シンガポールの旅 

  これからシンガポールに行こうとする人たちへ
         (この記事は若い世代に向けて書いたものです)

はじめに

1シンガポールは今

2チャンギ

3マーライオン・エリザベスウォーク

4ラッフルズホテル・戦争記念公園

5歴史博物館とその周辺

6シンガポール植物園

7スルタンモスク

8チャイナタウン

9セントーサ島

10ナイトサファリ

11マレーシア・ジョホールバル

おわりに

はじめに

旅によって人は異質な空間に入っていくことができます。そこで人はさまざまなものに出会います。その体験が自らの魂の回復につながるものです。旅する側の人間の方向性も問われます。

一九九九年にシンガポール・マレーシアに行きました。ここでは、シンガポールを中心に、旅でみたこと、考えたことを紹介していきます。私の関心が歴史にあり、とくに戦争史跡をテーマにして旅をしたため、その方面での記述が多くなります。この視点はアジアの平和と友好のために重要な視点であると考えています。

 

1 シンガポールは今

シンガポールは赤道直下の熱帯の島です。そこはアジアの十字路として一九世紀以来、交易で栄えてきました。日中の平均気温は三〇度C、スコールで多少服がぬれても、いつの間にか乾いています。 

現在のシンガポール社会はリークアンユーを中心とする人民行動党政権のもとでつくられてきました。この政権は経済開発、海外投資の誘致、能力主義教育、民衆生活と思想の統制、厳罰主義などによって資源のない二八〇万人の小国、シンガポールをコントロールしてきました。

シンガポール市内の道路は一方通行が多くなっています。車はとても高価な商品です。公共料金は安く、バスや地下鉄での移動は安価です。タクシーに乗っても、空港から市内まで約一二ドル、市内からマレーシア・ジョホールバルまで約二〇ドルほどです(鉄道に乗れば二ドル)。

一九九九年現在の日本円とシンガポールドルの交換レートを見てみると、日本の一万円でシンガポールドル一三八ドルに換えることができます。一ドルが七三円ほどです。シンガポールは今も建設ラッシュ、各地に建設中のビルがあります。

地価は非常に高く、一軒を所有することは困難です。多くの人々が公営のマンション・アパートに住んでいます。一カ月の賃金は約一千ドル、共稼ぎの家庭が多く、外食も多いようです。一家で食べて一回十ドルほどですみます。メイドを雇う家庭も多く、メイドはフィリピンからの労働者が多いといいます。

外国人労働者も多く、なかには公園に泊まり、トラックの荷台で現場まで運ばれ一日十ドル程度の低賃金で労働する人たちもいるようです。ビルの工事現場には五ヶ国語で外国人労働者が許可なく働くことがないように警告が記されていました。

シンガポールは管理社会であり、さまざまな面で監視しています。ツバ吐きやタバコなどへの罰金制度があり、住民の相互監視もすすめられています。本音はなかなか見えてこないようですが、友好と研修の視点をもって現地の人と積極的に話をしてみることが大切です。

2 チャンギ

シンガポールの東方、海岸近くにチャンギ空港があります。シンガポール航空の飛行機に乗って六時間、降りるところがこの空港です。チャンギには刑務所があります。

戦時中には連合軍捕虜が刑務所の近くに収容されました。戦後は日本兵が収容され、BC級戦犯の裁判によって朝鮮人・台湾人を含め一三〇人ほどが処刑されています。

刑務所の入り口の左側にチャンギ博物館があります。そこには連合軍捕虜収容所時代の遺品や写真・手紙などが展示され、チャペルも復元されています。チャンギの収容所から日本軍が建設していたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の現場へと、多くの捕虜が連行されて亡くなっています。この鉄道建設では連行されたアジア人労働者も生命を奪われています。

チャンギ空港の北方にはチャンギビーチがあり、一九九五年に華人虐殺記念碑が建てられています。一九四二年二月、日本軍はシンガポールを占領しました。その時「抗日分子」を選別するための「検証」をシンガポール各地で行っています。チャイナタウンなどで選別された人々の一部はこのチャンギビーチで殺されました。戦後、チャンギビーチで遺骨の一部が発掘されています。

