19434月には長春で3000人を超える検挙があったという。吉林省の遼源炭鉱では強制労働による万人坑が見つかっている。中国東北での抵抗運動に対抗して作られた「集団部落」1万3000箇所を超え、抵抗する人々は殺されたという。

 

●一〇〇部隊の歴史

 長春の南西部にある孟宗屯の第一〇〇部跡を訪れた。一〇〇部隊跡は現在、長春第一自動車工場(ラジエター工場)となっている。1984年時の遺構は以下のようである。

当時

現在

司令部

二部

解剖室

暖房用ボイラー

一部

動物室

馬小屋

馬糞焼却場

南門

技術科二階

 (破 壊)

ホース機械12

補給科煙突

パンチプレス12

スペアパーツ倉庫

分工場・ラジエター作業所

木工工室付近

水素スタンド

(『夫を父を同胞をかえせ』から作成)

 

この長春に置かれた一〇〇部隊の任務は防疫研究であったが、実際には細菌戦用の研究・兵器製造がおこなわれていた。一〇〇部隊は細菌・生物戦のための謀略部隊であったのである。

 193111月、一〇〇部隊の前身、関東軍臨時病馬収容所が設立された。所長は小野紀造軍獣医中佐であった。中国東北地域では当時、鼻疽が流行していた。関東軍は日本馬を防疫し中国馬を徴発するにあたり、鼻疽馬を選別・排除するための組織を設立したのである。

 1932年に安達誠太郎、33年に高橋隆篤が所長となる。臨時病馬収容所は病馬廠と呼ばれるようになる。19358月、並河才三が廠長となり、36年関東軍軍獣防疫廠が成立、19378月、高島一雄が廠長となる。

 ここに登場する高橋隆篤は日帝政戦時、関東軍獣医部長であり、安達誠太郎はのち関東軍馬政局、大陸科学院馬疫研究所所長、馬事公会理事などの地位をえる。安達は一〇〇部隊へと強毒菌を提供していくことになるのである(『人体実験』)。

 19378月、部隊は改編され、牡丹江(海林)に支廠が創設された。1938年には寛城子から孟宗屯へと移転をはじめ、1939年に移転が完了した。19398月、部長として再び並河才三が就任する。1941年になり、部隊名が「満州第一〇〇部隊」となり、牡丹江支廠は第一四一部隊とされる(1945年には一〇〇部隊は第二五二〇七部隊とされる)。19418月に、部隊長が若松有次郎となる。若松は敗戦まで部隊長であった。

 一〇〇部隊は関東軍司令部の直隷下にあり、作戦上の指導は関東軍司令部第二部第六課から受けていた。関東軍獣医部・大陸科学院と連携しつつ、一〇〇部隊は細菌戦部隊として成長していく。設立当時の軍獣防疫廠の任務は防疫・細菌研究・ワクチン血清製造であったが、対ソ戦における細菌戦用特殊部隊として一〇〇部隊を位置づけられ、一〇〇部隊内に第二部第六科を創設(1943年)する。敗戦時の人員は職員が約800人、中国人労働者は約300人であったという。

ここでは炭疽・鼻疽・腺疫・媾疫・伝染性貧血・狂犬病・疥癬・ガス壊疽・ピロプラズマ症などが研究された。これらの防疫と細菌研究・血清ワクチン製造がおこなわれたわけであるが、対ソ戦用に強毒菌の培養がおこなわれ、生体実験もおこなわれた。

 謀略実験もおこなわれている。流行性病菌を牧場・河川・貯水池に散布し、人間・家畜を大量殺戮するための実験である。関東軍第二部の諜報課はこの謀略戦の「指導」を一〇〇部隊に対しておこなっていた。

 大陸科学院内に馬疫研究所がおかれたが、この研究所もまた対ソ戦用の後方兵姑基地とされた。馬疫研と一〇〇部隊とは人的・物的に密接な関係にあった。「関特演」以降、第11野戦軍獣防疫廠(満州第二六三〇部隊)と第二〇野戦軍獣防疫廠(満州第二六三一部隊)が編成され、二六三〇部隊は一〇〇部隊の指揮下に入り、一〇〇部隊内に駐屯し、二六三一部隊は第五軍隷下、虎林に駐屯した。二六三〇部隊は一部をハイラルに分遣した。 1944年、二六三〇部隊は長春から克山へと移駐、ハイラルと孫呉に支廠をおいた(『細菌戦の罪』)。

 この配置によって「軍獣防疫」部隊は牡丹江・虎林・克山・ハイラル・孫呉・長春におかれたことになる。対ソ戦を想定しての細菌戦部隊の配置とみてよいであろう。『日軍七三一部隊罪悪史』によれば一〇〇部隊の支隊が大連・ハイラル・佳木斯・拉古におかれ、分駐隊が克山・東安・鶏寧・東寧・四平などにあつたという。

