沖縄の旅・
嘉手納基地包囲と反サミット行動

●那覇へ

 2000年7月19日、先に出発した3人を追って、3人で名古屋から夜の便で那覇にむかった。空港の各所に警官がいた。名古屋のメンバーとも出会い、この日は海勢頭豊の店(パピリオン)で交流を深めた。
 「活動にふりまわされてはならない」という自戒とともに、海勢頭豊は「キセンバル」をうたっていた。
 先に到着していた3人は那覇の教育会館でもたれた平和交流集会の前夜祭に出席。会館で空中給油機反対の署名用紙を配布し、署名をあつめていた。
 平和交流集会をひらいたのは平和市民連絡会という沖縄の平和団体の横断的結集体である。
 前夜祭なので泡盛も出、参加者は元気をえていた。

●嘉手納基地包囲行動(7月20日)
 
 7月20日は嘉手納基地包囲「人間の鎖」の日である。
 11時に市役所前からバスに乗ることになっていた。 7月16日には地元紙に大きな広告が出ていた。
 街の各所に包囲への参加をよびかける立て看板やポスターが貼られていた。
 国際通りの市場でそれぞれ服や楽譜、パーランク(沖縄の小太鼓)や深海水などを買ってから、市役所前で市職労のバスに乗って嘉手納基地に向かった。

 約17.4キロメートルの嘉手納基地を27,100人が包囲した。市民グループは「安保の丘」から嘉手納町役場までの範囲にすわりこみ、集会をひらいたり、横断幕やハンカチで飾りつけたり、スピーチをしたりと盛りあげている。
 「安保の丘」の本部にはスタッフがはりつき、人間の鎖をつなげていくための調整をしていた。その近くにはジュビリー2000(債務帳消しを求める市民運動)のメンバーが、小さな人型のメッセージ表現をならべてアピールしていた。
 私たちは安保の丘から2〜300メートルはなれた場所、関西と名古屋の市民グループの間に幕をかかげ包囲に参加した。
 包囲は3度おこなわれ、3度めにやっと人間の鎖が完成した。鎖が完成すると何度もウェーブがくりかえされ基地撤去への想いが共有されていった。
 人間の鎖をつなぐため列はしだいに移動した。私たちは女性グループのハンカチの幕の下で3度めの包囲に参加していた。
 ゼッケンに「NO!Base」と書きこんでいると外国への通信記者が写真をとっていった。

●平和交流集会(7月20日・嘉手納)
 
 包囲ののち嘉手納町文化センターで平和交流集会が1000人の参加でもたれた。
 まよなかしんやが元気よく“嘉手納包囲を成功させたぞ!”と叫び、ギターをかきならす。
 真喜志トミさんが「基地はいらんかねー」とたらいにオスプレイの模型をのせてパフォーマンス。
 ジュゴンと魚たちを形どった劇や「背高女」たちの寸劇もおこなわれ、新崎盛暉さんがサミットと基地拡大の問題点をまとめてレポート。
 プエルトリコ、韓国などから連帯のアピールがあり、フィリピン、台湾、ハワイ、ドイツなど各地からの発言がつづいた。
 北富士からは体験をふまえつつ「体を張って」たたかおうとアピールがあった。
 プエルトリコのビエケス島での漁民組合の活動者は報告で、基地の島ビエケスで米軍の空爆と上陸演習を実力で阻止してきたことを語り、劣化ウラン弾の使用により健康被害が拡大しておりやむにやまれぬ状況となり、逮捕をおそれず、平和と生存にむけて決起している状況を述べた。
 さらにペンチと金網の一部をバックからとり出してかかげ「これは日本にもある。フェンスを切ることもできる」と語り、「基地の法は米の法であって私たちの法ではない」「暴力をふるいレイプをする。そのような『隣人』はいらない」とした。
 民衆の正義を大胆に語るビスケスの活動報告は不服従と非暴力抵抗による平和と生存にむけてのたたかいであり、参加者に感銘を与えた。
それは嘉手納包囲以後の運動にむけて「まだまだやれていない。これからだ。」というメッセージでもあった。