シンガポールの北西、クランジには連合軍の共同墓地があります。そこには約二万四千人の名前が記された碑とモニュメント、墓石があります。イギリス人だけではなく、マレー人、インド人、中国人の墓もあります。墓石をみていくと、例えばパパヤというインド人兵士は一六歳で亡くなっていることがわかります。「アンノウン」と刻まれた無名兵士の墓もたくさんあります。

 

3 マーライオン・エリザベスウォーク

シンガポール市内の中心部はシティとよばれ、シンガポール川の先端にマーライオン公園があります。対岸にはエリザベスウォークという散歩道があります。

シンガポールとは「獅子の都」の意味といいます。一九七二年につくられた公園のマーライオン像は伝説に従って、上が獅子、下は魚の形をしています。リバークルージングで舟に乗ると、このマーライオン像の正面にきます。マーライオンは感銘を与えるほどの像ではありません。それをみて一喜一憂するのではなく、歴史と文化を見つめてほしいと思います。

シンガポール川の河口一帯はかつて貿易の中心でした。現在、川はどんよりと濁っていますが、これでもきれいになった方といいます。一九七七年に商船は移動させられ、川の周辺はボートキーとして整備され、観光スポットになりました。金融街の近くでもあり、ビジネスマンもここでひといきというところです。クルージングの舟もここから出ています。舟の中では日本語のガイドテープが流れます。

マーライオン公園の西にはフルトンビルがあり、今は郵便局ですが、日本軍占領期には軍政監部がおかれていました。

公園からエリザベスウォークを歩いていくと周りに獅子を配置した緑色の屋根の塔があります。これは林謀盛の碑です。かれは抗日運動のリーダーとしてシンガポール人にとって有名な人です。

林謀盛は一九〇七年に中国福建省で生まれ、シンガポールへと二五年に移住しました。ラッフルズ学院を卒業後、香港大学へと入り、再びシンガポールに戻り、実業家となりました。かれはシンガポール中華総会の理事になるほどの人望をえました。

シンガポールの華人は日中戦争が始まると抗日運動をすすめ、中国を支援しました。シンガポールの攻防戦では華僑義勇軍をつくり抵抗しました。シンガポール占領後はマレー半島のジャングルでマラヤ人民抗日軍や一三六部隊に参加してゲリラ戦を担いました。

林謀盛は抗日部隊である一三六部隊に入り活動をすすめました。しかし一九四四年にマレーシアのイポー近くで逮捕され、パトゥガジャ刑務所に拘禁され、六月二九日に獄死しました。

このようなかれの活動を記念してこの碑は建てられています。かれの墓はマクリッチ貯水池畔にあります。シンガポールでは最近『一三六部隊』や『平和の代価』といった本が出版され抵抗運動の研究もすすめられています。一九九九年の八月には『居安思危』という証言や写真を収めた本が出版されています。

林謀盛の碑の近くにはインド国民軍の碑があり、この碑は本の形をしています。このような形の碑がシンガポール各地に建てられていったのは一九九五年、戦後五〇年のことでした。シンガポール政府が戦争体験を次世代に語り継ぎ、平和にむけての活動をすすめていこうとする意思を示してのことです。インド国民軍は日本軍の指示によって編成され、日本軍と行動を共にしましたが、戦争末期には日本軍に対抗し、独立運動をすすめていきます。

インド兵士はイギリス統治下では最前線で日本軍と戦わされ、日本統治下では日本軍側で連合軍と戦わされたのです。日本軍占領下での日本による華人への弾圧とインド人・マレー人の利用は戦後、華人とインド人・マレー人との対立の原因になりました。

インド国民軍の碑の近くには、第一次大戦・第二次大戦の追悼碑があります。階段には年が刻まれています。

エリザベスウォークから道を隔てたところに市庁舎と最高裁の建物がみえます。一九三九年に建築された市庁舎はセントアンドリュース路に面して建ち、シンガポール西洋建築を代表するものとされています。日本が連合軍に降伏の調印をしたところとしても有名です。

 

4 ラッフルズホテル・戦争記念公園

市庁舎から国会議事堂を通り、南に行くと、一九〇五年に建てられたヴィクトリア記念ホールがあり、そのホテルの前にスタンフォードラッフルズ像があります。

ラッフルズは一八一九年に、当時はジョホール王国下にあったシンガポールに上陸しました。かれはシンガポールをイギリスのアジア支配の拠点へとつくりかえていきました。その時、ラッフルズはイギリス東インド会社の副総督でした。イギリスは一八二六年に、ペナン・マラッカ・シンガポールを統合して海峡植民地をつくり、シンガポールに総督府をおきました。

