シンガポール・マレーシアの戦争史跡1999
マレーは熱帯の半島、その太陽の光と緑のなか、日本占領期のマレーの歴史を知るために戦争史跡を訪ねた。以下はその調査の記録である。
1 シンガポール
@華人「検証」と虐殺
シンガポールはイギリスの植民地とされ、1824年にイギリスとオランダの間でマラッカ海峡を境にマレーとインドネシアとを分割支配する協定がむすばれ、1826年にはペナン・マラッカを含む海峡植民地が成立した。マレー半島ではイギリスによるゴムと錫のモノカルチュアがすすめられた。ゴムではインド系、錫では華系労働力が利用された。
1937年7月、日本による中国への全面侵略がはじまると、シンガポールを中心とする南洋の華人は中国支援運動を活発におこなった。1938年1月にはシンガポールで排日大会やデモがもたれ、10月には南洋華僑籌賑祖国難民総会の設立を決定した。また、戦禍救済委員会、日貨不買同盟、マレー抗敵救国鋤奸団、排日ボイコット実行委員会、中華抗日鋤奸徹団、抗敵便衣隊、中華労工抗日救国会などの組織が形成されていった。シンガポールは中国支援運動の拠点であり、華人の抗日意識が強かった。
日本がシンガポールを占領したのは1942年2月のことだったが、占領に際し、華人を集めて「検証」という選別をおこない数万人を殺害した。占領によって、抗日にかかわる勢力を一掃しようとしたのだった。さらに華人に対し「奉納金」5000万ドルを強要して放出させた。
検証場所としてはチャイナタウンやアラブ街がよく知られているが、各地に選別所がつくられた。スルタンモスク近くのカンダル街の入り口はこの検証の場所だった。当時の写真と同じ建物が今も残っている。
殺された人々の骨は1960年代に発掘されて集められた。その経過を少し細かくみておくと、1963年の建設工事のなかで遺骨が発見されたため、中華総会が調査をはじめた。そのなかで証言が相次ぎ、発掘がすすんだ。民衆大会も持たれ、日本製品の不買運動もおきた。これに対し、日本はその戦争犯罪の真実と責任を認めることなく「無償援助」という形の経済協力でごまかした。人々はシティの中心に戦争記念公園をつくり、そこに「血債の塔」と呼ばれる64メートルの碑が建てられ、骨はその土台部分に収められた。集められた遺骨は70個ほどの壺に収められたという。
チャイナタウンには、選別がおこなわれたことを示す碑があり、虐殺がおこなわれ、大量の遺骨が発見されたチャンギビーチには追悼碑がある。
孫文を記念する晩晴園には遺品の眼鏡・時計・小銭・バックル・金歯などが展示されている。
A林謀盛の碑
マーライオンの近くにはエリザベスウォークという公園があり、そこには2度の世界戦争の碑やインド国民軍、抵抗軍の林謀盛の碑などがある。戦争碑には「公為己捨」と記されている。イギリスの植民地支配への言及は少ないように思った。インド国民軍は日本軍がつくりあげたものであり、日本の意に沿ってイギリスと対抗させようとしたものであった。日本軍のインパール作戦ではインド兵が使い棄てられたという。イギリスがインド兵を使い棄てたように日本も同様の工作をしたのだった。だが日本の敗戦過程のなかで、この国民軍は日本軍に反旗を翻した。
林謀盛はイギリス系抗日軍の136部隊のリーダーだったが、日本軍によって捕らえられ獄死した。イギリス軍は抗日意識の強い華人を訓練して136部隊を編成し、イギリス軍ゲリラとの連絡係としても利用した。林謀盛は商人だったが、この部隊のリーダーになった。墓は一時期逮捕されたところにあったが、シンガポールのマクリッチ貯水池の近くに移された。また追悼碑がシンガポール市内のエリザベスウォークに建てられ「救国の英雄」として賛美されている。
抗日運動組織としては、136部隊のほかにマラヤ共産党の抗日人民軍があった。シンガポールは反共産主義であるため、この抗日人民軍についての碑はない。
