長崎の旅  高島・端島の炭鉱と戦争責任

 02年12月と03年1月、長崎を訪れ、高島炭鉱の跡をあるく機会があった。近代の長崎は三菱の城下町として戦争とともに成長してきた。三菱の長崎での2つの柱、それは長崎造船と高島の鉱業(石炭)であった。

 高島は長崎港から約14・5キロ先、端島はその先約5キロにある。圧制の島として知られている。近代に入っての高島炭鉱の経営はグラバー商会と佐賀藩の経営から始まる。高島炭鉱はその後、三菱の経営となり、端島の炭鉱も三菱の支坑となっていく。高島炭鉱は三菱を代表する海底炭鉱となっていった。長崎の鉱業と造船とグラバーの関係は深い。グラバーがその経営を破綻させた後も、グラバーは三菱高島で仕事をしていく。労働者争議の際、グラバーは「赤鬼」とよばれたという。

 長崎造船も三菱に払い下げられて戦争とともにその経営を拡大した。ここでは「武蔵」をはじめ多数の軍艦が生産された。

 長崎の町には三菱造船関連の労働者が数多く居住するようになり、市長は三菱関係者から出るようになった。戦争が拡大される中で、航空機と造船を生産の中心とする三菱重工が設立された。長崎には造船に加え、製鋼・兵器(魚雷などを生産)などの三菱の工場が建設され、疎開用の地下工場まで建設されていった。長崎へと投下された原子爆弾の下には三菱の工場があった。三菱兵器、製鋼、造船には強制連行者を含め多数の朝鮮人労働者が働いていた。彼らもまた被爆した。造船工場に連行されていた朝鮮人は厚生省勤労局史料によれば5000人を超える。

 原爆投下の理由は三菱の軍需生産システムへの攻撃であったことは否定できない事実だ。三菱が軍産複合体として国家と密接な関係を持ち規模を拡大してきたこと、そこで作られた兵器が多くのアジアの人々を殺してきたこと、連行朝鮮人の被爆、そのことをふまえてアメリカの核使用という戦争犯罪は追及されねばならない。

 石炭はこの生産を支える原料であり、戦時下大増産体制がとられた。高島・端島には朝鮮人約4000人(推定)、中国人約400人が連行されている。

 長崎のグラバー邸は観光地となっている。ここから三菱造船工場が見渡せる。1月20日には軍艦3隻が修理のために停船していた。そこにはイージス艦があった。三菱長崎造船はイージス艦の製造工場である。この問題については全国一般長崎連帯支部長崎造船労組の冊子(平和都市長崎における三菱の兵器生産)に細かく紹介されている。グラバー邸を降りると、三菱の事務所跡の碑がある。この一帯が三菱の拠点であったことがわかる。

 長崎港から高島までは約30分である。高島炭鉱は1986年まで採掘をしていた。ちょうど国鉄が民営化されるころに閉山となっている。その後、炭鉱施設の多くが破壊され、その痕跡を示すものは少ない。

 三菱高島については、長崎在日朝鮮人の人権を守る会や林えいだい氏の調査で連行についての史料がまとめられている。昨年厚生省勤労局史料長崎県分を調査したところ、高島炭鉱分1227人の名簿にいきあたった。今回の旅はその資料を踏まえての現地調査である。

 高島港近くに、石炭資料館がある。町の施設であるが無人管理であったため、役場に行って、書棚をあけてもらった。そこには戦後の高島炭鉱労組の組合機関紙や組合旗があった。戦時期に開坑していた高島炭鉱の坑口跡が浴場の裏手に残っていた。労働者住宅を監視するように派出所や勤労課の詰め所がおかれていた。慰安所が置かれていた尾浜には当時の面影を残す「西田家」の建物があった。本町には朝鮮人のみの「慰安所」もあったという。