日本軍がシンガポールを占領すると、このラッフルズ像を博物館の中に入れてしまいましたが、戦後復元されています。このラッフルズの名をとったホテルがラッフルズホテルであり、開業は一八八七年という歴史のあるホテルです。ラッフルズアーケードの三階にはラッフルズホテル博物館があります。

ラッフルズホテルの南側には戦争記念公園があり、高さ六四メートルの白い塔が建っています。これが「日本占領時期死難人民記念碑」です。この塔は日本軍による華人虐殺の追悼碑であり、「血債の塔」ともいわれています。塔の下にはシンガポール各地で掘り出された遺骨が埋められています。碑文は中国語・英語・マレーシア語・タミール語の四語で書かれています。

一九六〇年代はじめ、シンガポールでの開発にともない各地で遺骨が掘り出されました。人々は日本に対し「血債」をもとめて集会を開きました。このような活動の末、一九六七年にこの碑が建てられたのです。建設費用の半分はシンガポール政府が拠出し、残りの半分は市民のカンパに拠ります。この塔は「戦争は罪悪、平和は神聖」「侵略と帝国主義・植民地主義に対する」「シンガポールを守ろう」という考えのもとに建てられたのです。

この公園から三百メートルほど歩くと、セント・ジョセフ教会があります。この教会は日本軍の検問所となったところです。この教会からヴィクトリア街をブギス方面にいくとブギスヴィレッジがあります。現在は開発されて空き地となっていますが、戦前には「日本人街」があったところです。

シティから五キロほどいくと、アパヨ駅の近くに孫文を記念する「晩晴園」があります。この建物は中国革命同盟会のシンガポール支部(東南アジア本部)として使われ、清に対抗する革命拠点とされたところです。

ここは日本軍占領期には通信基地とされましたが、戦後修復され、一九五一年まで中国国民党のシンガポール支部とされました。この園には華人虐殺事件の遺品が展示されています。その一部は日本へと貸し出され、たとえば長崎の岡まさはる記念平和資料館でみることができます。

一九九九年八月、ブキパンジャンで游鏡泉さん(八三歳)の証言を聞きました。かれは一九四二年二月一四日、日本軍に他の住民と共にとらえられ、翌日、首をきられて処刑されましたが、一命をとりとめた人です。

かれの首には刀で切られた大きな傷跡が一本残されていました。日本軍による住民虐殺という戦争犯罪は人々の体に消し去ることのできない傷として残され、その記憶は継承されています。

 

5 歴史博物館とその周辺

フォートカンニング公園の北東にシンガポール歴史博物館があります。この建物は一八八七年に建てられ、かつてはラッフルズ博物館と呼ばれ、日本軍占領下では「昭南博物館」とされたところです。

この博物館では日本語ガイドや日本語解説テープによる説明を受けることができます。一階にはシンガポールの歴史を示すジオラマがあります。展示テーマをあげると、シンガポールの植民地時代、インド人受刑者による都市建設、中国人移民、日本軍の侵略、華人虐殺、シンガポール独立などがあります。

またウィリアムファーカーの依頼で書かれた動植物の絵の展示もされています。ファーカーはラッフルズの副官でした。彼は先住民族や動植物への思いを持ち、マレー女性との結婚をラッフルズに反対され、そのため退職したといいます。展示されたスケッチには既に絶滅してしまったものも描かれています。

二階には民俗関連の展示と特別展会場があり、シンガポールが植民地から独立国家へと自立していった経過が詳しく展示してありました。

博物館の販売コーナーでは歴史関連の書籍や日本軍が占領中に発行した軍票(紙幣)も販売しています。シンガポールの歴史を示す資料の復刻版のセットもあります。

この歴史博物館の横にYMCAビルがあり、ビルの左前に本形の記念碑があります。日本軍占領下、YMCAビルには憲兵隊東地区本部がおかれていました。ここでは逮捕した人々が拷問されました。指のつめをはがす、鞭打ち、電気による拷問などがおこなわれ、叫び声が街頭まで聞こえていたといいます。碑文は英語・中国語・タミール語、そして日本語でも書かれています。