日本の支配についてはシンガポール内では、国民の国防意識づくりキャンペーンの一環として示されている。「負けたイギリス軍のようにならず、日本の占領を思い出し、軍隊に参加を」という意図が根底にあるようだ。
もちろん日本の支配は語り継ぐべきものなのであるが、現在のシンガポール統治への批判につながるものは巧みに切断されているように思われた。いま、シンガポールは令状なしで逮捕ができるという警察国家であり、民衆監視社会である。
Bチャンギ刑務所博物館・クランジ墓地
シンガポールの空港近くにチャンギ刑務所があり、入り口近くに博物館がある。この一帯には空軍基地がある。占領下、日本軍は英軍捕虜をこの刑務所に収容したが、多くの捕虜が虐待を受けた。捕虜の首を切っての処刑もおこなわれた。戦後は日本軍が収容された。人間を殺人のマシンにした者たちの戦争責任は問われ続けられなければならない。また、そのようなマシンにならないための感受性がもとめられる。その力が戦争をとめることになるだろう。
クランジ墓地はイギリス軍の墓地である。見ると16歳の兵士のものもある。無名の兵士のものもある。インド兵・グルカ兵のものをみると、イギリスの帝国主義による民衆動員がわかる。
たとえば、「446367 LANCE NAIK PAPAYYA INDIAN PAIONEER CORPS 15TH AUGUST 1946」(16歳)、「ROYAL INDIAN ARMY SERVICE CORPS MATHEW 20 DECEMBER 1945」(37歳)とある。植民地民衆の動員によって戦争がおこなわれていたのである。
遠く離れたシンガポールへと送られここで死を強いられた民衆の歴史がここにある。美辞麗句で彼らの死を賛美してはならない。ここに派兵した者たちこそ問われるべきであり、愛国の名で棄てられることのない関係、墓碑銘そのものからの解放こそ求められるべきだろう。
日本人墓地は現在整備されて、公園になっている。墓石には「からゆき」とよばれた性的奴隷のものが多い。また軍隊関連のものもある。墓石には「従軍南洋会員戦死者之墓」といったものもある。碑文を読んでみると、東南アジアの興隆のため、拓南に生きたといった主旨が刻まれている。それは、日本人としてのナショナルな視点が記されているにすぎない。大きな墓石には将校のものもあったが、ちいさな墓石が多い。「殉難納骨135」という小さな石柱は台湾1・朝鮮10人分も含むものだった。また、「熱田丸船員鮮人」というものもあった。日本人墓地の中の、名もなく「鮮人」とのみ記された小さな碑、それは植民地支配と戦争の責任が未清算のまま今もあることを示す墓石のように思われた。
Cブキティマの「慰安所」跡
ブキティマは日本軍と英軍との激戦が繰り広げられたところである。英軍の降伏の場、フォード工場近くに「慰安所」の建物が残されていた。日本軍は性的奴隷をマレー半島各地に置いた。戦争を「慰安婦」とされた女性たちの視点から見ることが大切だと思う。連行された兵士たちも孤独だったが、日本軍はその兵士に女性をあてがって管理しようとした。このことは「慰安婦」とされた女性のみならず、兵士もまた人としてはみなされていなかったことを示している。
日本軍が占領するとともに旧エドワード7世大学では731部隊の支隊の細菌戦研究がおこなわれた。細菌を武器にして地域を破壊するという作戦も想定されていたのである。民族や人種が異なれば何をしてもいいというレイシズムの発想がここにある。
ブキパンジャンで游鏡泉さんの話を聞く機会があった。当時23歳ほど、日本軍によって1942年2月14日に義勇軍とみなされ、4~5人が捕えられた。翌日首を切られたが、生き残った。検証にもあって、スタンプを押されたという。
首に残る跡は戦後も幾度となく疼いただろう。そのようなアジア民衆一人一人の疼きに日本の戦後はどれだけ真剣に向き合ってきたのだろうか。戦争は正しかったという居直りでは決して救済されない現実がここにある。
