韓国の旅19918  戦争被害者遺族と在韓被爆者の証言

 

1991年夏、大韓民国を訪れ、ソウル・天安・大邱・慶州・釜山を回った。ソウルでは王宮、国立博物館、太平洋戦争遺族会、安重根記念館、柳寛順記念館、独立記念館、天安では独立記念館、大邱では在韓被爆者協会大邱支部、慶州では仏国寺、慶州博物館、釜山では在韓被爆者協会釜山支部などを訪問した。

 

     ソウル、戦争被害者遺族の想い

 王宮の入り口にある光化門の後ろに旧総督府の建物があり、そこが国立博物館になっている(その後、この建物は1996年に撤去された)。

 王は自分だけが歩く道を定め、王宮よりも大きな建物を禁じ、人間を序列化した。自己の座る場所を玉座とし、2つの竜を上に描いて守護神にしたという。今では王制はなく、王宮は民衆に解放されている。このように王宮が民衆のものになるということは歴史が民衆のものになっていくということであると思う。日本の王宮である皇居や御所も早く解放されるべきなのだろう。

 博物館の中を歩くと、古代では王冠、馬具、陶器、円形埴輪、高杯などが展示されている。ヤマトの政権期のものと比べても優れたものが多い。大陸の中国文化の影響を受けながら、朝鮮での古代国家の王権の繁栄を示すものが並んでいる。朝鮮文化の日本への渡来の源流を示すものが多いように思う。日本の王制のルーツといっていい。王墳は民衆の奴隷労働の象徴でもあるから、民衆史からみれば、王墳は公開されなければならないと展示を見ていて感じた。

 夜、韓国のテレビを見ていると、815日近くのこともあり、三・一運動や朝鮮総督府に関する特集や日本軍国化を示す映像が流れていた。湾岸戦争前後から日本の海外派兵につながっていく動きが上手に示されていく。新聞でも815特集が組まれ、日本の軍国化や強制連行・慰安婦などの記事も多い。金学順さんも取り上げられ、日本人へのインタビュー記事もある。また、汎民族大会関連の南北統一関係記事も多い。

 パゴダ公園で日本人グループが815集会を持つと、韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の関連で取材陣も来た。

ソウルで太平洋戦争犠牲者遺族会の梁順任さんや金大鐘さんらの話を聞く機会があった。話をまとめると次のようになる。

 日本政府は連行された人々の名簿を公開しない。そのため数万の行方不明者があり、死亡の申告すらできていないケースもある。犠牲者の遺骨を発掘することもできていない。精神的な苦痛を受けたまま、労務者や挺身隊員として連行された人々の遺骨のうち不明なものがある。父母の遺骨を持たないということは苦しみなのだ。負傷して帰国した数十万の被害者は癒されることなく苦しみながら死んでいった。日本のために動員され奴隷とされたのに、死んだ人々の慰霊塔さえたてることができないままだ。

このような状況の中で太平洋戦争犠牲者遺族会という形で1988年6月に再発足した。力を結集し、生存者を集め、証言を収集した。1989年には竜山区に事務所を持ち、遺族の話を聞いた。その話のなかには、「老母は帰国を今も待ち続けて門ばかり見ているし、死亡申告もしていない。早く母の期待と苦痛を取り除きたい。」「父の顔を見ないで生まれたが、自分が息子です、お父さん、と遺骨の前で言いたい。遺骨を捜してほしい。」「兄の遺骨を捜し故郷に持って行きたい。」「友人は生き埋めにされたが逃亡した。同村の家族と会い、自分の犯した殺人として心の十字架を背負っている。友人の哀願を思い出すたびに苦痛を得ている。早くその責任を軽くしたい。生きてきた恨を解決し、名誉を得たい」、などの多くの訴えがある。

心の傷は日本をすべてくれるといっても癒えないだろう。韓日両政府は解決済みといっているが、何も解決していない。日本は犠牲者に対して直接の公式謝罪をすべきであるし、強制連行関係名簿を公開し、実態をあきらかにすべきである。すべてを発掘して韓国に送り、補償要求に答えるべきだ。

 会員の柳チャンギさんは、父の顔は知らない。父を思えば涙が流れる。自分が生まれて4ヶ月で父は戦争に取られた。4歳のときに母が亡くなり、祖母の元に引き取られ、結局孤児院で育った。子どもにも夫にも話せない。恨を話したくても言葉より先に涙が流れる。涙しか見せるものがない、と語る。