●NO!サミット
 
 沖縄は「サミット成功キャンペーン」で塗りこめられていた。「平和と安全のためのサミット」、その成功が何よりも大切の雰囲気のなかで、「サミットはおかしい」「サミット反対」の声を地域からあげることができないような状況だった。
 2つの新聞社をはじめ行政・マスコミが一体となってサミットを賞賛し街には日の丸や星条旗などがあふれている。「車の自粛」がよびかけられ、2万余の警官が常駐し、日常的な監視がつよめられる。
 サミットを口実とした〈沖縄占領〉といってもいい状況だ。
 これに対して「サミット110番」を設置して人権侵害をうけつける動きも出てきた。
 このような〈サミット戒厳令〉のなかで、サミットに反対するわけではなく「サミットに平和を発信する」という回路がつくられた。
 嘉手納包囲をこのように位置付ける動きもある。しかし〈サミット容認・基地撤去〉という論理は成立するのだろうか。サミットは日米同盟強化のためにおこなうと日米の支配者はいっている。
 日米同盟の軍事的象徴が沖縄の基地であり、日米ガイドライン(ex AWACS)である。
 「基地とガイドラインにNO!」というのならば、「サミットもNO!」といわなければ基地の撤去ではなくたらいまわしに加担することにもなりかねない。
 「反基地のメッセージ」をサミットの供物にしてはならない。「平和の心の発信」は必要である。
 しかしアメリカを中心とするサミット諸国は資本のグローバリゼーションをすすめ、その矛盾を軍事力でおさえつける国々である。
 「サミット」という談合スタイルにNO!ということなくして「平和の心の発信」はありえないとみるべきだ。
 〈サミット〉とという会議のやり方(今回は800億円もかけ税のムダ使いをした)、サミット=頂上といううぬぼれと支配欲、沖縄での開催による新基地の強制、サミット戒厳令による地域住民への統制と動員。
 これらに対し、異議あり!ということから基地の撤去や民衆の正義が実現していくように思われた。
 クリントンは〈平和の礎〉で「命どう宝」を引用し、基地の重要性を語った。
 沖縄サミットで「平和」も「安全」も「命どう宝」も支配の側は全て食い物にしていった。
 「沖縄の心」を権力者はさん奪しようとしたのである。もてはやされる沖縄の食と文化、「サミット万歳」の1万人のカチャーシーの開催、安室のディナーショー、沖縄の全てがG8のための見せ物にされていった。
 沖縄サミットは精神への強盗会議でもあった。
 沖縄にいて、サミットは経済的には「強盗会議」軍事的には「戦争準備会議」の印象を強くした。

●反サミット連続行動(7月21日〜23日 名護他)

