南京・天津の旅1992・8
1992年8月、上海・南京・北京・天津・保定を訪れ、証言を聞き、戦争史跡をみた。以下はその報告記事である。
● 上海 日本軍上陸地
日本軍が上陸したという羅店北方の川沙には1985年9月3日に建てられた上陸を記す上海市宝山県人民政府の碑があった。碑は倒れてしまっていたが、1937年8月に日本軍が上陸し、民衆2444人を殺し、10908室を焼き払ったと記されていた。当時6歳だった張家法さんは叔父さんが2人殺されたこと、腹を裂かれた妊婦を見たこと、抵抗者が処刑されたこと、強姦事件があったことなどを証言した。
羅店抗戦殉難烈士紀念碑が羅店中学にあり、この碑は日本軍によって殺された赤十字関係者を追悼したものである。碑には抗議した医師が射殺され、体を裂かれて捨てられたとある。
上海12綿紡績廠はかつて大日本紡績工場(上海大康紗廠)だった。ここで当時少女労働者だった朴盤?さんと朱蘭英さんの話を聞いた。2人の話をまとめると次のようになる。
14〜5歳で働き始めた。12時間2交替制で食事をしながら働かされ、人間扱いされなかった。工場を出るときには身体検査をされた。日本人に会ってお辞儀をしないと殴られた。工場前には歩哨が立っていて、必ずお辞儀をしなければならなかった。衛生状態が悪く虫に刺されて炎症を起こし、それを理由に解雇された人もいた。低賃金で1日に4角程度だった。過労と栄養失調で不妊症になった人もいた。そのような中で生活向上を要求する組織ができ、上海でストライキなどの闘いも起きた。工場の共産党の労働者が日本人に襲われて殺されたこともあった。この工場は日本の資本家が上海でおこなっていた搾取の縮図だった。
上海には日本軍の「慰安所」も作られた。1938年1月には上海の其美路の楊家につくれているという。上海の共同疎開地の一角に海軍陸戦隊専用の海乃家という「慰安所」があった。日本人10人・朝鮮人10人、中国人20人がおかれていたという。その建物は現存していた。
上海では歴史研究者の忻平さんの話を聞いた。忻さんはいう。
1931年の1・28上海事変では、商務印書館とその図書館や学校が爆撃され、文化破壊がおこなわれた。抵抗した人々は捕えられ、女性が凌辱された。1937年の8・13事件では、工場・病院・学校などすべてが空爆にあった。松江県では強姦した日本兵を殺したことへの報復に2キロ四方の地域が焼き尽くされた。老上海といわれた南市区は全地区が焼き尽くされた。川沙では約2500人が殺害された。11月には金山衛に上陸し3日間で1万人以上を殺害した。上海から経済略奪をおこない、中国でもっとも大きな造船工場の江南造船廠が三菱によって占領された。100万人以上が家を失い、市民が日本兵にお辞儀をしないと殴られた。
忻さんこのような戦争の実態の例を具体的に紹介し、歴史を教訓とし、一衣帯水の日中関係での友好の大切さを語った。
上海から汽車に乗って南京に向かった。
● 南京 虐殺の跡
南京郊外の江東門近くに、「侵華日軍南京大虐殺同胞紀念館」がある。入り口には犠牲者30万人と大きく掲げられている。紀念館の周囲には石のレリーフがあり、日本軍や連行され殺害された中国民衆の姿が刻まれている。泣く子や母子の姿が印象に残った。庭一面には小石が置かれ、それらは死者の遺骨を象徴するものという。発掘された遺骨の陳列館もある。この地は2万人以上が殺された場所であり、万人坑の上に館が建設されているのである。
この館で幸存者の劉永興さんと夏淑琴さんの証言を聞いた。
劉さんはいう。
当時中華門近くに住んでいたが、鼓楼大方巷という難民区に引っ越した。15日の昼に日本軍に弟と連行され、「軍艦が下関で荷物を降ろすから手伝え」といわれた。4〜5千人が集められた。下関に連れて行かれ、そこで日本軍が機関銃で撃った。私は揚子江に飛び込み船の陰に隠れた。生き残ったのは7〜8人だった。日本兵はガソリンに火をつけて死体を焼いた。また日本兵は南京の女性たちに暴行を加えた。
夏さんはいう。
