長崎の旅1994 三菱兵器地下工場など 

 199411月末、長崎を訪れた。長崎滞在中に見た二つの記事が印象に残っている。それは被爆者援護法制定に関する長崎公聴会での被爆者の反論と軍隊慰安婦などアジアの戦争被害者への戦後補償をもとめる意見広告の掲載である。ともに国家の戦争責任を問い、被害者個人への補償をもとめる内容であった。二年前の長崎への旅では、日本へのプルトニウム輸送の記事が長崎へと投下されたプルトニウム型原爆のイメージと重なり印象に残ったが、今回は戦争責任がひとつの話題となっていた。

 長崎の爆心地付近にある「平和の母子像」(金城実作)などを訪れ、その後そこから約2キロ先にある三菱兵器地下工場跡の見学にむかった。この工場跡は被爆当時の姿を残す遺跡であり、軍需生産拠点としての長崎を考えるうえで重要なものである。またこの地下工場は朝鮮人の強制連行・強制労働によって掘削されたものであり、戦争加害を示す遺跡でもある。

 アジア太平洋戦争末期、三菱兵器の疎開のための地下工場建設がはじまり、住吉・赤迫地区に六本のトンネルが掘削された。そこで魚雷の生産が計画された。当時、長崎は三菱造船・三菱兵器・三菱製鋼・三菱電機など、三菱の軍需生産の拠点であり、朝鮮人を含め動員された人々が各所で働かされていた。

 三菱兵器地下工場の掘削は西松組が請け負い、その下に多くの組が集められ、強制連行された朝鮮人が労働力として使われた。現場周辺に飯場が建てられ、被爆時には約800人の朝鮮人が就労していたという。

 地下工場用トンネルは約10メートル間隔で6本掘削され、長さは約300メートル、幅は約5メートルであり、コンクリート製の頑丈なつくりである。

 韓国在住の石任順さんはつぎのように語る。
「未婚の女性は日本へ強制連行されるからと早く結婚させられた。夫と甘言で誘われ、長崎にきて飯場の炊事係になった。授乳中に日本人監督に胸を鉄棒でさされた。同じときにきた「岩本」さんは肋膜炎を患って吐血し、帰国させられたが死亡した。トンネル建設は汽車の窓から見えないように大きなテントを張って目かくしをした。飯場の食事は日毎乏しくなり主食は麦、あとは大豆粕ばかりだったが、上の人は毎日お米や牛肉などを食べていた。被爆後に帰国したが、夫は病気ばかりして苦しみ、1972年に死亡した。長崎で1年9ケ月働いたが帰るときもらったのは20円だった」(長崎在日朝鮮人の人権を守る会編『原爆と朝鮮人6』から要約)。

 1945年8月9日、爆心から約2キロのこのトンネルを熱線と爆風と放射線がおそった。上半身裸で働いていた人々は体を焼かれ、トンネルの山の上にあった飯場は直撃を受けた。被爆後、このトンネルは被爆者の避難所として使われた。トンネル内で息絶えた人々も多かったという。

 長崎市で被爆した朝鮮人の数は約3万人といわれている。生き残った人々は後遺症に苦しんだ。傷つき帰国した。人々への治療・補償は不十分なままであり、日本に残り被爆者健康手帳の交付を申請したが「証人不備」の理由で交付されなかった朝鮮人被爆者のケースもある。戦後補償運動のたかまりのなかで、金順吉さんは三菱へ徴用され被爆した体験から国と三菱に対し補償をもとめ裁判をおこした。

 1990年にこの地下工場跡を梁ヨンチュルさんが訪れた。かれは連行されここで働いた体験者である。梁さんは当時を回想し、亡くなった仲間の名を記した紙を涙とともにトンネル内で燃やしつづけたという。

 三菱兵器地下工場跡にはたくさんの歴史が刻みこまれ、現在もトンネルはその歴史を語りつづけている。コンクリート製のトンネルは今も残り、車庫・物置などに転用されている。この遺構の保存を求める市民運動もはじまっている。

 この地下工場跡を訪ねたのち、長崎教育文化会館と書店で資料をあつめた。教育文化会館には丸木夫妻の「原爆の図」が展示されていた。そこから近くの二六聖人記念館を訪れ、その後、三菱長崎造船所近くに行くと、沖合いに停船していたイージス艦が目に入った。

 二六聖人記念館は1597年に長崎西坂で処刑されたキリスト者を記念して建てられたものである。入口に、人間は旅人であり、旅は人間を精神的に豊かにする、人間は永遠性の憧れをもつ巡礼者である、すべての旅のうち神への心の旅が最もすぐれたものである、という内容の詩が記されていた。この詩は長崎を訪れる者たちへのメッセージなのである。

 人間を精神的に豊かにしていく心の旅は、飾られてきらめき消費の欲望をあおるリゾート用の「ランド」にあるのではなく、ひなびた風景のなかから真実を読みとり表現していくところにあるのではないかと思う。

 ある被爆者は平和講話のなかで「平和の原点は人間の傷の痛みのわかる心」であり、「生きている間は平和の語り部としてがんばりたい」と語っている。しかし、長崎の港には海自の最新ハイテク護衛艦であるイージス(神の盾)艦「きりしま」が浮かんでいた。この艦はかつて戦艦武蔵をつくった長崎造船所で建造されている。このような風景は、核による殺戮にあい「生きるも地獄」といわれた被爆体験を思想化しながら体験を語り継ぎはじめた、被爆者たちの想いを踏みにじるかのようである。

 長崎が発する平和へのメッセージを、平和公園の数々の像、強制連行による地下工場跡、被爆体験の思想化の作業、イージス艦にみられる軍拡の現状などから考えていくことができるように思う。

消費することをプログラムされた観光施設で時間を費すだけでなく、歴史・文化・平和について考え、社会と人間について学んでいくことのできる精神的な旅がいい。

 旅のなか、通りすぎていくときに見落としているものが多くあるものである。旅は目的地への到着だけではなく、その過程が大切という。旅は終ったあとも人間のイメージを豊かにしていくものである。

人間は人間性の回復をもとめ、人間の方向性について問いを発しつづけてきた。物質的で機械的といわれる社会なかで、人間的な心をどのようにつなぎとめていくのか、これは現代の課題のひとつである。人間は非人間的な状況のなかで方向感覚を失う。しかし、そのなかでも人間であろうとし、自己の尊厳をかけて、体験を思想化していく。

 そこには生の意味を問い、みずからが生きていくことに対して確信をえようとする人間の情熱がある。この営みのなかから、人間を人間でなくすものへの抵抗が生まれる。文化とはこの人間の営みを核心とするものなのである。

 被爆者たちは生の意味を問い、死者との関係をつきつめるなかで自分の生が他人の死によってあがなわれているということを考え、語りをつづけている。それらの語りは「戦後五〇年」の地平から明日を担うためのものでもあると思う。 

 長崎空港からの飛行機はB767型機であった。このB767は最近、浜松基地へ配備されるということで話題となったAWACS(早期警戒管制機)の機体と同型である。AWACSはB767の上にレーダーを装備し機内にコンピューターを配置して、警戒・指揮をおこなうハイテク機であり、長崎でみたイージス艦と共に現代のハイテク戦争と軍拡を象徴する兵器である。浜松は派兵の拠点になろうとしているのである。