シンガポールを陸海軍部隊が爆撃している。シンガポールの街を歩いていたとき、爆撃した陸軍部隊のひとつが飛行第60戦隊であり、この部隊がアジア太平洋戦争開始に向けて浜松か派兵されたことを知らなかった。また飛行12戦隊も爆撃をおこないそのときの写真が日本軍の部隊関係資料にたくさん残されていることも知らなかった。後にそのことを書いた資料に出会って、無知を自覚した。シンガポール爆撃の調査が課題となった。
さて、シンガポール文明博物館ではチベットの仏像宝物展を開催していた。印象に残ったのは木造の女性像と男女の金色の合体像だった。継承されていくものは、破壊や戦争ではなく創造と文化である。戦争の世紀を超えて、人は美しくなれるという可能性をこれらの彫像は語っているようにも思われた。
2 ジョホール
ジョホールバルの政庁はイギリスが建設したものである。ここの窓から日本軍との戦闘がおこなわれたため、今も銃弾の跡が残されているという。闢胡先翁紀念館として保存されている建物は、元は王族の建物であったが、日本軍によって将校用「慰安所」とされていた建物である。建物は小高い岡の上にあり見晴らしがよく、内部は広く部屋もたくさんある。この建物は戦争犯罪を物語る建物である。
日本軍は華人団体名簿など収集資料から抗日関係者名簿を作成し、各地で抗日運動支援者を逮捕し虐殺した。ジョホール州でも多くの華人が占領直後に殺害された。ジョホールバルでの殺害は現在の時計塔のあるところでおこなわれた。警備隊によって多くの人々が殺され、グランドに穴を掘って埋められた。警備隊の事務所は現スポーツクラブの事務所のところにあった。
@ジャランクブンテの碑
ジョホールバルで殺された数千人を追悼する碑がジャランクブンテの「華僑殉難先烈公墓」である。碑は新山(バル)区の壽賑会が1947年に建設したものである。ジョホールバルでの死者についてはジョホールバル中華公堂によって2064人分の氏名・死亡地などがまとめられている。
碑文には次の言葉が記されている。要約すると、1942年1月30日にジョホールバルが陥落し、侵略軍は狼虎のように威張り、2月25日から3月末まで、哥踏路、十三碑、東山などで虐殺をおこない、さらに新山(バル)、士乃(セナイ)へと虐殺を広げ、振林山(ゲランパタ)、十六碑、泗隆園などで虐殺をすすめた。切られた肉片は数えきれず、屍は海浜を埋め、血が森林に撒かれた。陥落して3年8ヶ月の間バルの華僑は逮捕・拷問・処刑され、死者は1万人を超えた。特に籌賑会の職員が弾圧された。わが華僑は全世界に正義を唱え、その死の鮮烈さは歴史にないものだった。ここに2千以上の遺体を集めて共同埋葬した。華僑は今後も頑張っていかねばならない(1947年8月4日)。
A各地の追悼碑
ジョホール州各地に追悼碑がある。虐殺は主として1942年2月末から3月末にかけておこなわれた。ジョホール州での犠牲者を追悼する碑「柔佛州華僑殉難烈士公墓」がエアヒッタムにある。
碑が確認されているところをあげておけば、ロースコーテ園、ウルチョー22マイル、ウルチョー23・5マイル、ウルチョー21マイル、ゲランパタ、カンポンポク、センガラン、ウルティラム、コタッティンギ、ジェルマン、メルシン、ゲマスバルなどがある。ジョホールの碑については、清水愛砂「マレー半島の住民記念碑紹介」(季刊戦争責任研究5・6)に詳しい。
コタッティンギではシンガポールからの避難民を含め2月26日から3日間で3000人以上が虐殺された。コタッティンギには1946年に建てられた「殉難華僑萬霊墓」がある。ウルティラムの碑はコタッティンギ13マイルにあり、1000人余を追悼して1949年に「華僑殉難公墓」として建てられ、1988年に再建されたものである。コタッティンギからメルシンに行く途中のクランタン267マイルにはイギリスのトーチカが残っていた。
ジェルマン(任羅宏)には「任羅宏華僑被害同胞公墓」がある。虐殺されたが、今も掘り起こされていない骨があるという。
