静岡・大杉栄の墓

静岡市沓谷の共同墓地に大杉栄の墓と碑がある。碑文は荒畑寒村のものであり、そこには「軍憲の為に虐殺せられた」とある。大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の3人は1923年9月16日、関東震災の混乱のなか、憲兵甘粕らによって殺害され、憲兵隊内の古井戸に捨てられた。

9月1日の震災以後、労働運動の拠点であった江東区では多数の朝鮮人、中国人、そして日本人社会主義者が権力とその意を受けたものたちによって虐殺されている。23年は、1919年の3・1独立闘争以後、朝鮮人の独立運動が高まり、他方でロシア革命の思想的影響が世界に波及していった時代であった。それは革命と反革命が拮抗する状況を生み、大杉栄は権力の側の階級的憎悪の下で殺害されたといえるだろう。

紆余曲折ののち、遺骨はこの静岡の地に運ばれ、墓がつくられた。碑文は20年前のものである。この墓を広義の意味での戦争史跡としてもよいだろう。

2003年9月16日は虐殺80周年にあたる。当日、全国から200人が集まり、追悼会と追悼集会がもたれた。約100人が大杉の墓前に赤いバラをささげ、追悼した。山口から大杉の娘、野沢笑子さんも参加した。

近くの会館でもたれた追悼集会では近藤千浪さんと辺見庸さんの講演が持たれた。近藤さんは堺利彦の娘の真柄と近藤憲二の娘さんであり、大杉らの追悼活動をずっと続けてきた。   

近藤さんは和田久太郎『獄窓から』などを例に出しながら当時の人々の心やさしき交流を述べた。また、堺利彦が大杉の死を聞いたとき、「私の肉体の一部がやられた」と感じたことなどを紹介した。そして堺の座右の銘「捨て石、埋め草」への思いを語り、名古屋の橘宗一の墓碑(「犬共二虐殺サル」とある)の保存について言及した。

辺見さんは虐殺80年後の現状について分析し、風景の実質が変化し、これまでの自明性が喪失させられ、決別したと考えていた過去の価値意識が今もあることを示した。国家とマスメディアと民衆が愚劣なほどの諧調関係にあり、そのなかで社会のファシズム化がすすみ、強権ではなく社会の階層の厚い同意によってそれが支えられる状況にあるとした。

大杉が持っていたような「心の視力」をわれわれは失っているのでは、とかれの著作を例に話し、「戦後民主主義」のそこの薄さをも、かれは洞察していたともいえるのでは、とした。そして有事法成立という敗北状況の中で、下から調和的に進行する動員と統制の時代の到来と運動の側の武装解除状況を示した。

辺見さんはこのような思想文化のグラウンドゼロの状況の中で、個人に依拠しながら、「心の視力の射程を伸ばす」こと、言葉を「浅く」ではなく、自己の実存に「深く」するかたちでとらえ、自己の身体を担保として行動していくことをよびかけた。





大杉虐殺、朝鮮人虐殺から80年、今社会は朝鮮人排外キャンペーンにあふれている。そのような状況であるからこそ、生の拡充を起点に、社会変革を語り行動し続けた大杉をはじめ多くの先人たちの歴史に学び、行動することの大切さを感じた一日だった。(竹)