 柳寛順記念館は梨花女子高校内のホールの一角にあり、そこに資料が展示されていた。展示資料の中には、たとえば李喜英さんの卒業証書のように植民地支配を示す「昭和5年」「京城」などの文字があった。

 安重根記念館は南山公園の中にあり、石碑が数多く建てられていた。「民族正気の英雄」として評価され、朴正煕による碑もある。このような国家主義的英雄化を超えて、民衆の視点から安の姿を再評価することも必要なのだろう。朴正煕による碑を見ながら、偶像化された安の姿から、今の韓国民衆の運動の視点から再定位されたかれの姿が出てきてもいいように思った。

 ソウルのギャラリーでは815特別展として松代大本営展が開かれていた。

 

     天安の独立記念館

ソウルから天安に向かう。高速道路には滑走路用の道路もあり、米韓軍事訓練チームスピリットの際には発着訓練用滑走路として使われることもあるという。天安の独立記念館は1987年に開館した。1200万坪の広い敷地に37棟がある。

展示館は1古代史、2近代民族運動、3日帝下侵略、4三・一運動、5独立運動・文化運動、6在外同胞運動・臨時政府、7分断と朝鮮戦争・近代化、というテーマで展示されていた。拷問を示す実物大の像や亀甲船の模型などもある。展示から印象に残ったものをあげておこう。

安重根の書には「一日不読書 口中生荊棘」「黄金百歩 而不如一教子」「為国献身 軍人本分」といったものがあり、その書の横には「大韓国人 安重根」と記され、薬指が断指された手形が押されている。書から、精神性を重視し読書を好み、占領支配に生命をかけたかれの歴史が伝わってくる。

「大麻供出命令書」が展示され、そこには密陽郡の李根秀に対し「作付1000坪.責任供出681斤」と記されている。木版印刷された三・一運動時の大極旗からは、人々が運動用に工夫していたことがわかる。「在外不逞鮮人思想分類図」(19235月全裸南道警察部)では独立派、共産派、穏健派などで分類されていた。「内鮮一体」の大きな石碑も印象に残った。

展示資料の中には、各警察署から警務局長の松井茂に宛てた書類が展示されていた。抗日義兵闘争期の「匪賊逮捕」「暴徒討伐」に関わる、1908528日の全州匪徒逮捕の件、530日の大邱警察署長発、68日提川警察署長・暴徒討伐に関する状況報告、729日安東警察署長発、などである。そのなかの729日の安東からの「押送中ノ暴徒銃殺ノ件」には次のようにある。

「安警叢第三四号 隆熙二年七月二九日 安東警察分署長警部佐々木寅彦 

内部警務局長松井茂殿 

押送中ノ暴徒銃殺ノ件 

暴徒首魁尹用石昨朝大邱警察署へ押送ノ為メ巡査三名ヲ附シ當地出発 安東郡南後面水沈洞通過ノ途上ニ於テ突然反抗シテ護送巡査ノ隙ヲ窺イ山上二向テ逃走セシヲ以テ押送巡査ハ已ムナク之ヲ銃殺シタリ 右及報告候也」

植民地戦争の中で、この尹用石のように殺されていった一人ひとりに思いを馳せていくことが求められていると思う。安重根の行動はこのようななかでの抵抗闘争の中のひとつである。「暴徒」とは占領のために侵入してきた日本軍にほかならない。

1944年当時の卒業証書の展示もある。「豊原英子 昭和5921日生 国民学校終了年限6年ノ全課程ヲ卒ヘタリ 仍テ茲二之ヲ證ス 昭和19321日 京畿道知事認定教城徽文 学校長従七位勲七等洪山範植 第236号」。ここには創氏名、元号、校長の位階など天皇制教育による奴隷化、皇民化がおこなわれていった状況が示されている。国民精神総動員朝鮮連盟のチラシには、日の丸とともに「毎朝皇居ヲ遥拝シマセウ」と記されていた。

展示の前で老いた女性が涙ぐんでたたずんでいた。その横を子どもたちが「イルボン・イルボン(日本)」と囁いて通り過ぎていく。侵略は現在の問題であり、アジアの民衆と同じ位相からの告発はありえない。日本人として円の価値意識でしか世界を見ていないケースも多い。侵略の調査自体に再び現地への抑圧が加わっていくこともあるのだが、このような展示を見ていると自身のなかにも現地民衆の想いと交差する気持ちが湧いてくる。現地に来て学ぶということは大切なことである。

 