当時中華東門近くの新街口に住んでいた。1937年12月13日、父が戸口で日本兵に殺され、近くのおじさんも殺された。母の赤ん坊を庭に投げて殺し、母を強姦した。近所のおばさんも2人の子とともに殺された。さらに一緒に隠れていた祖父母を殺し、2人の姉を強姦して殺した。生き残ったのは私と妹だけだった。家族9人のうち7人が殺された。私たちは難民区で避難していた叔父叔母と暮らした。語るたびに涙が出る。なぜ老人から赤ん坊まですべて殺すのか、納得できない。
南京で大量虐殺がおこなわれた場所を歩いた。
南京大学はかつて金陵大学といったが、ここのテニスコートでは、日本軍が避難民の中から300人ほどの元兵士を集めて虐殺した。天文台がある場所では工事中に100体あまりの遺骨が発見された。北極閣、漢中門でも虐殺があった。それぞれ碑が建ち、漢中門の碑には漢中門外では2000人余が殺され、2月なって南京紅卍会によって1395体の遺体が集められたことが記されている。下関と呼ばれた中山埠頭では数回にわたり約一万人が殺害された。碑文には12月16日に5000人、18日に4000人が、この前後に付近の南通路等で800人が殺されたと記している.?江門の碑には付近には5100あまりの遺骨が葬られたと記されている。中華門には今も銃弾のあとが残っていた。
マギー牧師が虐殺を記録したフイルムに出てくる鼓楼病院も現存している。この病院はマギーが経営していた。また、南京市の中央部の利済巷に「東雲慰安所」とされた建物が残っていた。住民によれば、昼夜となく日本兵が来た。兵隊以外は来なかった。軍人が車で来て性病の検査をした。日本軍が引き上げるとここにいた女性たちは下関の収容施設に保護されたという。
南京では南京大学の高興祖さんの話を聞いた。高さんは上海から南京にいたる虐殺の経過を紹介しその背景を語った。
高さんはいう。虐殺は上海での宝山、金山衛、松江、上海から蘇州に向かう途中の昆山、蘇州、無錫、江陰、常州、鎮江、句容、江寧、蕪湖、揚州など各地でおこなわれた。南京から徐州、蒙城、武漢にかけても虐殺が繰り広げられた。その虐殺の背景としては、暴力によって中国の抗戦の意思を消滅させようとしたこと、中国人を蔑視していたこと、日本軍は国際法に従わない決定をしていたこと、捕虜を殺害する命令をだしたこと、食料を現地調達という略奪によったこと、日本軍自体の残虐性などがあり、これらが、南京での大虐殺をもたらしたと分析した。
1992年8月15日、旅行団は侵華日軍南京大虐殺同胞紀念館前で追悼集会を持ち、不戦を誓った。
●北京 盧溝橋と抗日戦争紀念館
北京の西方10キロほどの地点に盧溝橋がある。近くに宛平城があり、この城内に中国人民抗日戦争紀念館がある。館内には、抗日戦争の経過が展示されている。このとき別館では731部隊展が開催されていた。
盧溝橋にもいったが、川に水はなく、年月を経て橋の石は磨り減っていた。その後、北京の軍事博物館を見学した。
さてこの後、ハルビンにいく予定だったが、ツアーの手配ができていなくて、飛行機に乗れなかった。そのため、万里の長城や明の一三陵を見学したのち、天津・保定方面にいくこととなった。
● 天津 南開大学と抗日殉難烈士紀念館
天津では主に南開大学と抗日殉難烈士紀念館をみた。
南開大学の劉福友さんの案内で南開大学構内をまわった。南開大の建物には石のプレートがはめられ、その建物の由来が記されていた。たとえば、「校産管理為公室」のプレートには、「1937年該楼二居以上被日本侵略軍?毀、1954年修復、仍住宿舎」というように、日本軍による破壊が刻まれている。
「第二教学楼」は化学教室として使用されているが、かつては「思源堂」だった。この建物は1923年に建設された。プレートによれば、1937年7月、日本侵略軍は飛行機や大砲で南開大を攻撃した。この楼も弾をうけ火事となったが、抗日戦勝利後に修復したとある。
南開大構内には日本軍の建築物も残っている。日本軍の兵営となった建物は「机器智能研究所」として使われている。