 高島炭鉱では1917年から朝鮮人坑夫が「募集」されて働き始めた。朝鮮人を支配した頭が安藤兼造であったが、彼を讃えた碑が百万の労働者社宅の近くの丘にある。碑の前面は剥離しているが、後面には募集の経過を示す文がある。この碑は連行前史を示すものである。

 戦時下連行された中国人は蠣瀬坑ちかくの山手に収容された。朝鮮人は百万や二子ほか各地に収容された。連行前から居住していた朝鮮人たちも多かったようだ。鉱山開発にも朝鮮人労働者が働いたとみられる。

 三菱経営になって1945年の敗戦までに高島で労災や病気で死んだ労働者の数は1千人を超える。たとえば蠣瀬坑での1906年の事故では307人が命を失っている。死者を追悼する無縁墓や碑が残っている。閉山後に三菱が高島神社に建てた碑には朝鮮人連行を美化する表現があったが、市民団体が批判すると、三菱は碑文を取ってしまった。現在も碑文は無いままだ。墓地近くにある千人塚の供養塔の下には納骨庫があったが、閉山後、破壊された。朝鮮人無縁骨の行方は今も不明のままである。権現山の蛇谷の入り口には刻銘のない地蔵がある。この地蔵は閉山後元労務が悪夢にうなされたため,ここに置いたものという。

 閉山にともない、三菱は勤労課関係の書類を蠣瀬坑のなかに捨ててしまったという。労働者の歴史は地底の闇の中に隠されたままである。二子坑の跡地はグラウンドとされ、鉱業地の面影は無い。二子坑の坑口が残っているだけだ。平らにされた大地の各所に黒い石炭塊が光っている。その上を海鳴りと風が交差する。その音は埋められた炭鉱の歴史の復権を呼びかけるかのように思われた。

 端島は2002年に三菱から高島町に移管された。この島は軍艦島として知られる。一〇メートルあまりの岸壁と荒波。この炭鉱からの逃亡は困難だった。逃亡して溺死した朝鮮人とみられる死体が対岸の野母崎に漂着している。埋葬地の南古里には小さな碑がある。訪ねてみると、そこにはいま韓国で流行している「百歳酒」が捧げてあった。この浜辺から端島が見える。冬の海は荒れる。小さな船は波に揺られ、ときに視界から消える。

 朝鮮人が連行された棟はこの島の北端にあった。今もその一棟(66号棟)が残っている。この棟には地下室があり、連行者をリンチして押し込んだところとみられる。この棟の前でリンチがおこなわれ、一角には、派出所もあったという。中国人が連行された南西部の一角の建物は崩壊している。ところによっては赤いレンガ・黒い石炭塊・灰色のコンクリート・崩れた木材が地面を覆っている。この端島で戦時下死亡した人々の氏名の多くが端島に残されていた火葬関係の行政史料からわかる。しかし労働実態については不明の点が多い。

 1916年建設のアパートをはじめ、10数棟の建物が現存しているが崩壊寸前のものもある。桟橋入り口の門は地獄門といわれた。門からなかに入るとすぐ前にトーチカのような監視用の窓がある。2坑と4坑の間には運搬用のコンクリートの柱が墓標のようにのこっている。端島に墓は無い。遺体はこの島の近くの中ノ島で焼かれた。遺棄された骨も多い。

 周囲1キロのこの島は「飛行機を、軍艦を、そのために石炭を」と強制労働をおこなった三菱の戦時下の圧制を示す戦争史跡でもある。そして、高島炭鉱跡は不明の遺骨、史実の隠蔽、記録の拒否にみられるように、未完の戦争責任を象徴する現場である。

 この廃墟を後景にし、戦争加担への反省のない三菱の長崎造船でつくられたイージス艦「きりしま」は、今インド洋に派兵されている。さらに4月には佐世保のイージス艦「こんごう」が派遣されようとしている。人間の方向性と共同性のために、三菱の過去といまは問われつづけられる。それは平和の思想の根幹に関わる事柄であるように思われた。(竹)