筑豊の旅  

無窮花堂歴史回廊の完成によせて 

福岡県飯塚市霊園内の国際交流広場に朝鮮人強制連行犠牲者追悼堂(無窮花堂)がある。2002年11月23日、その追悼堂周辺につくられた歴史回廊の落慶式がおこなわれ、200人あまりの市民が参加した。

 筑豊の炭鉱地帯には侵略戦争期に約15万人の朝鮮人が連行され、過酷な労働を強いられた。その死亡者は数千人といわれる。放置されたままの遺骨も多かった。これらの散在する遺骨を収集し追悼するために、在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立実行委員会によって、この追悼堂(無窮花堂)がたてられた。堂の完成は2000年11月のことである。現在71体の遺骨があつめられている。2001年には三菱鯰田炭鉱に連行され死亡した文さんの連絡先が判明し、韓国益山市から遺族が来訪した。堂の完成後、歴史を刻む回廊がつくられてきたが、この11月に完成した。

午前の落慶式では追悼の黙祷ののち、実行委の代表ぺ来善さんが回廊の完成を祝い、式には東京・大阪・静岡・鹿児島ほか全国各地から参加があること、歴史歪曲の動きを止め、この堂と回廊が文化と友好の拠点となっていくことを望むことを述べた。歓迎の挨拶が、飯塚市長、韓国総領事、益山市代表などからなされた。実行委の芝竹夫さんは歴史認識を共有することと、日朝韓の友好と南北統一への想いを語った。献花や植樹もおこなわれた。堂の前ではチョゴリ姿の2人の女性がアリランを歌う場面もあった。

歴史回廊は年表や無窮花の展示から始まり、強制労働や益山市との交流、友好親善でおわる。この表示では、麻生の朝鮮人争議の記事は、時期からいって、皇国臣民の誓詞の前に示したほうがよいと思った。

午後には祝賀会がもたれ、その席でぺさんは自身の貝島大辻炭鉱への連行と逃亡について語り、飯塚市会副議長は三菱鯰田の連行当時の状況を語った。祝賀会では、南北の分断と民族を超え、歴史を共有し友好と連帯に向かっていこうとする志が分かち合われた。在日の朝鮮歌舞団は、イムジン河、故郷の春、明日があるさ、アリランなどを歌った。「明日があるさ」にある、明日があるさ、いつか分かり合える という詩は、南北統一と日朝友好にむけてのメッセージでもあった。

無窮花堂についてはネットで検索すればHPで経過を知ることができる。

前日に三井田川炭鉱と三菱鯰田炭鉱の跡を歩いた。

三井田川の跡地には石炭資料館があり、近くの丘には韓国人や中国人犠牲者の追悼碑がある。朝鮮人慰安婦が連行されていた地域の建物のいくつかはその跡をとどめている。朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が連行され収容されていた場所も特定されている。戦時期、この一帯は石炭増産に向けての一大労働力収容所となっていたのである。  

市立田川図書館には石炭関係資料が収納されている。そこで「日本鉱業新聞」の1939年から43年分をみることができた。この新聞には移入という名でおこなわれた鉱業への連行についての記載も散見された。

 筑豊に行く前に、韓国の独立記念館の図録をみていると、三菱飯塚へと1942年に連行され1944年に死亡した「吉原時白」さんの記事があった。3月にガス爆発で死亡し、死体の収容は困難と記されていた。

戦時下、鯰田坑は飯塚鉱の支山となっていた。鯰田での死者の数は連行名簿から3坑を中心としたものがわかっている。しかし、飯塚炭鉱の死者名については不明のものがおおい。三菱鯰田の跡地には碑があるが、そこには連行については記されていない。三菱によって連行されたひとびとの状況や死者についての多くが不明のままである。乱掘とそれに伴う事故のために今も筑豊の地の底に眠る遺体は数おおいといえるだろう。

筑豊の炭鉱史跡は産業遺跡であるとともに、戦時下の強制労働を示す戦争遺跡であるものがおおい。

筑豊にできた追悼堂と歴史回廊が、平和と友好の拠点となることをねがう。

                                 (竹)