 

●一〇〇部隊の組織

 次に一〇〇部隊の組織編成をみよう。一〇〇部隊の総務部は庶務・人事・経理・医務など各科で構成されていた。調査・企画の科には陸軍中野学校出身者が入っていた。細菌戦の計画実行のために一〇〇部隊は憲兵隊・特務機関と密接なかかわりをもっていた。

 第一部は、検疫をおこなうためのものであり、鼻疽を中心に軍馬の血清診断をおこなった。

 第二部は、一〇〇部隊の中核であり、この部で細菌研究・細菌兵器製造がおこなわれた。第一科は細菌研究、第二科は病理解剖、第三科は臨床・実験動物管理、第四科は有機化学研究、策五科は植物病理学を担当した。そして、細菌戦研究担当の科として、1943年から策六科が設立された。設立以降、第二部庁舎は細菌兵器製造工場となり、二部庁舎東館の地階は第六科の実験場となった。六科創設後、すぐにおこなわれた研究は鼻疽苗の生産・実験であった。ここで炭疽苗・鼻疽苗・赤穂病菌などが大量生産され、毒力強化実験もおこなわれた。また牛疫菌の空中散布実験などもおこなわれている。第六科には細菌戦資料室がおかれていた。そこでは細菌戦演習の展示がされていたという。東寧・三河・黒河での河川散布実験、白城子・孫呉・ハイラル・三河などでの冬季実験、七三一部隊と共同しての細菌砲弾実験演習などの様子が写真・地図・図解などで展示されていたというのである。

 第六科設立とともに、ハイラルでの兵用地誌調査活動がおこなわれた。一〇〇部隊から派遣された要員はハイラル特務機関の別班として活動し、放牧状況・家畜頭数・河川湿地帯の状況を調査したが、それは対ソ細菌戦用の事前調査活動であった(『細菌戦の罪』)。

 第六科が正式に成立したのは1944年4月のことである。科長は陸軍獣医学校からきた山口軍医少佐であり、科員は50人余りであった。

 第三部では、血清・ワクチン製造がおこなわれ、軍用動物への注射液が生産された。第一科は鼻疽・炭疽・腺疫などの血清製造、第二科は狂犬病、第三科は厩の管理をしていた。

 第四部は資材補給部であり、軍獣防疫用・一〇〇部隊用資財の補給をおこなった。動物飼育を担当する部でもあった。

 第五部は教育部隊であり、1943年に獣医幹部の育成のためにおかれ、五三一部隊とよばれていた。

 この一〇〇部隊に細菌と資財などを提供していたところが大陸科学院馬疫研究所であった。1933年、臨時病馬収容所に細菌研究室がおかれ、細菌戦研究がはじまるが、1936年に馬疫研究所長となった安達誠太郎は一〇〇部隊へと材料提供をはじめている。一〇〇部隊の細菌研究主任が馬疫研におもむいて細菌提供をもとめると、それに応じて細菌が提供された。文書はあとから作成されたという。馬疫研から、炭疽ワクチン、炭疽血清、炭疽・鼻疽・腺疫・媾疫の各菌、硬質ガラス器具などが提供され、電子顕微鏡などの貸与もなされていたという。この馬疫研は細菌戦計画にともない1942年に拡充されていった(『人体実験』)。

 

●一〇〇部隊の細菌開発と実験

 次に一〇〇部隊の細菌開発・生体実験について見てみよう。

 第二部は有刺鉄線で囲まれて警備され。中国人の立ち入りは禁止されていた。第二部内に細菌実験室・焼入用炉があり、地下には「軍人禁閉室」という二つの部屋があったという。この地下室は監獄であり、30人から40人が監禁され、収容された人たちは生体実験に使われたという。一〇〇部隊専用の特別囚人車(三輛)が外から人間を輸送してきた。(『日軍七三一部隊罪悪史』)

 一〇〇部隊では中国東北各地で実戦演習をおこなっている。1942年夏に約一ケ月おこなわれた三河夏季演習においては、鼻疽菌の放流と沼への散布、炭疽苗の地面散布などが実験されている。この実験がおこなわれた三河地方ナラムトは対ソ諜報活動の拠点であった。野戦用の資材準備や梱包もおこなわれた。秘匿のために軍服を中国人服に着替え、トラックの部隊標識をはずして訓練地へ出発した。この実験は諜報・細菌戦の実地訓練であったといえよう。