南開大構内には周恩来の記念碑もある。碑には「我是愛南開的」と書かれている。また、1987年に建てられた西南連合大学建校50周年記念碑もある。南開大、北京大、精華大の3校は日本軍の侵略から逃れて重慶へ移転し、1947年に昆明から戻った。この碑は日本による中国での教育破壊を示すものである。
劉さんは案内しながら次のように話した。
日本軍は南開大学を破壊した。当時、図書館には20万冊におよぶ明清代の「善本」がたくさんあった。占拠される前にベトナムヘ輸送し昆明へ運ぶ計画をたてたが、日本軍がベトナムを占拠し、本は日本軍に略奪された。本は日本へと運ばれ、戦後になって一部分の451冊が返還されただけだ。南開大には1万8千斤(9千kg)の鐘があった。この鐘を卒業式のときに卒業生の数だけつくことが習慣になっていたが、日本軍はこの鐘を略奪した。
南開中学、南開女子中学も侵略され、砲撃は1キロ向こうからおこなわれた。日本軍は騎兵や戦車で大学に乗り込み、焼き尽くした。7月29日、30日と南開大は火の海となった。人びとはイギリスの租界地へと逃れ、涙を流して天津の街を見た。7月28日の日本軍の天津占領のとき南開大構内にはひとりの兵もいなかった。軍隊はいないのに日本軍は徹底的な破壊をした。それは文明を憎みつぶす行為であり、歴史上唯一と思われるやりかたであり、本当に野蛮な行為だ。
南開大の創始者の張氏は9・18事変のとき、東北地方へと調査団を派遣するなどの愛国運動をした。日本軍はそれを憎み、南開大の完全破壊をおこなったのかもしれない。劉さんは南開大を案内し、以上のような説明をした。
人間の知的遺産を破壊し収奪した行為が南開大に刻まれていた。現在、日本にある中国の「善本」のなかには日本軍の略奪によるものも多いだろう。
劉福友さんは、海光寺の日本軍華北駐屯司令部跡も案内した。この司令部は義和団戦争時の1900年からおかれ、日本軍の侵略拠点になった。現在では中国医科科学院血液病医院となっている。人口には「日本侵華遺祉日本華北駐屯軍司令部」跡を示す表示があった。塘沽は唐山炭鉱の石炭などを搬出する重要な港だったが、1933年に日本軍が占領し、以後天津をいつでも占領できるような状況に置いていた、という。
劉さんは奥の方に残るコンクリート製の建物へと案内した。1991年末、劉さんが発見したものだ。現在は倉庫として使われているが、トーチカ型で三つの部屋がある。内側はコルク貼であり、コンクリートは厚い。電波関係の司令部がおかれていたのかもしれないという。日本軍は中国人労工を使って秘密軍事工事をした。そして労工を殺害し海河のなかに捨てた。1937年4月初めから末まで1ヵ月ほど死体が流れていた。天津の『大公報』にその記述がある。この建物のなかには拷問用の刑具があったという。
天津には抗日殉難烈士紀念館があり、ここには日本へと連行され死亡した中国人の遺骨が納められている。
ここに連行者の遺骨(花岡を含む)があることを1990年に劉さんらが発見した。劉さんは強制連行について次のように語った。
日本は日本祖界地に大東公司をつくった。この大東公司は、満州国に労働者を連行するための「労工証」をつくり、満州へと送り込む活動をした。日本は対ソ戦にむけて「北辺振興計画」をたてて、さらに山東・河南・河北などからも東北へと労工を騙して募集し送り込んでいった。募集で集まらなくなると、強制割当で動員し、さらに強制的な形で連行した。東北の炭鉱や軍事基地など各地の大規模工事現場への連行がすすめられ、各地に万人坑ができた。労工を送るための収容所が北京・石家荘、塘沽、新郷、済南、青島に作られ、ここでの死亡率も高かった。14年間の「満州」支配で1000万人以上の労工が労働を強いられたと推計される、と。
抗日殉難烈士紀念館の中に入ると、正面に大きな位牌があるが、その奥に日本に連行され死亡した人々の遺骨が並んでいる。日本から送り返された約3000人分の遺骨のうち2300ほどがここにあり、約600は青島にあるという。10段ほどに高く詰まれた遺骨箱には名前や番号が記されている。遺骨の箱の白い布が40年近い歳月を経て変色していた。