YMCAビルの近くにはキャセイビルがあります。このビルは日本軍占領下、宣伝本部がおかれ、ラジオを使っての宣伝放送がおこなわれたところです。当時このビルはシンガポールで最も高いビルでした。人々は日本の放送を嫌い、禁止されていた英国放送協会(BBC)の放送を聞いたといいます。このビルの下にも本形の記念碑があります。

歴史博物館の裏手にあるフォートカニングはイギリス軍の司令部や地下壕がありました。現在ここは文化活動のセンターになっていますが、地下壕入口が残されています。

博物館周辺には文化施設が集中し、美術館やアジア文明博物館、国立図書館、国立公文書館などがあります。

アジア文明博物館にはアジア各国の文化財が展示され、八月の展示にはタントラの金色の男女合体象や木製の女性像があり、印象深いものでした。

国立公文書館(オーラルヒストリーセンター)の入口にはシンガポール史を示す小展示があります。この展示は海峡植民地、植民地シンガポール、日本占領下のシンガポール、イギリス軍政、シンガポール独立、文化などで構成されています。館内に入ると聞き取りの資料や写真のファイルがあり、リスト化されています。関連のビデオなども販売されています。

 

6シンガポール植物園

 オーチャード路の西方にシンガポール植物園があります。五二万平方メートルの広い敷地にはラン園、原生林、湖などがあり、市民の憩いの場となっています。外国から働きにきている人々が休憩する姿も見掛けます。

シンガポールの花とされているのはヴァンダ・ミス・ジョアキムというランであり、ピンクがかった紫色の花です。ジョアキムによって一八九三年に作られたものです。

植物園には初代ゴムの樹の記念碑があります。ヨーロッパにはじめてゴムを紹介したのはコロンブスでした。ポルトガルはアマゾンを植民地にすると、そこからゴムをヨーロッパへと供給しました。

ゴムに硫黄を加えてタイヤとチューブが制作されるようになるとゴムの需要が急増し、ポルトガルは産地を独占して利益をあげました。

産業化のなかで、イギリスはポルトガルによる種子や苗木の持ち出しの禁止に対し、ウィッカムを使って盗み出し、ロンドンで栽培しました。そして苗木をスリランカ、インドからシンガポールへと送ったのです(一八七五年)。シンガポールでのゴム栽培は成功し、ゴム園はマレー半島全体に広がりました。ウィッカムは一九二九年に功労賞・年金・サーの爵位を得たといいます。

初代ゴムの木は盗品だったのです。シンガポール植物園の初代ゴムの木はマレー半島各地のゴム園の原点です。このゴム園の労働力としてイギリスは華人とインド人を利用しました。マレー人は使わず、二つの民族を導入して分断して労働させました。イギリスの植民地支配によって大量のインド系、中国系住民がマレー半島で労働し生活することになったのです。

 

7 スルタンモスク

地下鉄ブギス駅の東にアラブ街があります。この街は十九世紀にアラブ商人によって作られました。このアラブ街とノースブリッジ路の角にスルタンモスクがあります。ここにモスクが建てられたのは一八二八年のことです。百年後に再建され現在に至っています。 

シンガポールでは最も大きなモスクで、堂内には五千人余りを収容できるといいます。イスラム教の教えによって、ここでは一日五回の礼拝がおこなわれます。モスクの上にある星はイスラムの祈りと行を示しています。

モスクの東側には、かつてジョホールの代官が住んでいた住居(イスタナカンポングラム)があります。これはクリーム色の洋館です。ここはラッフルズがジョホールの王子とシンガポール獲得の契約を交わしたところとして有名です。

スルタンモスクの一角はかつて日本軍が華人を集めて選別を行ったところです。大石正幸という憲兵隊長が撮った写真にはジャランクボーロとアラブ街での検証の様子を示したものがあります。ジャランクボーロに立つと、その当時のままの建物が今も残っています。

 

8 チャイナタウン

チャイナタウンは華人の集住地区であり、鮮やかな看板、香りに満ちた屋台など活気にあふれた街です。開発がすすみ、古い建物はつぎつぎに壊されていますが、各所に古い街並みが残されています。