メルシン(豊盛)では1942年2月29日から3日間で400人余が虐殺された。波打ち際に人を集め殺したという。「豊盛港華商先賢公墓」がある。
ヨンペンには「抗日烈士記念碑」がある。そこには華人やマレー人・ジャワ人などの名も記されている。倒れていたものが1994年に再建されたものという。
タンポイの精神病院は731部隊の支隊が使用した建物である。タンポイには当時の建物が残され、今も使用されている。ここではベスト菌を培養していた。20万匹の鼠の生産体制が目指され、隔離病棟では毒化や増殖作業がおこなわれ、病舎では鼠の飼育もおこなわれた。ペスト菌を使っての細菌戦研究の拠点であった場所である。
この存在が判明したのは、浜松出身の元軍属の証言記録からだった。東南アジアでの細菌戦の実行については不明の点が多いが、実際に細菌の使用もあったのではないだろうか。
3マラッカ
マラッカは15世紀から東西貿易の拠点となって繁栄してきた街である。ポルトガル、オランダ、イギリスによる占領がおこなわれ、華人街も形成された。マラッカの丘にはセントポール教会、古い墓石やサンチャゴ砦の跡が残る。このマラッカを1942年1月15日に日本軍が占領し、3月には華人の検証と虐殺をおこなった。マラッカ華僑総会がある「明星慈善社」の建物は憲兵隊の本部になった。
@マラッカ「華僑抗日殉難義士紀念碑」
マラッカには「華僑抗日殉難義士紀念碑」があり、そこには蒋介石の「忠貞足式」の文字が掲げられている。碑文には、占領後、華僑リーダーの王徳義の家族全員を含む300人が殺されたこと、その後、木材工場の56人、馬接区の農民300人、徳興ゴム園17人、野新区など郷民200人が殺されたことが記されている。斬殺・刺殺・撲殺・穴に埋めての集団殺害、部屋に閉じ込めての集団焼殺など、その死者数は千数百人という。戦後、6~700の骨が発掘され、碑のある三宝山山麓に集められた。この碑は1947年に建てられ、1972年に修復されている。占領下の犠牲を語る英文の碑文(1948年)もある。
マラッカで日本軍が「慰安所」として利用した「晨鐘励志社」(1928年建設)の建物も残っている。
キリスト教墓地には占領下で死を強いられた2人の宣教師ALVARO MARTINSとFRANCISCO MANNEL MASSANOの墓がある。2人はポルトガル人であるが、ALVAROは日本軍によって1944年3月8日に、FRANCISCOはシンガポール(収容所)で、11月3日に死亡した。
A9・5事件
マラッカでの日本軍の暴虐は解放後も続いた。1945年9月5日、日本軍憲兵隊はマラッカ人民委員会のメンバーを襲撃し、連行して殺害した。
マラッカには「1945年『9・5』殉難史誌」の碑があり、そこに経過が記されている。要約すると、日本侵略軍が降伏するとマラヤ共産党と人民抗日軍は各民族の前に現れ、人民委員会の設立を呼びかけた。イギリス軍はまだ来ておらず、マラッカ人民委員会は、治安を維持し失業者を扶助し、日本軍政下の政策を廃止し民主主義の精神を発揚していくために設立された。政情は安定したが、日本軍は反感を持ち、9月5日午後4時に憲兵隊長の率いる日本兵が人民委員会の会議場を包囲し、委員10人、市民4人を連行し、取調べもなくマラッカ沖合の島で刺殺しようとした。途中で康景南と張E森は車から、陳易経は船から飛び降りて逃走した。彭玉楼と曽才は刺されたが、治療を受け生き残った。9人が死亡した。だが、身体は失われても正しい精神は健在である。この顛末を記し、碑を刻むことで忘れないようにする。
死亡者名と経歴は以下である。
謝重生(丁秀)28歳マラヤ共産党マラッカ特別区委員会代表・人民委員会副主席、
雷学37歳マラヤ共産党員抗日軍マラッカゲリラ部隊管理部主任・人民委員会治安部主任
呉世健34歳人民委員会総務部主任 鄭学?35歳人民委員会社会部主任
林振錫31歳人民委員会宣伝部 陳應禎35歳人民委員会宣伝部
林揆義37歳国民党員・人民委員会民意採納係 江華成 李金?