 このようなサミット翼賛のなかで、「G8の身がってを許すな・沖縄の基地固定化をすすめるサミットに反対する実行委員会」の集会が7月21日に名護のさくら公園でもたれた。
 各所で交通規制がおこなわれ、当日那覇から名護へと到着できるか不安だったが、西厚インターから許田インター(高速道路)を通って検問されることなく現地に行くことができた。
 この実行委はまよなかしんや、島田善次、知花昌一、島田正博、西尾正一らを呼びかけ人とし一坪反戦地主会(北部)を含むものであり、現地での唯一の大衆的な反サミットの動きとしてみることができるので私たちはここに合流した。
 反サミット実の集会は7月21日名護、浦添(夜)、7月22日名護、那覇(夜)、7月23日名護、と計5波にわたるものであった。
 NO!AWACSの会の沖縄派遣団は7月21日名護、浦添(6人)、7月22日名護(4人)へと参加。
 反サミットの声がなかなか出せない状況のなか、反サミット実の努力によって、5月15日、6月23日と集会とデモがもたれ、7月21日の名護現地行動となった。
 7月21日の集会ではひとりひとりの発言にこの間、反基地反サミットをかかげて行動してきたことに裏打ちされた力強さがあった。
 サミットは資本のグローバリゼーションを調整する性格をもつようになり、その矛盾を軍事的に抑圧する道具が米の軍事基地であり、日米安保やNATOの新戦略はそのためにシステム化されてきたのである。
 名護でのサミット開催が名護への米軍の新基地建設をねらうものであることはあきらかである。
 名護現地で「NO!サミット」の声をあげる動きが出てくるのも当然のことだ。
 7月21日の集会への参加は約350人。いくつかの党派の動員によるものが多く、市民団体の参加が比較的少ないのが残念であった。
 しかし7月20日の嘉手納包囲に加え、7月21日に名護でNO!サミットの声をあげていった日もまた歴史的な日であったといえる。
 ここがはじまりであり、今後の沖縄での反基地運動にとっても大切な起点となるだろう。
 21日夜には新軍港の建設がねらわれている浦添で反サミット実の国際連帯集会がもられた。参加者は約200人、韓国やフィリピン・台湾などからの発言があり、緊張感のある連帯感にあふれた集会であった。
 ところで韓国の李さんは「ヤンキーゴーホーム」と発言したが「ヤンキー」は差別的な表現であり、使用すべきではない。
 運動の側にも品格が必要であり、米兵じしんの内的覚醒と階級的連帯につながるよびかけがもとめられているのである。
 「ヤンキー」と発語することによって自らを民族排外主義に転化させてはならない。

●名護地域安全協力会によせて

 名護市内に入ると警察官とともに街角にたって周辺を監視する黄色い帽子とジャンパー姿が目に入った。 背中には沖縄サミット・名護地域安全協力会と記され、この人々はバスで各ポイントにおろされる。
 住民がボランティアという名の動員によってサミット警備の尖兵にされている。
 集会会場でも一角を借りきりテントをたてて集会を監視していた。名護での住民投票で基地にNO!の一票を投じた人々もこのなかにくみこまれているだろう。
 まさにサミットは名護での実施を契機に住民内に分断をもちこむものである。この協力会は戦前の自警団あるいは沖縄戦での防衛隊のようのものに思われた。
 このようなヤマトへの忠誠と動員が「集団強制死」を生んだのではないか。
 サミット翼賛が地域での住民動員を生んだこと、その危険性はみておかなければならない。
 動員された人々に話しかけるとにこにこしているけれど、このような動員組織の存在が、サミットに反対する動きをおさえ、さらに新基地建設に反対する動きを抑圧していくことにもなるだろう。