サウスブリッジ路とパゴタ街の角にスリマリアマン寺院があります。この寺院はインド人貿易商によって一八二七年に建てられたシンガポール最古のヒンドゥー寺院です(一九四三年に改築)。正面には一九三六年に建てられたゴプラムと呼ばれる高さ一五メートルの塔があり、上部にはヒンドゥーの神々や牛・戦士などの彫刻があります。

スリマリアマン寺院の東にはシアン福建寺院(道教・一八四一年建築)、ナゴールドゥルガ寺院(イスラム教・一八二八~三〇年建築)などもあります。

スリマリアマン寺院からサウスブリッジ路をシティ方向に約一〇〇メートル行くと、アッパークロス街との交差点に出ます。ここはかつて日本軍がチャイナタウンの華人を選別したところです。

チャイナタウンでの選別・検証は一九四二年二月二八日からおこなわれました。チャイナタウン一帯は有刺鉄線などで封鎖され、全ての華人男性が出頭させられました。人々は機関銃や戦車に囲まれて選別されたのです。

アッパークロス街へと選別された人々は帰宅することができましたが、サウスブリッジ路へと選別された人々は連行されてチャンギやポンゴールの海岸で虐殺されています。

選別時には衣類や顔・腕に検の印を押されています。検問所が置かれた現・ホンリムコンプレックスの一角には「ショッチング(粛清)センター」の看板が取り付けられ、本形の碑が建てられています。碑文は英文で概略が書かれ、日本文の説明も記されています。

チャイナタウンの南方に華人街の面影を残すブキパソ路があります。この通りの東方に恰和軒倶楽部と晋江会館があります。

恰和軒倶楽部の入口にはシンガポール政府による碑文があります。碑文には、当初、恰和軒はダックストンヒルにあり、一九二五年にここに移され、一九三七年から四二年にかけて抗日運動(南洋華僑救済祖国難民総会)のセンターになり、現在も公益事業のために活動していることが記されています。日本軍に占領下されるとここは日本軍将校クラブとなりました。

恰和軒の一軒隣にある晋江会館は一九四一年十二月に結成されたタンカンリーらによるシンガポール華僑抗敵動員総会の総務部がおかれたところです。ここにも碑文があり、建物が一九二八年に建築されたことがわかります。この晋江会館は日本軍占領下「慰安所」とされ、女性たちが性的奴隷とされたところです。一九九五年にシンガポールでそのことが報道されています。

シンガポール内で日本軍による「慰安所」が確認されているところは、セントーサ島、ケーンヒル路、タンジョンカトン、晋江会館、西山園、ブキティマなどです。若い朝鮮人女性をはじめ、中国人・インドネシア人・日本人が日本軍によって性の奴隷とされたのです。

日本軍政下「慰安婦」とされて苦しんだ人々の実態については明らかにされてはいません。今ある建物とその風景から追想し、心に刻んでいくしかありません。

シンガポールの日本人墓地がシンガポール北方のチュアンホエ路の入口にあります。ここには、十八世紀後半からシンガポールで性の奴隷とされた「からゆき」と呼ばれた日本人女性の墓があります。 

ここには戦争で処刑された人々の墓や「熱田丸船員鮮人」と書かれた小さな無名の朝鮮人の墓もあります。

名前さえ記録されなかった人々の地平から歴史を見つめ、それらの人々が歴史の主人公となるように歴史を語りついでいくことが大切です。そのような視点を持てば、美辞麗句による戦争の正当化を根底から崩していくことができると思います。

日本の戦争犯罪について、今も追及されている事柄のひとつが細菌戦部隊(七三一部隊)です。中国で人体実験と細菌戦を実行したこの部隊は南方にも支部をおき、その支部を南方軍防疫給水部〔岡九四二〇部隊〕といいました。

この部隊は現・シンガポール保健省の建物を占拠し、二階で細菌戦の研究をしていました。この建物はシンガポール総合病院の横にあり、ギリシャ古典風の建築です(一九二三年建築)。もともと、エドワード七世医科大学として使われていました。建物の右方には医大の歴史を示す碑がありますが、細菌戦部隊については記されていません。

南方軍防疫給水部はここを本拠としながら細菌戦の研究をおこない、細菌兵器製法のための支隊をマレーシアのジョホールバルにあるタンポイのペルマイ精神病院においていました。そこでペスト菌を培養し、ペスト蚤を作り、ペスト菌を兵器とする研究をおこなっていました。この病院の建物は現在も残っています。

