軍港舞鶴の今昔―すすむ出撃拠点化―

2001年3月20日、舞鶴を訪れ、浮島丸の碑と軍拡状況を見る機会があった。
●軍港建設―中国・朝鮮からの収奪―

  舞鶴の軍港としての整備は日清戦争で得た賠償金を使って1897年からはじめられ、1901年
 には舞鶴鎮守府が開庁した。その後軍縮の動きのなかで鎮守府が閉ざされたこともあったが、1
 937年の中国への全面侵略のなかで、軍港の拡充がすすみ、建設労働力として朝鮮人が大量
 に動員された。舞鶴内の軍事基地建設、海軍工廠、火薬廠での軍需生産、日通での運輸労働な
 どで多数の朝鮮人の強制労働がおこなわれていった。
  舞鶴海軍工廠は45年7月、米軍の空爆をうけ、84人が死亡したが、そのなかには連行された
 朝鮮人も含まれていた。市内の共楽公園内にある追悼碑の横には犠牲者名が刻まれている。
  そこには「金山秤鉉」「柳鉉昌」「三共相萬」といった朝鮮人名もある。戦後55年を経た今、海軍
 工廠への連行者として氏名を明らかにしえるのはこの3人のみだ
  軍都舞鶴の建設は中国・朝鮮からの金や労働力の収奪によっている。舞鶴各所にのこる旧軍
 史跡にはアジアの民衆の血と汗が結晶化しているといえるだろう。

●浮島丸犠牲者追悼碑

  1945年8月、日本の敗戦にともない朝鮮人は解放をえた。青森大湊から帰国のために出向し
 た浮島丸は8月24日舞鶴港に入った。そのとき、船は爆発して沈没した。この事故で500人以
 上の朝鮮人が生命を失った。正確な死亡者の数はいまもわからない。
  沈没地点から遺体が佐波賀の浜へと流れついた。この浜に浮島丸犠牲者を追悼する碑がある。
  像は地元教師たちが作ったものであり、建立は1978年8月のことである。
  毎年8月24日に追悼集会がこの碑の前でもたれている。
  浜に打ちあげられた約200体の死体は、一時埋葬され、現自衛隊教育隊のグランド地点で火葬
 された。遺骨は京都、呉を経て現在、東京の祐天寺にある。いまも浮島丸事件の真相追及が南北
 朝鮮・日本でとりくまれている。
  2001年に提訴が予定されている韓国人約200人の原告による旧軍人軍属裁判の原告のなかに
 は浮島丸事件の幸存者も含まれている。
  軍人・軍属の形で連行された朝鮮人は30数万人とされるが、遺骨の不送還、遺族への非通知、給
 与を供託金しての不払いなど被連行者個々人への非道を重ねて今日に至る。
 現地舞鶴で浮島丸事件の真相を追究する李秉萬さん(80歳)は「死者の正確な数は今もわからな
 い。
  真相の究明を!政府はわるかったと謝罪すべき」と語る。昨年浮島丸の追悼碑文のアクリル板が破
 壊され、「植民地支配」と記された文字が消されるという事件がおきた。植民地支配という事実さえも
 否定する動きは、過去の戦争犯罪を教科書から消し去り、軍拡を肯定する動きとつながっている。
  防空指揮所・大波重油タンク・平海兵団・海軍火薬廠など旧軍都の跡は各所に残っている。タンク
 跡には若浦中学があるが、雪が降るとタンク跡の線がうかびあがるという。地下施設の壕は約200
 本あり、半分は自衛隊が今も使っているという。市役所前にも壕が2つ残っていた。
  海底に沈められたままの遺体、地下壕の中に刻まれたままの解放への思いは再軍都化の現実を
 撃ってやまないように思われた。