●在韓被爆者協会大邱支部の人々

慶尚北道の大邱市で在韓被爆者協会大邱支部の人々から話を聞いた。そこでの話を紹介したい。

支部長の李石圖さんはいう。

植民地支配の中で父や祖父の世代は食べることができずに満州や日本へと行き、働き食べることで精一杯だった。1945年広島長崎に5万人が居住し2万人が死亡した。生存者中1万人は残り。2万人が帰国した。帰国しても病んで働くことができず経済力がなかった。今数千人が生きているが、結婚への差別があり、被害者を名乗らない人もいる。日韓会談での日本の賠償(協力金)は高速道路や製鉄所に使われた。今度は日本政府が40億円を拠出して福祉センターなどをつくるというが、被害者個人へは一銭も出ない。日本政府は戦争犠牲者に対して知らぬ顔をしている。一方で自衛隊の派兵を始めた。なぜ日本は韓国とともに歩もうとしないのか。心と心の真の付き合いをしたいと思うし、平和のために手をつなぎたい。だが現在の状況でどうして手がつなげるというのか。私たちの青春はめちゃくちゃにされた。金では換えられない。心が通じる人が一番うれしい。今日の出会いを長く忘れずに平和のために努力したい。

副支部長の金分順さんの話をまとめると次のようになる。

 父は若い頃から植民地からの解放をもとめ独立運動に参加した。おじは日本人に射殺された。父も狙われ、生活していた陝川を離れ、「満洲」へと数人で逃れた。その後、一時期故郷へもどるが家には帰れず、母とも会えず、結局、日本の広島へと逃げた。七年間の逃避の末、母が日本へと渡った。生まれたのは広島市吉島町。「中村エミコ」が日本での生活でつけられた名前だった。

 小学生の頃から指さされ差別された。学校時代は「勤労奉仕」ばかりの日々であり、日本の戦争のために動員された。卒業して一六歳の時、親は「挺身隊」へと徴用されることをおそれ、結婚させられた。「未婚だと「挺身隊」に連行される。南洋へ行った人は殺される」という状況だった。一七歳の時、子がひとり生まれた。

 一九四五年八月六日、被爆し、背中に負った五ヵ月の子は真黒に焼け、分順さんも火傷した。家屋の下から救助され、山の麓に倒れて寝ていた。子も横で寝ていたが目をぱっちり開き、声も出さずに五日目に死んだ。母の家は焼けなかったから、八月一五日をそこで寝たままむかえた。母は「戦争は終わった。早く帰ってきてくれ。生きていたら帰ってきてくれ」と父を呼んだ。母のことばで父の死を知った。分順さんは指ひとつ動かすことができず、全身から膿がで、うじがわいてくるという状態にあった。母は「日本が怖い。夫を殺した。子も殺そうとする」と泣いた。母は十二月まで山のような死体がなくなるまで父を探しまわっていた。

 一九四五年十二月、分順さん一家は帰国した。母は父を想い泣いて言った。「自分らはお父さんを広島の地に残して行く。あんなに独立を叫んだのに…。八月十五日まで生きていれば独立を見ることができたのに」と。警察官が走ってきて「朝鮮人のくせにやかましいから出て行け」と殴り蹴った。分順さんは広島市商生たった弟に背負われていたが、弟が分順をおろして警官の腕をとろうとすると、弟も殴られた。「本当に悲しかった」と分順さんは語る。

 帰国しても原爆症についての理解はなかった。分順さんは歩くこともできなかった。夫の父母は「死んだ方がよかった。何しに帰ってきた。死んだらいい嫁をもらうのに」と分順をなじった。体はフラフラ、膿がドロドロ出、春になってもめまいがするという状態のなかで。分順さんは生きる自信を失った。

 かの女は死ぬ覚悟で夜、村の湖の水面を見たが、水面に母の姿が浮かんだ。山奥へ入り首をつろうとしたが、狼や狐の声が母の声のように聞こえた。「生きてくれ」と母が叫んでいるようだった。かの女は死ぬことができなかった。三年がすぎても手から膿が出たため、足で洗たくをした。死のうと思っても母を想い死ねなかった。「原爆をうけた女性は子供が生めない」と言われ、夫の父母に家を追われた。分順さんの体重は二十七〜八キロにまで落ちていた。風に舞ってしまいそうなかの女を助けたのは母だった。

夫が大邱の姉の所で暮らす分順さんを探し出した。女の子が生まれたが乳が出ず、「子は死ぬから捨てろ」とまで言われた。だが、かの女は子を育て、夫の父母の家へ戻り、六人の母となることができた。「お母様がいらっしゃるのなら大事にして下さい。命を賭けてくれるのはこの世で母だけです」と分順さんはいう。