この歴史事実は一九九〇年代に入って明らかになりました。ここで働いていた浜松出身の軍属が証言記録を出版したからです。

 

9 セントーサ島

セントーサとはマレー語で「平和・静けさ」の意味です。この島は植民地時代から一九七〇年まで島全体が軍事基地でした。今では観光地となり、西半分はモノレールで回ることができます。

西側には歴史・戦争を展示するイメージ オブ シンガポール、ラン園、水族館、昆虫館、蝶園、アジア村などの展示館が集中し、シロソ砦のような戦争史跡もあります。

セントーサへとマウントフェーバーからケーブルカーも出ています。ケーブルカーのセントーサ島入口には竜の像が置かれ、近くにマーライオンタワーも見えます。

イメージ オブ シンガポールではロウ人形なども使ってシンガポールの歴史を再現しています。入口では日本語解説テープを貸し出しています。展示されているものは、一八一九年のラッフルズとスルタンの条約、十九世紀はじめのシンガポール川での貿易、十九世紀中ごろのシンガポールの商業、一八八〇年代のゴム栽培、中国系移民労働者の生活、二〇世紀はじめの港湾労働、コリアキーでの商業と生活、華人の産業、代筆業・メイド・ニョーニャの生活、マレー人の生活、インド人の商業、一九三〇年代の社会改革運動、タンカンリーらの抗日運動、日本軍の占領、日本軍降伏とイギリス軍政などがあります。

展示の中心は日本占領下のシンガポールの状態であり、関連する写真と現物の史料がたくさん展示されています。シンガポールと書かれた黒字の上に赤字で「ショーナントウ(昭南島)」と記されたパネルの前後に、義勇軍や一三六部隊による華人の抵抗や日本軍による弾圧や動員政策の様子の展示があります。

ここでの展示にもあるように、イギリスは華僑義勇軍に重装備をさせずに最前線に投入しました。イギリスは日本軍の攻撃の最前線にインド兵や華人義勇軍をあてていたのです。

多くのシンガポール人が日本軍占領を記憶しているという視点で、華人粛清や憲兵隊の拷問についての証言テープを聞くコーナーも置かれています。広島原爆の様子も大きく示され、それによってシンガポールが解放されたという視点を示しています。

ちなみにシンガポールに侵攻、マレー半島各地で華人虐殺に関与した部隊の一つは第五師団であり、この部隊は広島の部隊です。イメージ オブ シンガポールでは日本占領期の実物史料をみることができます。日本の学生による平和を祈る折鶴も展示されています。

セントーサ島の西端にはアジア最大といわれる水族館があり、シードラゴンをはじめ二三〇〇種の海洋生物が集められています。八〇メートルのトンネルをくぐりながら、海の様子を観察する事ができます。

水族館の近くにはシロソ砦があります。この砦は一八八〇年にシンガポール港に出入りする船を監視するためにつくられました。シロソ砦では兵舎、砲撃指揮塔、眺望室など一〇ヶ所あまりの見学ができます。日本軍はマレー半島の北側から上陸したため、この砦の砲は使うことができなかったのです。この砦はアジア太平洋戦争期のイギリス軍の戦略的失敗を示すものとされています。

昆虫館・蝶園には四〇〇〇以上の昆虫の標本があり、マラヤホーネットフラッグ(カエル)などの生物も展示されています。セントーサ島は観光地として開発されたリゾートランドですが、じっくり見れば多くのことを学ぶことができます。

 

10ナイトサファリ

ナイトサファリはシンガポールの北、市街地から車で二〇分ほどのブキパンジャンにあります。ここは一九九四年に開園し、熱帯の夜行性動物、約一〇〇種・一二〇〇頭を八つのエリアで飼育しています。

園内には日本語の解説テープを流した電動車が運行しています。絶滅寸前のマレー虎、マレーバク、アジアゾウなどの飼育でも有名な動物園です。インドゾウやトラは、かつては数万頭いたのですが、現在では五千頭ほどになってしまったといいます。開発のなかで自然と人間との関係をどう構築していくのかを、この現実が問いかけています。

熱帯雨林のなかには自然の薬があり、その力が数多くの生物を育ててきました。しかし、多くが伐採され、森林の危機が語られるようになりました。ナイトサファリは開発によって、観光と消費のためにつくられたところですが、人間と自然、熱帯雨林の保全についての問いを発しているように思われました。