●引揚記念館のしめす「平和」

  平海兵団跡地近くに引揚記念館がある。ここは1945年から58年にかけて引揚の拠点港だった。
  展示の多くをソ連内でのラーゲリ(収容所)下での強制労働が占めている。
  展示をみながら何が展示されていないのかを考えざるをえなかった。日本軍が中国(「満州」)で何
 をしたのか、自己のラーゲリ体験は示してもその前に中国で何をしたのかは記されていない。日本
 人死者を追悼するが、日本人によって死を強いられた人々への追悼の表現はない。人間性が国籍
 によって選別され、人間の形が偏狭になっていく。日本兵を海外へとおくり出したシステムへの問い
 もない。戦争の原因、その責任を問うものがない。日本人の帰国乗船名簿やソ連内の墓の存在は
 示されているが、日本兵によって殺された人々、連行された人々の名簿や墓 についての表記がこ
 こにはない。シベリアに送られた日本兵のなかには朝鮮人兵士もいたのだが、それについても記載
 されてはいない。館で買った舞鶴の写真集には大極旗を振って出迎える人の写真があった。シベリ
 ア連行者の死は「無辜の悲しみ」(司馬遼太郎)とされている。そのような形容は民衆を無知の彼方
 へおいやり、死を強いる現実へと追いやった者の責任の所在をあいまいにしている。
  60万人におよぶシベリア抑留者をつくりあげた根本の原因は問われず、ソ連の連行政策の非道
 が強調されている。シベリアへ連行された人々が当然もったであろう天皇制国家への責任追及、自
 軍の戦争犯罪への問いは示されない。極寒での生存だけが引揚の前提として示される。戦争責任
 への問いのない同胞愛と「平和」の合唱が館内に流れる。
  このような「平和の祈り」のなかで、舞鶴の軍港としての再編はすすんできた。再軍港化を批判でき
 ない「戦争の悲惨」と「平和への祈り」、そして国際貿易港の宣伝にはいつわりがある
  抵抗、反戦平和の活動、加害の記憶、戦争責任、これらを欠落させた自国民のみの「平和の祈り」
 に普遍性があるというのだろうか。このような「祈り」のなかで、軍艦をシンボル化した表現が舞鶴市
 内の各所を飾り、出撃拠点化がすすんでいる。

●舞鶴の出撃拠点化〜ヘリ基地・イージス艦・桟橋延長〜

 軍転法・住民投票によって1950年、舞鶴は平和への道を歩むはずだった。しかし、朝鮮戦争にとも
 ない舞鶴は再び軍港の道をあゆむようになった。街路名が三笠通り、大門通りであったり、舞鶴を眺
 望するタワーが軍艦の司令塔の形をしていたり、公園の日時計が大砲の形をしていたりと、軍艦のイ
 メージで自己を形象化し、街並みは軍事文化にみちている。市役所の玄関には市庁舎内での抗議
 行動を規制する看板まである。
  生命や人権を核とする表現が軍事的表現におおわれているかのようだ。
  ボーリング場入口には「平和を守る自衛隊さんごくろうさま」と大書されていた。
  1990年代、舞鶴の出撃拠点化がすすんだ。
  1994年、400mの滑走路をもつヘリ基地の建設工事(対潜ヘリ用)がすすめられ、今年3月末に
 完成する。
  1996年軍艦用桟橋の延長計画(1999年から埋立)がすすめられ、2005年には、水深11m、
 長さ約900mの桟橋となり、巨大艦(米艦も含め)の接岸もできるようになる。
  1996年には、イージス艦「みょうこう」が配備され、98年には旗艦「はるな」が佐世保から舞鶴を
 母港とした。
  1979年のブルーリッジ(米第7艦隊旗艦)の入港以来、米艦の入港も20回以上に及ぶ。
  日米共同訓練への参加がすすみ、新弾薬庫建設計画もある。
  まさに舞鶴は日米新ガイドライン安保に対応して新ヘリ基地、巨大桟橋、イージス艦をもつ、出撃
 拠点として整備されてきている。
  1999年3月、新ガイドライン関連法制定前の「不審船」をめぐっての「はる な」「みょうこう」「あぶ
 くま」による日本海実弾攻撃事件は「不審船」を口実とした出撃訓練にほかならなかった。
  市内の五老岳から港を眺望すると鶴が舞うような風景であるという。この美しい若狭の港が軍事出
 撃拠点とされ、新ガイドラインのもとで、戦争の準備は着々とすすめられている。
  完成まじかのヘリ基地工事現場に行くとそこには鹿島道路、西建、ジェイコス、東亜道路工業の看
 板があった。
  駆逐艦「たかつき」の案内役の兵士は、海外に「もっと行ってほしい」と笑顔で語った。ここには軍事
 基地建設で利益をあげる企業の姿があり、軍事組織が海外へ出て行くことへの歯止めを内心にもち
 えない軍人の姿がある。自衛艦一隻200人を一企業とみたて経済効果の名で交付金つき企業とみ
 る動きも強い。
  このような状況に対し、旧軍の地下壕に閉ざされたままの解放への叫び声、海底にしずめられた無
 数の死体の恨、軍事文化に彩られた街並の内奥からの生命への想い、戦争協力拒否への市民のメ
 ッセージ、これらの力は舞鶴の出撃基地化を止め、平和へのクサビとなる力をもっているように思う。
  過去の侵略戦争によって死を強いられた人々の無念をふまえ、戦争責任を問い、戦争も軍隊もな
 い社会にむけてのとりくみをすすめたいと思った。
 「舞鶴を再び派兵拠点とするな!浜松と同様に!」