富士の旅 04・8

東富士・北富士演習場の旅を終えて

 

「軍の町」、御殿場

まさに驚いたというより、唖然とした感のある御殿場の風景だった。それは富士の裾野の雄大な景色に対してではなく、「軍の町」を色濃く映し出す場面が連続して現れたことによる。

東名高速道路御殿場インターを下り、案内を引き受けてくださった御殿場在住の小原氏とともにキャンプ富士に向かった。JR御殿場駅近くからまっすぐ西へ向かって県道を走っていくと、まず目に入ってくるのは富士山の雄姿である。もう少し目線を下にずらすと、迷彩色の軍用車が間断なく一般道路を行き交う姿が飛び込んできた。自衛隊の軍用車など見慣れたものだと思ってはいたが、ここ御殿場で見る軍用車の量は半端ではなかった。小型のジープから大型トラックまで、ありとあらゆる軍用車が道路を行き交っている。当たり前なのか、何の遠慮もなく堂々と。恐らくここでは日常的な風景なのであろうが、それにしても不気味で不愉快だった。その感覚を増幅させるかのように、東富士演習場での砲撃演習による着弾音がはっきりと聞こえてきた。着弾地に向けて車を走らせていることが嫌でも解った。

米海兵隊が駐屯している「キャンプ富士」は東富士演習場の東端、自衛隊滝ヶ原駐屯地の前に位置していた。自衛隊基地のゲート前は隊員による物々しいまでの警備が為されていて、その横を何故か大型観光バスが数台通って行く。ふとバスの中を覗き見ると、「自民党・・・」との名札が掛けられている。こんな団体がこんなところで何をしようとウロウロしているのか。たぶん「砲  

撃演習見学ツアー」なのだろう、そうと思うとため息がでた。

実は「キャンプ富士」に米海兵隊が常駐していることは知らなかった。日本本土の主要米軍基地は、北から三沢、横田、座間、横須賀、岩国、佐世保だけだと思っていた。頭の奥の方には「富士の裾野の米軍キャンプ」とのイメージが残っていた。しかしそれはベトナム戦争時代のもので、実体はとっくに無くなっていると勝手に思っていた。ところがどっこい、「キャンプ富士」は米海兵隊の基地として、演習場を自衛隊と共同使用しながら機能していたのだ。しかも沖縄から「県道104号線越え演習」が移転され、兵舎も拡充整備されていた。それは何時でも軍兵士の増員ができる状態にあることを誇示しているかのようであった。折しも、昨今の「米軍再配置」情報の中で沖縄の海兵隊が北海道と並んで富士に移転するニュースも流されている。「キャンプ富士」を目の当たりにしてその現実感が漂っていることを感じた。

「キャンプ富士」を北側から道路越しに眺めていたとき、「キャンプ富士」の右後方に白煙が立ち上るのをはっきりと確認できた。着弾地が近い。着弾の音もさることながら、着弾の砲煙がこんなに身近に見えるとは、何とも凄まじい所だ。こんな所で正常な生活が送れるわけがない。

それは、案内人の小原氏の説明にも次々と現れた。『昔、米軍が大挙して駐屯していたときは犯罪も絶えなかった』『近所の中学校では女子生徒がスカートを着用しなかった時期もある』『朝鮮人もたくさん住んでいたし、「パンパンの街」と呼ばれていた地域もある』『防音工事の受注を受けるために業者が個別に家庭訪問を頻繁にしている』等々。実際、話を聞いている最中に目の前を通り過ぎた路線バスにも、「防音工事」の文字が大きく書かれた業者の宣伝広告があった。「町が病んでいる」と実感した。

御殿場の町をもっとも深刻に感じさせる話を小原氏が語ってくれた。『人口7万人ほどの御殿場市に米軍の「キャンプ富士」以外に自衛隊の駐屯地が3つもある。さらに自衛隊の富士学校まである。ここでは町全体が自衛隊と深い関係性を持たされていて、反対運動を行うのは無理だと言っても過言ではない。』

このことが軍の町が被る最大の被害だと思う。すなわち、住民の心の中に軍の存在が溶け込み、理性的な判断ではない「歪んだ生活感」に属化させられてしまうということだ。この現象は勿論、御殿場だけではない。しかし、日本社会では莫大な金が軍の駐屯と共に降り注ぐ構造になっている。これほどの規模の軍施設があることによって、御殿場で「潤う」人々も少なくないのが事実だ。8月28日には東富士演習場で、自衛隊の「総合火力演習」がデモンストレーションとして一般公開され、実に2万人の観客が集まったという。御殿場市以外からも多数来ているだろうが、市民が有形無形に動員されざるを得ない現実は想像に難くない。

沖縄米海兵隊による155ミリ榴弾砲の実弾演習が今年も東富士演習場で実施される予定だ。マスコミでは9月17日からだと報じられている。9月12日には反対行動が現地で闘われるが、状況は厳しい。演習の「定例化」に伴う反対意識の弱化などに乗じてか、演習はなし崩し的に拡大され、問題は深刻化している。何とか、現地の人々と手を携えて運動を盛り上げる方法は無いのかと自問自答した。