 

11 マレーシア・ジョホールバル

シンガポールはマレーシアから一九六五年に分離独立しました。今は二つの国家に別れていますが、もともとつながりのある地域です。シンガポールとマレーシアはコーズウェイという橋で結ばれています。この道の横をジョホール側から、シンガポールへと水を送っています。シンガポールからは水を浄化して送り返しています。 

ジョホールバルはマレーシア最南端の町です。シンガポールで出国手続きをし、マレーシアで入国手続きをして入ることができます。 

マレーシアの大地は広く、山や川そして海に囲まれ、豊かな資源があります。人々はゆったりとしています。資源のないシンガポールとは対照的です。

マレーシアの貨幣単位はリンギです。マレーシアドルともいっています。最近の経済危機のためマレーシアドルとシンガポールドルとの交換比率は、シンガポールドルの二分の一に落ちていました。シンガポールで商品を買うよりマレーシアへと買い物に出かける人もいます。また、仕事を求めてシンガポールへと入国する労働者が増えています。

ジョホールバルに入るとジョホール州庁の六四メートルの塔が見えます。これはイギリスが一九四〇年に建てたものですが、日本軍の占領にともない、日本軍政の中心となったところです。銃弾の跡が今も残っているといいます。

マレーシアへと日本資本がたくさん入っています。ジョホール水道を渡っていくときにも日系資本の看板が見えます。トヨタ、ホンダ、スズキ、ヤマハなどの自動車産業、トーシバ、ヒタチ、ソニー、ナショナルなどの電機産業の看板をマレーシアの各地で見ることができます。

マレーシアのイポーでは日系企業が放射性物質を放置したため住民の健康被害が続出し、そのため住民が操業停止を求めて抗議運動を展開しました(一九八〇年代〜)。

アジアからは日本人のありように対して、銃や刀を円とカメラに変えただけという批判があります。

ジョホールバルには王(スルタン)がいます。王宮は青い屋根と白いヴィクトリア洋式の建築であり、一八六六年に建てられたものです。王宮の一部が開放され、これまでの王が集めた宝物や武器などを展示しています。なかにはゾウの足をくり抜いた傘立てや牛の首、トラの剥製などもあります。王宮博物館の入場料はアメリカドルで七ドル、日本円に換算すると八〇〇円になります。マレーシアの労働者の賃金は一日一〇〇〇円〜一五〇〇円といいますから、ここの入場料は高価です。ここは外国人観光客むけの展示館です。

マレーの民衆から集めた税でマレー民衆からは無縁なものを所有

し、外国人むけに展示する場ということもできます。王は特権階級であり、マレーシアには王制を批判する言論、表現の自由はありません。ジョホールの王族による殺人行為に刑法を適用するか否かで、もめたのは最近のことです。

王宮の裏手には当時の王、アブバカルによって一八九二年〜一九〇〇年にかけて建てられたアブバカルモスクがあります。このモスクはマレーシアで一番美しいモスクといわれ、このモスクからジョホール水道を一望できます。

アブバカルモスクの西側に総合病院があり、その西にジョホール文化スポーツクラブの建物があります。この建物は日本軍占領期には警備隊本部とされ、この建物の前で多数の華人が殺されています。今は時計台と運動場になっていますが、時計台の横の地点が虐殺現場にあたります。ジョホール州各地に華人の追悼碑があり、十数カ所が確認されています。

シンガポールだけでなくマレーシアのジョホール州やネグリセンビラン州など、各地で日本軍によって華人が殺されています。その全体像はあきらかではなく、いまも実態調査が進められています。 

一九九九年の八月にはクアラルンプールとセラングール州の日本占領期殉難同胞委員会が「マラヤ抗日記念碑写真集」を発行しました。そこには約四〇カ所の碑が紹介されています。

ジョホールバルで殺された人々の遺骨の一部は寛柔第一小学校近くのジャラン・クブンデの追悼墓へと集められています。一九四七年に建てられた墓碑には「華僑殉難諸先烈公墓」と刻まれ、その横には一五一人分の殉難者の名前が記されています。追悼墓の正面には「浩気長存」と大書した門があります。