●キャンプシュワーブ前行動

 7月22日、2人が帰浜し、残った4人で新基地建設がねらわれている名護市南岸の辺野古のキャンプシュワーブへと行った。
 辺野古には命を守る会の団結小屋があり、そこで一坪反戦地主の知人と出会った。簡単な説明をうけ、キャンプシュワーブ近くのニ見三叉路での反基地行動に参加した。
 この行動は沖縄現地の女性グループが中心になってとりくんだものであり、同時に普天間基地前でも行動がとりくまれていた。
 約3時間のとりくみに計300人以上が参加した。行動派三叉路の一角を占拠しておこなわれ、色とりどりの旗に囲まれて、フリースピーチに高校生のストリートダンス、歌などがくみこめられてすすんだ。
 最後には名護での4本めの「平和の樹」をたちあげるというものであり、参加者はその後、キャンプシュワーブ前に行き、抗議のハンカチや赤い布をフェンスにしばりつけた。
 フリースピーチでは韓国、スリランカ、ハワイなどや県内外の平和運動者からの発言があった。
 好天のなか、さまざまハンカチーフを枝にした「平和の樹」がたちあげられると参加者からは歓声があがった。
 サミットが強行されるなか屈することなく現地で反基地の抵抗拠点をつくりあげていく作業がすすめられていた。サミットについて強い批判はないが、内心でサミットに抗議し目にみえる形で拠点が形成されている。
 反基地の運動の強まりは米を中心とする「サミット」の軍事同盟にNO!をつきつけていくことにほかならない。
 キャンプシュワーブへとむかうグループのなかからは「われらゆるがず」「We Shall overcome」などの歌声が流れ、呼応してパーランクの音が響いていた。
 サミットに前後して、喜納昌吉らのよびかけで辺野古でニライカナイ祭がもたれた。キャンプシュワーブ前の行動につづき、22日夜、そこに参加した。
 沖縄の基地に反対する女性グループのメンバーもここに参加していた。
 夜のコンサートは喜納昌吉が出てくる前にニライカナイの海にむかっての祈りや、大谷派の僧による1時間余の読経があり、エイサー隊はその間前に出て、シーサーのようにかがんで待たされていた。
 出演したキリスト教の賛美歌団は最後に「南無阿弥陀仏」と書かれた書軸の前に頭をたれた。
 司会の僧は「喜納昌吉先生のオコトバ」と発言。〈和合〉や〈祭〉をテーマに設定されたこのコンサートのよせあつめの雰囲気のなか「オモシロクネー!」の声があがった。
 喜納昌吉の尊師化とチャンプルーズの出番のもりあがりのためのエイサー隊と宗教楽団の前座化には納得がいかず、私たちは宿にかえった。
 このあと喜納昌吉とチャンプルーズが出演し、熱唱したという。
 この日那覇ではG8サミットの晩餐会(首里城)にむけて1000余の反サミット実の抗議デモがもたれた。800億円も費やしたサミットの晩餐会と安室のステージのありようは世界の富の支配と異文化の統合同化、抵抗力の収奪を示すものだ。けれど、NO!の声をうちけすことはできなかった。

●渡嘉敷島へ
 
 7月23日、午前中に名護の宿舎を出発し、NGO共同記者会見への記者の参加を求めるチラシまきに参加する静岡のメンバーをプレスセンター前までおくり、午後、渡嘉敷島へとわたった。高速船が就航し、この島へは約1時間でつく。
 渡嘉敷では民族資料館、米軍上陸地、アリランの碑、集団「自決」碑、白玉の塔、特攻艇壕跡などを見学し海を見、夜には輝く星を見た。亜熱帯の澄んだ夜の星は大きく輝いていた。
 沖縄戦において渡嘉敷へと米軍は沖縄本島の読谷上陸の前の3月27日に上陸した。
 朝鮮人軍夫の連行と処刑、朝鮮人慰安婦の連行、日本軍による住民処刑、135人余の住民の集団死など小さな島に沖縄戦の加害と被害が集中しているのである。
 朝鮮人軍夫の処刑についての証言や、アリランの碑の管理者と出会い、有意義なフィールドワークをおこなうことができた。
 死んだ朝鮮人軍夫の名前は未だわかっていない。
 今回の旅では、この間NO!AWACSの全国集会や新ガイドライン反対の共同行動で知りあった各地の人々と沖縄現地で出会うことができた。全国キャラバンや韓国の平和活動者とも再会することができた。
 AWACS・空中給油機の配備は浜松の「嘉手納基地化」である。NO!AWACSを基軸とした浜松の再派兵拠点化反対への活動はますます大切なものになっている。
 具体的な行動をつみかさね、地域から平和にむけてのとりくみをすすめていくことをめざそう。
 2000年7月20日を嘉手納包囲人間の鎖の日、21日を名護での反サミット行動開始の日として、胸に刻んでおきたい。
 
最後に反サミット歌(反戦のバラ・バージョン)

サミットづらをぶらさげて           G8がやってきた
グローバリズムもちあげて          世界の富の分配だ
強盗会議をつみかさね            戦争行為を追認し
名護にヘリ基地つくりあげ         平和の魂ふみにじる

怒りの声がこだまする            命が宝と叫んでる
沖縄サミットふきとばせ           基地はいらないどこにも
反戦のまっ赤なバラを            きみにささげよう
グローバリズムうちくだけ          NO!NO!サミット