この遺骨群には圧倒された。遺族に返還されていない遺骨がほとんどなのだ。また日本に残っている遺骨もある。日本への4万人の中国人強制連行は、1930年代初めからおこなわれていた中国東北をはじめ、中国各地への強制連行の一環であり、その一部に過ぎない。この強制労働の全体像をつかむことも必要だと思った。
なお、天津には周恩来同志青年時代在津革命活動紀念館があり、ここも訪れた。
●保定
保定では河北大学の劉宝辰さんと花岡事件の幸存者王敏さんの話をきいた。
劉宝辰さんは、連行を決定した日本政府と直接使用した企業に責任があるが、今日にいたるまで賠償する態度を表明した企業がないとし、賠償請求の根拠を、民衆や捕虜を連行し強制労働させることは違法であること、報酬も全く得ていないこと、この強制連行によって家庭が崩壊したこと、強制労働下の虐待によって死亡し、肉体的精神的な傷を負ったこと、通信の自由もなく互いに自由に話し合うこともできなかった奴隷のような状態などをあげた。そして中国国内で賠償を求める声が大きくなっている現状を紹介した。
王敏さんはいう。
花岡鉱山での鹿島組による川の付け替え工事現場に連行された。連行されたのは第1期300人、第2期600人、第3期100人の約1000人であり、正確に言うと到着は986人になった。王さんは第1期の連行者だったが、この300人の集団のうち、冬を越すまでに200人ほどが死亡した。虐待による死者の増加のなかで蜂起がはなされるようになった。連行者が増加するなかで、6月に「突撃完成」の掛け声で労働が強化された。このなかで蜂起の決定をし、6月30日の蜂起になった。しかし捕えられ、共楽館の前での虐待によりさらに100人が死亡した。指導者の一人として取調べを受けた。左足のスネに熱い火の所に跪かされた跡が今も残っている。
王さんは指導者であることを認めなかったため、警察署に拘置されたまま解放を迎えた。花岡での死者は418人に及んだ。花岡の鹿島組の仕打ちは、鞭で何度も殴る、真っ赤に焼けた鉄の棒を体に押し付ける、中国人中隊長に殴らせ殴り方が悪いと棍棒で殴りつける、日本語での点呼ができないと殴打する、仕事場へと軍隊行進させ歩調が合わないと殴打する、作業中に転んだりすると罰する、丸太で殴りつけるというものだった。靴もなく冬場には足がはれ上がり、そこがつぶれて肉が落ち、歩くのが遅くなる。そうなるとまた殴られた。幸存者でも傷痕のないものはいなかった。王さんの右手の甲には木刀で殴られた跡が今も残っている。まぶたにも瘤のような傷が残っていたが1965年に取り除いた。
帰国時は内戦状態であり、1987年に退職し、王さんはこの問題に取り組めるようになった。ちょうど耿諄大隊長のニュースがあり、連絡を取り合い6人の幸存者を発見した。日本に残っていた4人とも連絡がつき、連行者名簿を入手した。1991年までに320人と連絡がつき、生存者は57人だった(1991年現在は54人)。
王さんたちは1990年に日本に行って交渉した。鹿島組は最初、自ら望んできた、契約できたといっていた。しかし実態は捕えられて連行されたのであり、連行され家族が崩壊し、乞食のような生活になって流浪した例など、事実を突きつけていった。鹿島は企業としての責任についてはあるというようになってきた。鹿島組が与えた労苦は決して拭いされないものと、王さんは語った。
●北京・民間賠償をめぐる動き
保定から北京にもどり、北京で中国での民間賠償をめぐっての運動と証言について話を聞いた。
童増さんは次のように語った。中国は国家として対日賠償を放棄したが、個人の賠償権を放棄するとはいっていない。日本は過去の侵略戦争を反省してこなかった。1976年から1980年にかけて多くの人が対日賠償を考えるようになった。改革開放の中で研究もすすんだ。対日賠償運動は歴史を明らかにし糾していく運動の一環である。中国側の被害額は、当時は600億ドルであり、現在の価値に換算すれば、6000億ドルになり、少なく見積もっても3000億ドルになる、と。
