空知への旅

 

03年の夏、空知の石狩炭田跡地を訪れる機会があった。

「北海道開拓」の歴史はアイヌモシリ略奪の歴史であり、アイヌ・受刑者の酷使、監獄部屋による奴隷的労働、そして北方民族の戦争動員、戦時下の朝鮮人中国人の強制連行・強制労働の歴史をともなっている。

この近代の産業化の歴史は環境破壊による野生種の減少をもたらした。また、最近の産業再編のなかで、近代化をもたらした産業史跡はつぎつぎとその姿を消されている。

ここでは空知の石狩炭田の史跡についてみていく。

空知への連行者数

空知の石狩炭田には、北海道炭鉱汽船の夕張・平和・空知・赤間・幌内・万字・新幌内、三井の砂川・美唄・芦別、三菱の美唄・大夕張・雄別茂尻、住友赤平・歌志内・奔別、昭電豊里などの大きな炭鉱があった。戦時下の大増産体制の中でここに連行された朝鮮人は8万人をこえると見られる。連行されて亡くなった人々については不明のことがらが多い。

この北海道石狩炭田は強制連行・強制労働が、筑豊とともに大規模に行われたところである。石狩炭田への朝鮮人連行者数を、45年5月の現在数を2倍にして推定してみると、北炭夕張・平和に約2万、幌内・万字に約6千、空知・赤間に約7千、三井砂川約4千、芦別4千、三井美唄約3千5百,三菱美唄約5千、大夕張約4千、住友赤平・歌志内約6千人、奔別約2千人、ほかとなる。連行された後逃亡や帰国で約半数は減っていった例が多いから、この推定数に大きなまちがいはないと思う。

九州と北海道の炭鉱への朝鮮人連行者は約25万人とみられ、この数字は連行者総数の25から30パーセントにあたる。この実態を明らかにすることは真相究明の課題のひとつであるだろう。

死亡者数と追悼碑の状況

旅の前後に戦時下の朝鮮人死亡者名簿を作ってみたのだが、現在資料などでわかっているものを集めても、北海道の炭鉱関連で1000人超えた。炭鉱関連での死者はこの倍以上ではないかとみられる。

今回、歩いた主なところは、朝鮮人労働を示す史跡としては、三菱美唄の竪坑跡、三井美唄の朝鮮人寮跡、住友歌志内の朝鮮人追悼碑・「慰安所」跡、赤平の黎明の像,北炭赤間のボタ山、幌内鉱跡、幾春別錦坑跡、住友奔別鉱跡と碑、夕張鉱跡、夕張末広墓地などであった。

中国人の追悼碑は石狩炭田を見れば、芦別・三笠・夕張真谷地・角田にあった。芦別の碑は市が建てたもので、連行についての説明版があった。三笠の碑には「歴史は君たちの足跡を語る」と刻まれていた。中国人については、石狩炭田のほかをみると、小樽、室蘭、東川等に追悼碑がある。置戸には中国人朝鮮人を追悼する碑と碑文がある。

赤平の追悼の像は市が建てたものであり、外国人の連行者を含めて追悼する旨が刻まれている。

歌志内の碑は上歌志内鉱の元労務が朝鮮人22人分の死亡者名を刻んで追悼したものである。石狩炭田に朝鮮人の氏名が刻まれたものはこの碑ひとつしかない。

赤平市史には朝鮮人を含めての殉職者の氏名の一覧が収められている。ただしここには病死者の氏名はない。空知在住の杉山四郎氏の「語り継ぐ民衆史」「続語り継ぐ民衆史」には現地調査を踏まえて赤平・歌志内・芦別での死亡者の氏名が明らかにされている。

産業報国会の殉職者名簿、北炭の「過去帳」の一部、美唄については埋火葬の死亡者届から死者を明らかにすることができるが、おおくの死者の氏名は埋もれたままである。

これが植民地支配下での戦時労働奴隷制の60年後の姿である。このような状態は、昨今の政治家の植民地支配や創氏改名肯定発言の土台をつくっているともいえるだろう。

連行の前史をみておけば、北炭・三菱ともに1916年ころから朝鮮人炭鉱で使うようになり、事故による死亡者も出た。争議に参加する朝鮮人も登場する。夕張の末広墓地の朝鮮人墓,万字の朝鮮人墓、三菱美唄の献納額にある朝鮮人名などはこのころの就労を示す史跡である。

「歴史は君たちの足跡を語る」

三笠の博物館や夕張の石炭資料館には強制連行があったことが記されている。北海道庁のもとで出された「北海道開拓殉難者調査報告書」「北海道と朝鮮人労働者」から連行先や連行状況を知ることはできるが、個別の状況については不明な点が多い。石狩炭田を対象としながら,ひとつひとつの鉱の状態をみていく必要があるように思った。

炭鉱史跡を産業遺産として活用していこうとする動きがある。近代の史跡の破壊をとめることは意義あることである。この保存の中で、隠蔽されたままの労働者たちも復権されていくことを願う。連行朝鮮人のみならず,アイヌ,受刑者の労働があり,1912年の夕張や14年の若鍋坑の事故記事を見れば、「水没密閉・遺体搬出はなし」の記事が続く。ここにあげた事故だけでも死者は1000人を超えるとみられる。1944年5月の三菱美唄のガス爆発事故では朝鮮人70人以上が命を失っている。

「歴史は君たちの足跡を語る」と三笠の中国人追悼碑(1966年)の碑文にあったが、その足跡を語る作業はまだ終わってはいないと感じた石狩炭田の調査だった。(竹)