この碑がある場所には13基の墓石もある。9・5事件の被害者のほかに、陳世瑞、李明、陳清泉、乃保の墓石があり、氏名の上部には抗日人民軍を示す3つの星印(華人、マレー人、インド人)がある。陳世瑞の墓には抗日小英雄と刻まれ、マラヤ抗日人民軍の退役軍人同志会が建てたことが記されている。陳世瑞以外の墓には遺骨を埋めた跡はない。
近年、墓石の刻字に赤い染料が塗り込められている。そこから継承への熱い想いを感じる。これらの碑の存在は、根強い抵抗の系譜を示している。
マレーシアでは国教としてのイスラムや国王・スルタンへの忠誠への批判は公共の場で議論されること自体が禁じられてきた。またマラヤ共産党は非合法組織とされ、内戦をおこなってきた経過があるから、マラヤ抗日軍の墓石も公然と顕彰されることがなかったが、最近の民主化の中で評価ができるようになり、最近では『馬来亜抗日紀念碑図片集』にも掲載されている。
4 ペナン
@ペナンの追悼碑
ペナン島には鐘霊中学校がある。この中学は抗日運動の拠点だった。中学校内に「殉難師生紀念碑」がある。ここに李詞?ら教師8人、謝国仁ら生徒46人の名が刻まれている。碑は1946年12月8日にできたものである。20歳ほどの校内の生徒たちは利発な雰囲気であり、学校では「知識のみではなく心の開拓」が語られていた。最近では華人系学校へのマレーシア政府の統制が強まっているようである。
ペナン島には1946年に建てられた「華僑抗戦殉職機工罹難同胞紀念碑」がある。その碑のプレートには「浩気長存」「忠霊不朽」とある。
ペナン島は1941年12月11日に日本軍の爆撃を受けている。調べてみると爆撃をしたのは陸軍の飛行第12・60・98戦隊であり、浜松と関係のある部隊だった。
占領後、検証と虐殺がおこなわれ、4月に2千人、9月に3千人の大検挙がおこなわれ、秘密裏に殺害された人々も多い。抗日意識が強かったペナンでは2千人が殺されたという。戦後、800人分と見られる遺骨が掘り出され、この塔の下に埋葬された。碑文には日本軍の占領は、かつての秦の残虐さを超える暴虐であり、骨や屍は野にさらされたとある。
なお、ペナン島にはイギリス軍の砲台跡が残っていた。
Aバターワース
ペナン島から橋を渡った対岸のバターワースにも「在日敵下殉難同胞公墓」がある。これは1946年に北海(バターワース)人民委員会が建設したものである。ここにはバターワースの真巴里、沙捕尾で遺骨の発掘をおこない、発見された40余の遺骨を収めている。
ペナンでは消費者協会、鐘霊中学の先生、追悼碑保存会、市議らと交流する機会があった。マレー半島の占領といっても、一人ひとりの生と死の現実から読み込みなおしていくことが大切だと思う。
ペナンでも陸軍部隊による爆撃がおこなわれている。この攻撃についての調査も求められる。
5 クアラルンプル
@クアラルンプルの占領
クアラルンプルの博物館に壁には侵攻する日本軍が描かれている。歴史博物館の展示を見て感じたことは、展示において侵略や王制・封建制への批判力に欠けるということである。また社会・階級分析がなく、他方で社会主義批判が強調されている。それはマレーシアが王制の国であることの反映であるといえるだろう。
ビクトリア学校は日本軍に占領され、ブトウ刑務所は華人収容所となり、インターナショナルハウスは日本軍の司令部だった。街の各所に日本軍占領の跡を示す史跡がある。
クアラルンプルの日本人墓地には「からゆき」のものが多い。これらは性的奴隷とされた臣民の墓石群ということもできるだろう。墓石の中には「広東人陸景桓建立中村松枝之墓」というものもあり、それは民族を超えての愛情を示すものである。岡5824部隊の「盡忠報国」の塚の碑文は破壊されていた。
虐殺された華人を追悼する碑が福建義山にある。「中華民国男女橋胞殉難墓」は新建されたものであるが、碑文から1946年5月に建立されたことがわかる。この墓碑の奥のほうには「日治橋胞殉難碑」があり、1989年の再建を示す文字がある。この碑の後ろに2つに折れた「中華民国男女橋胞残死墳」の碑が置かれている。