 1944年8月、一〇〇部隊内でロシア人に対し生体実験がおこなわれた。一人を実験後、青酸カリで殺害、9月、2人を実験後射殺。このような形で殺された7人から8人の捕虜の骨は家畜墓地に埋められたという。一〇〇部隊では「朝鮮朝顔」・ヘロイン・バクタール・ヒマチンを使っての生体実験がおこなわれていたようである。(「朝鮮朝顔」はナス科の一年草。熱帯アジア原産。種子に猛毒。各種のアルカロイド、特にスコポラミン・アトロピンの原料となる)

 194411月、一〇〇部隊は七三一部隊と共同して安達実験場で牛疫ウイルスの航空機散布実験をおこなった。それは「興安北省」の家畜群を汚染するための実験であった。

 19453月には、山口少佐らの一隊がハイラル南方の南ハンゴール河畔で冬季演習をおこなっている。細菌を雪や草の上に放置しての感染実験であった。ハイラル西方では羊痘苗・牛疫・炭疽苗で汚染された羊500頭、牛100頭、馬90頭が飼育されていたという。

 19456月には、秦皇島で「囚人」を使っておこなわれた毒ガス・化学実験に一〇〇部隊も参加した。

 ここでみた一〇〇部隊の実験は数多くおこなわれた細菌戦実験・生体実験の一部にすぎない。さらに多くの実験がおこなわれ、多くの人々が犠牲になっているだろう。いまも事実は隠蔽されたままである。

 一〇〇部隊は19458月、部隊建屋を破壊して撤退・逃走した。同年秋、村々には伝染病が流行した。1946年から47年にかけて付近の楡樹や永吉ではコレラが流行した。  

1951年、一〇〇部隊跡地から大量の人骨・馬骨が発見され、医療具(薬ビン・注射器)の破片も発掘された。

 

おわりに

 日本帝国主義は細菌戦・生体実験の戦争犯罪を隠蔽し、天皇制の存続をはかった。細菌戦を担ったグループは免責され、アメリカは細菌戦研究データを継承した。七三一部隊や一〇〇部隊跡の遺構は日本の細菌戦の罪業を語り続けている。事実の多くがいまも埋もれたままである。 

 日本は細菌戦研究をすすめていくなかで、炭疽とペスト菌を使用しての実戦を計画し実行しようとした。アジア各地の防疫給水部隊はペストや炭疽などの苗を現地で培養しつづけた。『標的イシイ』によれば、中国大陸やルソン島の日本兵士は炭疽ワクチンの接種を受けていた。中国側史料によればペスト菌や炭疽菌は細菌戦に使用され、1990年代に入って証言も多数出るようになった。

中国の細菌戦被害者が日本政府に対してその尊厳の回復を求めて裁判に立ち上がったのはこの旅から五年後の一九九七年のことだった。真実があきらかにされ、被害者の尊厳が回復されるまで、戦争は終わらない。

  ※この記録は「心に刻む会」の旅行団に参加したときのものである。

                     199212月、2006年補記・竹内)

 

参考文献

1ハルビン

 哈爾濱地図出版社編『哈爾濱地図冊』

 飯坂太郎編著『昔日の満洲』図書刊行会(当時の写真集)

 越沢明『哈爾濱の都市計画』総和社

 越定男『日の丸は紅い泪に』教育史料出版会

 玉魁喜他『満州近現代史』現代企画室

 金静美『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』現代企画室

 田中恒次郎「反満抗日運動」『日本帝国主義の満州支配』時潮社

 山田明「軍事支配(2)」『日本帝国主義の満州支配』時潮社

鈴木隆史『日本帝国主義と満州 下』塙書房

 森正孝編『中国の大地は忘れない』社会評論社

 朝日新聞山形支局『ある憲兵の記録』朝日新聞社

 中央档案館他編『東北歴次大惨案』中華書局

森村誠一『悪魔の飽食』光文社

 森村誠一『悪魔の飽食第3部』角川書店

 中帰連・新読書社編『侵略』新読書社

 韓暁・辛培林『日軍七三一部隊罪悪史』黒龍江省人民出版社

 下里正樹『「悪魔」と「人」の間』日本機関紙出版センター

 崔菜他『抗日朝鮮義勇軍の真相』新人物往来社

2長春

 三友一男『細菌戦の罪』泰流社

 中央档案館他編『人体実験』同文館出版

 森村誠一『悪魔の飽食第3部』角川文庫

 韓暁・辛培林『日軍七三一部隊罪悪史』黒龍江省人民出版社

 森正孝編『中国の大地は忘れない』社会評論社

 軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会編『夫を父を同胞をかえせ!』

 第7次アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む南京集会『厳冬の中国を訪ねて 戦後補償への道北京・長春・ハルビン』1993