日本軍はペナンで抗日運動者の名簿を手に入れ、各地で支援者を処刑していきました。ジョホール州の北の町、ヨンペンには「抗日烈士記念碑」があります。この墓碑は五二年間埋もれていたままになっていたものですが、工事にともない発掘されたというものです。  

そこには十九四二年〜四五年にかけて抗日運動でなくなった五六人の名前が刻まれています。よく見るとジャワ人やマレー人の名もあり、民族、国境をこえて人々が団結し抵抗したことがわかります。現地の人々は発掘後の一九九四年に墓碑を再建し整備しています。 

戦後のマレーシアの歴史のなかで語ることができなかった事がらがマレーシアの一定の民主化の中で語られはじめているのです。

ジョホールバルにはマレーの村を紹介する施設があります。民族の踊りで出迎え、ゴムや錫製品作成の実演もあります。ただ見るだけではなく、ゴムや錫の歴史からマレーシアでの植民地支配の歴史と社会を考えていくことが大切だと思います。

  

おわりに

一九九九年八月、シンガポールのチャンギ空港にある書店で、「タイム」と「週刊亜洲」という二つの雑誌を買いました。両誌とも日本特集を組んでいました。

英文の「タイム」誌は、表紙に日の丸を振り、日の丸グッズで自分を飾った日本のサッカーのサポーターを大きく写し、日の丸の中に「日本はナショナリズム(国家主義・愛国主義)に戻っている」と書いていました。中国語の「週刊亜洲(アジア)」は現代日本の軍拡を示す写真を採用し、「日本でタカ派(軍拡好戦派)の風が荒れ狂っている」という意味の見出しを付けていました。これらの特集に見られるように、現在の日本は国際ジャーナリズムで大きく批判されていました。

その理由は、戦争協力に向けての一九九九年の日米新ガイドライン法成立につづき、八月、日の丸・君が代法、通信傍受法、国民総背番号法といわれる法案が次々に成立し、軍拡とナショナリズム、国家統制の動きが顕在化してきたことによります。

現代日本の動きに対し、アジアの視線は敏感です。日本のジャーナリズムはそれに比べ批判力を失っているということができます。人々の感覚も同様であり、「ゆでガエル」のように危機を危機と感じなくなっていると言われています。

視点として大切なことは「タイム」誌も指摘しているようにナショナリズム、つまり、偏狭な国家主義や自民族の行為の正当化をどう乗り越えていくことができるかということだと思います。それは日本人だけの視点で世界を見ないということです。「日本」という文字がついていなければどうなろうと関係ないと思わないことです。

国際交流・友好は相手を尊重し、相手の視点で物事を考えていく力を持つことから始まります。現地の人と現地の言葉で話しをしていくことも大切です。

現地の人の目の高さで世界を見つめ、文化や歴史を学ぶことが必要です。消費のために金を使い、円の価値で世界を換算しているだけでは人間の歴史的遺産から学んでいくことはできないと思います。

以前、シンガポールに行った学生が「アツイ、キタナイ、マズイ」と語っていました。その人にとって、旅行は日本のノモサシで物事を計ることでしかなかったのです。

現地の気温を体験し、アジアの雑踏の臭いにふれ、アジアの食を味わい、文化に触れようとするのでなければ、旅で本当の価値を見出すことはできないでしょう。

曲がっていびつで雑然としたところから、歴史の真実が、その姿を現したりするものです。

現実の支配的な表現やありようとは異なる新しいものを造りあげていくには、学び考えることを積み重ね、自分自身の表現力を鍛えていくしかありません。それに取り組んでいこうとする姿勢が大切だと思います。

歴史を見ていくと、世界の人々が共に生きていこうとする平和共存と社会連帯の思想への問いを、避けて通ることはできません。 

人が出会ってあいさつし、手を重ねることには平和的関係性の原点があります。文化を学ぶことによって人間の精神はより豊かになることができます。異質な地域への旅はそのような契機をたくさんもっています。

絶滅寸前の動物達、伐採される熱帯雨林、各地に建てられた追悼碑や記念碑、保存された旧い街並み、それらは自然や景観の保全と人間の尊厳を訴えてやみません。消費や開発よりも、自然との共存・平和思想の確立・歴史遺産の保護を、私たちに求めているように思います。

旅が、ナショナリズムを越えてインターナショナルな感性を養う旅となることを願い、旅の報告書の筆をおきます。

  一九九九年一〇月 竹内