 

「朝鮮部落」と「疑似サマーワ」を

見た北富士演習場

御殿場から国道138号線を北上し、風光明媚とは形容し難い山中湖周辺の乱開発を横目に見て、忍野村に向かった。左手はもう北富士演習場だった。鬱蒼とした樹海の木立の中をすすむと、道は樹木に包まれた回廊の様に延びていた。車を運転しながらの気分は悪くない。しかし、所々にある演習場への入り口が目に入ると一瞬にして興醒めしてしまう。これも仕方がない。

忍野村では「北富士情報センター『杣』」の事務局を担っておられる写真家の田辺さんが、古いどっしりとした趣のある民家で迎えてくれた。忍野村名産のトウモロコシをご馳走になりながら、田辺さんの話を聞くことになった。東富士を含めた富士山麓の演習場が詳細に記された地図を見ながら、その規模の膨大さに改めて驚いた。北富士・東富士演習場を合わせると北海道の矢臼別演習場を凌駕する面積になるという。今年の4月に訪ねた矢臼別演習場を思い起こしながら、彼方此方に位置する演習場の実体に対して再度暗澹たる気分になった。

朝早く訪問した私に対して、田辺氏は本当に親切丁寧な解説を聞かせてくれた。そこには、北富士地域の歴史や反対運動の紆余曲折めいた経過と内容が盛り込まれており、非常に興味深かった。もっともっと聞いていたかったが、午後には横須賀に向かう予定であったので、より深い話は次回に置いておくことにして、北富士演習場を見に行くために腰を上げた。

偶然にも訪ねた日が8月22日の日曜日だったので、北富士演習場内に入ることができた。一面のススキ野原で、8月のお盆過ぎだというのに風景はすっかり秋になっていた。田辺氏の運転する4輪駆動車でアップダウンする砂利道を走っていくと、突然、金網越しに自衛隊の戦車が間近に見えたりもした。どこか牧歌的な雰囲気も漂っていたが、それを一変させたのが「疑似サマーワ」施設だった。

自衛隊のイラク派兵に先立ち、現地サマーワの駐屯地を想定した施設を北富士演習場に設置して訓練した様子が見て取れた。中でも攻撃を受けたときに避難するシェルター型の建物は、どこか場違い的な風貌の一方で、やはり戦地を想定している生々しさも持っていた。『ここはイラク戦争と直結している』と感じざるを得なかった。怒りがこみ上げてきた。

戦車砲の着弾地や155ミリ榴弾砲の着弾観測所など、臨場感溢れる視察となった。北富士演習場をめぐる「入会権」の歴史も作用しているのだろうが、全国でもこれほどつぶさに見て回れる演習場は無いだろう。今回は時間の制約があって一部分に留まってしまったが、また機会を作って仲間達と訪れて見なければと感じた。

『このあたりが、土地の住民達が「朝鮮部落」と今でも呼んでいる所です』と田辺氏が言葉を発せられた。当然ながら驚いた。目の前はやはり一面のススキ野原である。

田辺氏は解説を続けられた。『昔、朝鮮戦争の時に米軍が朝鮮の村を仮想して建物をこのあたりに建て、それに向かって攻撃演習したんです』『今ではこんな姿に様変わりしていますが、土地の人々は今でもこのあたりを「朝鮮部落」と呼んでいます』。 

今まで幾度か類似した話を、大分県の日出生台演習場をはじめとして耳にしたことがあるが、これほどまでにハッキリと朝鮮戦争と日本の演習地を結ぶ事実を聞いた経験は無かった。自らが在日朝鮮人として常に頭の中に画いてきた「朝鮮戦争時の米軍」というイメージが、現実味を増して眼前に浮かびあがった。心の中から、怒り・恨みの感情が湧き上がってくるのを止めようもなかった。

北富士演習場では自衛隊がイラク戦争に加担すべく、「疑似サマーワ」駐屯地を作って演習を繰り広げている。そして、半世紀以前には米軍が朝鮮戦争に出撃するために「朝鮮部落」を建てて攻撃演習を展開した。この二つの事実は決して別々の事象ではない。

当たり前のことではあるが、軍隊・軍事基地・演習場は戦争と直結している。そして、人は誰も「戦争反対」とは口にするが、一方で、軍隊・軍事基地・演習場に対して時にして「仕方がない」と対応したりもする。明らかに矛盾しているにも関わらず。自らの生き死にが、直接関わる戦争状態になってから、「軍隊にも基地・演習場にも反対」と唱えたところで後の祭りになってしまう。

北富士演習場の「疑似サマーワ」施設はすぐに撤去されなければならない。そして、再び「朝鮮部落」を作らせてはならない。断じてならない。そう強く思いながら今回の東富士、北富士演習場をめぐる旅を終えた。

(都)沖韓民衆連帯