虐殺については、刑務所で殺した人々が穴に投げ込まれるのを見たという証言がある。
華人墓地の一角には「華僑機工回国抗戦殉難紀念碑」がある。中国支援のために南橋機工隊員3200人以上がシンガポールやペナンから中国へ向かったが、戦死や病死によって多くの人々が死を強いられた。生地に戻れたのは1700人余という。
Aクアラルンプルの8・15集会
日本軍支配により、1942年から45年にかけてクアラルンプルのプドウ刑務所で800人、抗日軍500人、虐殺5~60人、生き埋め死2~30人など計1400人が殺害された。これらの人々を追悼する会が、8月15日にこの「中華民国男女橋胞殉難墓」の前で開催されている。
1999年の8・15集会には100人ほどが参加した。主催はセランゴールの殉難同胞委員会。
碑の前では万余の遺骨が怒りの声を発しているようにも思われた。紙を火の前で燃やし、鎮魂と追悼の言葉が語られ、静かに追悼の行事がすすんでいくが、現実への怒りはおおきなものがある。そのような思いを束ねるかのように銅鑼が3度鳴らされた。
碑の前では、ネグリセンビラン州パリッティンギの虐殺の幸存者簫文虎さんが銃剣でさされた跡を示しながら証言した。50数年間、傷跡は疼きつづけてきた。昨今の史実を否定する動きは、この傷跡に史実をかたり続けようとする思いをいっそう与えるだろう。
6ネグリセンビラン
ネグリセンビランでの日本軍の虐殺の調査がすすんだのは1980年代のことである。現地での調査とともに日本軍の陣中日誌も発見され、兵士の証言も得られた。ここでは3月に、6次にわたる「治安維持」「粛清」という名による虐殺が繰り広げられた。ネグリセンビラン州での虐殺を担うことになったのは広島の第5師団歩兵11連隊だった。この連隊は中国から転送されてきた。中国での殲滅作戦がマレー華人に対しても適用されたといえるだろう。
1982年の日本の教科書問題が、現地での掘り起こしと継承に向けての追悼碑の建設になっている。
1942年3月の虐殺の経過についてみておけば、第1次は3月4~5日にかけてレンバウのぺタスやスリナンティなどの鉄道沿線防衛を目的に1000人以上が殺された。第2次は3月10日頃にクアラピラ南部のゴム園などでおこなわれた。
第3次は3月12日にカンウェイやシンバなどで虐殺が繰り広げられ、カンウェイでは抗日軍の拠点とみなされた村が虐殺と放火によって破壊された。第4次では3月18日に抗日救国運動が盛んだったティティ周辺のイロンロンなどでおこなわれた。イロンロンの村はカンウェイと同じように消滅させられた。プルタンでも虐殺がおこなわれた。
第5次は3月22日セレンバン北部で行なわれ、マンティンのゴム園では200人が殺された。第6次はセレンバン市での一斉検挙がおこなわれ、マラッカ市を含めて1500人が検挙された。
この3月の日本軍のネグりセンビラン州での虐殺による被害者総数は4000人を超えるとみられる(林博史『華僑虐殺日本軍支配下のマレー半島』)。
@ペダス
1942年3月はじめのレンバウ(林茂)県ペダスでの虐殺についてみてみよう。
ペダスの華人義山には「林茂県日治蒙難華族同胞紀念碑」がある。1942年3月5日には鄭生郎ゴム園で300人ほどが殺された。
このときの虐殺の幸存者が鄭来さんである。鄭さんが7歳のときのことだった。鄭さ
ん一家はセレンバンからゴム園へと避難してきていたが、日本軍は女性や子どもたちを集め、銃剣で突き刺した。生後5ヶ月の弟は空に放り投げられて刺殺された。鄭さんは背中など4箇所を刺されたが、現場から逃れて生き延びることができた。
戦後はゴム園の接木の職人として働き生活してきた。来日して証言もした。鄭さんは
言う。日の丸・君が代が強制され、新たな軍備の強化がすすんでいる。もう一度戦争が繰り返されるようで心配だ。戦争を支配者はおこなおうとするが、苦労するのは一般人だ。ここであった事実をほかの人たちにも伝えていってほしいと。
Aパリッティンギ(カンウェイ)