被爆した多くの人々が後遺症のため働くこともできず、財貨を失い苦しんでいる。分順さんは被爆者協会の役員として奔走している。被爆者たちは後遺症で寝込んだまま「海の水でも腹一杯飲んでみたい」と苦しんだり、食べる物もなく小学校にも行けなかったりの状況だった。草の根を掘っても食べるものがないという状態からの出発であり、多くの人が亡くなった。みんな苦労し自殺した人もあるという。分順さんの親戚には、体が弱く肺を病み、母が倒れたため這いだし、近所の人に食をもらい、とてもつらくなって十六歳で自殺した少年もあったという。被爆者の救援に従事し、現状に目を腫らしながら、分順さんは訴える。「若い人がしっかりがんばって。平和のために手をとりあい交流したい。日本はしっかりしてください。私の生まれた故郷です。日本国は私たちに何かしてくれると信じていましたが…、あきらめました」と。

2歳で被爆した姜富子さんや14歳で被爆した趙金岳さんの話も聞いた。

姜さんはいう。

2歳で被爆した。母から聞いた話だが、家の下敷きとなってしまったが、8時間後に泣き声をあげた。29歳だった父は7日目に全身ケロイドで死亡した。父を思うと涙が出る。母が父を背負い、木を集めて父を焼いた。母の背中から「おとーちゃん」と呼んで降りようとし、泣いたという。以後、母が今まで自分たち3人兄弟を育ててきたが、苦労し、今は寝込んでいる。一番悲しいことは父の顔も姿もわからないということ。父を呼ぶこともできず、夢の中にも出てこない。それが一番悲しい。あの世で会うことが楽しみ、親孝行もできない。皆さん、平和を守ってください、と。

 戦争当時は日本人としての生を強要され、戦後は「外国人」とされ、補償・救援を得ることができなかった分順さんたちの戦後46年間の想いを聞いた。心と心が通じていくにあたって、戦後処理がきちんとされなければならない。それが課題である。

 

     慶州にて

慶州は新羅時代の首都であり、仏教遺跡や王墳が残されている。仏国寺・慶州博物館・天馬塚などをみた。景観保護のために人口や家屋の屋根などが制限されているという。

金色の王冠が展示されている。王冠を見ながら、金の採掘や精錬・彫金の過程を考えた。王権のためにどれだけ多くの人命が流されたのだろうか。王権の史跡は、失われた民衆の命の鎮魂のためにも、すべてが民衆に公開されるべきなのだろう。民衆による歴史での主体性の獲得と王制の廃絶とは不可分であるように思う。また、この地からヤマトへの渡来の歴史を考えていくこともできるように思った。

 

     釜山の被爆者

 釜山は活気のある港町だ。竜頭山公園には4月民主革命の犠牲者の追悼塔などもあり、19人の名前が記されていた。李舜臣の像もある。タワーからはかなたに日本の島々が眺望できるという。

釜山でも被爆者協会から話を聞いた。支部長の車貞述さんは語る。

同じ被爆者なのに日本から謝罪も補償もない。これは人間のやることではない。救済ではなく、被爆者の権利として補償を求める。戦争の後始末ができてこそ平和といえるだろう。今、若い人々に原爆の被害を知らせ、平和の大切さを話したいと思う、と。

被爆して耳をやられ、口がうまく動かない徐精洙さんは自筆の文書で思いを示した。

車少道さんはいう。

生存しているとみられる1万人中、登録人数は2500人だ。田舎に3分の1、都会の3分の2が居住している。日本では広島の被爆者には年1300万円の予算がつくというのに、在韓被爆者には一銭も出ていない。これまで韓日両政府から被爆者に対する措置はなかった。日本の市民団体からの支援はありがたい。被爆者の苦労は言葉では言い表せない。家庭訪問してみるといい、涙、涙の状況だ、と。

戦後50年を迎えようとする今日、このような話を聞きながら、戦争は被害者の尊厳の回復があってやっと終わるのだと思った。。

 

おわりに

韓国を旅し、旅して現地を訪れてみるということは大切なことだ、とあらためて思った。また、史実に学び、新たな社会にむけての決意を持つことができた。

参加者の一人が、「話を心に刻み、人間の心を取り戻すしかない。日本帝国主義や天皇制は自分自身にある。認識は変わっても体質は変わっていないものだ」と語る姿に、共感した。

 

     以上は心に刻む会の訪韓団の一員として訪韓したときの記事である。                       

19918月記・2006年補記