童増さんの「中国での民間賠償請求の現状」によれば、花岡への連行者や山東省の元労工が賠償請求を出すなど、さまざまな被害者が賠償を要求し始め、1991年の第7期人民代表大会の第4回会議では、多くの各省の代表が対日民間賠償を提案した。日本軍による殺傷被害、性的被害、強制労工、細菌戦被害、空爆被害、アヘン被害、物資の略奪などさまざまな被害があり、この被害に対する賠償要求が出てくることになる。
徐亦孺さんは江蘇省蓮水での日本軍による虐殺事件の幸存者である。証言によれば、1939年3月、徐さんは13歳の中学生だったが、日本軍に銃剣で刺され、さらに銃底で殴られた。その後収容所に入れられ、苦役を強いられたが、逃亡に成功したという。
李典平さんの祖父は石家荘で労工狩りにあい、日本軍に連行されたが、消息は不明のままだ。責任は日本にあり、賠償を求めたいと語った。また、李さんは内モンゴル出身の王海生さんの訴えを紹介した。日本軍は内モンゴルの扎蘭東で細菌実験をおこない、そのため全村で180人以上が死亡した。王さんは外出していたため被害にあわなかったが、一家は母親を除く全員が死亡した。王さんも賠償を要求している。
中国全土から短期間で600件以上の賠償請求の請求や問い合わせが集まったという。証言者と同行していた王工さんは民間賠償の運動の意義を次のようにまとめた。
中国にとっては、100年の雪辱を晴らすもの、中華民国との統一の実現に一致する、日本のような経済発展を望める、日本にとっては、平和憲法の尊厳を守る、ドイツを手本に戦争を清算し歴史的責任を果たす、日本が世界で政治大国となることにつながる、国際関係としては、日中友好の物的基礎となる、新しい国際的世紀を切り開ける、アジアの平和に貢献できる、と。
このまとめ方は参考になった。本当の意味で戦争を終わらせるということや国際的な道義の実現の意義について考えさせられた。
●おわりに
今回の旅では上海・南京では日本軍による侵攻と虐殺の状況について、天津・保定・北京では強制連行や民間賠償をめぐる状況について学んだ。このとき中国東北には行けなったが、天津で見た強制連行死亡者2300余の遺骨箱は忘れられないものになった。戦時の強制労働は放置された遺骨として未完のまま、今も私たちの前にある。
ひきとられない骨がある 放置されたままの骨がある 骨壷のなかの骨はだれの骨だ 分骨された骨たちよ 無名のままの壷たちよ 天津・塘沽の港から 日本帝国へと強制連行され 送りかえされたとき きみは骨になっていた 日本へ送られ殺されたもの 7000人 天津へと戻された骨壷は2300個 日本の地に放置された数千体の骨たちよ 天津抗日殉難烈士紀念館の一室に閉ざされ 動きを封じられた骨たちよ 引きとられることなく 時を刻んでいる骨たちよ 魂たちよ きみの声に出せない想いを ききとろうと心を澄ます きみはなにをさけぶ きみたちが生まれた故郷へ きみたちを送りかえすのは きみたちを連れ去り 骨としたものたちでなければならなかった きみたちの想いは果たされぬまま きみたちを骨としたものたちはいまもうちたおされていない ここできみたちと出会い きみたちに想いをはせる 骨たちよ 魂たちよ きみたちの無念を 平和へとつなげていく誓いを いまここで刻む きみたちの叫びをよみとり 果たされないまま過ぎていく時に わたしの想いを重ねる 天津にて 1992.8.18
侵略戦争期には、銃と軍靴が中国大陸をふみにじった。現代ではカメラとビデオなのか。名目はよくても、実態は取り、映し、聞くというハード紀行になりかねない。相手の気持ちも問わずに乗り込んでフラッシュ。今も昔も円の力を背景に侵りこんでいく日本人のスタイルはかわらないようにも思う。加害者が被害者へと架橋するには作風が必要だ。カメラもまた暴力だと思うこともあった。
※ 以上は、心に刻む会の旅行団に参加したときの記事である。
参考 第7次アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む南京集会友好訪中団『戦後補償へのみち 上海・南京・北京・天津・保定』1992年
(竹内・1992年記、2006年補記)