クアラピア県のパリッティンギの奥には港尾(カンウェイ)村があった。現在港尾村跡はマレー人の土地になっている。そのため追悼碑の「港尾村荘蒙難華族同胞紀念碑」は庇勝華人義山にある。この碑は1982年2月に作られたものであり、碑には「英霊不泯」「浩気長存」と記され、下に碑文がある。
1942年3月16日、日本軍はこの村の谷間で成人426人、未成年249人の計675人を虐殺した。この虐殺で生き残ったのが、クアラルンプルの8・15集会で証言した簫文虎さんである。簫さんを母親が抱きしめてかばったために7箇所を刺されたが、致命傷にはならなかった。簫さんの弟は目の前で刺殺された。家族5人中4人が殺された。ひとりとなった簫さんは夢の中でいつも母親とであった。簫さんはインドネシアで養父に育てられるが、苛められ、養父から逃げた。簫さんは、ここにいつか戻ってきてしっかりとした墓を作りたいと考えていた。「港尾村荘蒙難華族同胞紀念碑」にはこのような簫さんの想いがこめられている。
幸存者には孫建成さんもいる。孫さんは祖母と隠れていて助かった。孫さんは日本政府や天皇に補償を求める手紙を数回出しているが、それらは日本大使館で反故にされている。返事はまったく出されていない。
このような幸存者の賠償要求の高まりの中で、マレーシア中華大公堂聨合会は1995年・96年・97年と公的謝罪と賠償を求める文書を日本国首相宛に提出しているが、日本政府は要求に答える誠実な対応を今もしていない。
Bイロンロン・ペルタン
シェレブ県ティティでは錫鉱山開発によって華人が集まった。ここは華人が多く、抗日救国運動が盛んな町であり、共産青年同盟の活動もおこなわれていた。ティティ近くのジュルドンの村は余朗朗(イロンロン)といい、バナナやパイナップルが取れる豊かな土地であった。当時は200戸ほどが住んでいた。ティティ周辺の谷にはイギリスのゲリラ部隊や抗日軍がいた。そのため日本軍は1942年3月18日にイロンロンの村を襲い、多数の住民を虐殺した。
戦後、錫鉱山の開発中に大量の遺骨が発見され、1979年にティティの華人義山に「余朗朗蒙難華族同胞紀念碑」が建てられ、「蒙難華人総墳墓」が整備された。碑には老幼男女1474人の死が記録されている。
3月18日にはペルタンでも100人余が何箇所かのゴム園で殺されている。ペルタン(葫芦頂)の華人義山に1946年に建てられた「殉難同胞紀念碑」があり、この碑は1985年に修理され、さらに1997年に再建されている。ペルタンの墓地には5基の「殉難烈士墓」もある。墓石には3つの星が刻まれているものもある。5人の名は陳友、阿珠、丘和?、蕭偉良、丘南である。
出会った墓地の管理委員会の謝水生さんは、真実を伝えることの大切さとともに現在の日本の海外派兵の動きへの懸念を語った。
Cマンティン
セレンバン県のマンティン(文叮)では1942年3月22日に萬福利ゴム園で200人が虐殺された。日本軍は村民を縛りあげて空き地に集めて殺害した。死体は収容されずそのまま放置され、数日後に親戚の者たちが埋葬した。しかし、引き取り手のない死体は放置され、死骸が野原一面に横たわる状況だった。のちに遺骨は2個のドラム缶に入れられて埋葬された。
中華義山委員会の調査によって郊外の草むらからドラム缶入りの遺骨が掘り出された。1982年に「文叮義山萬安墳」が作られ、さらにその横に1985年に「文叮華人日治蒙冤紀念碑」が建てられた。
セレンバンからは、1942年8月には華人とインド人を中心に780人が泰緬鉄道の建設現場へと連行された。泰緬鉄道現場への連行者数は4万人を超えるというが、その一部である。この連行を証言したのが宋日開さんである。貨車に乗せられてビルマ国境近くのテーモンタに連行されて労働を強いられ、1946年7月に帰還した。4年後に帰還できたのは780人のうち49人だけだったという。宋さんは1987年から日本政府に未払い賃金の支払いを要求し、来日して証言もおこなった。
Dスンガイルイ
スンガイルイ(双渓?)はネグリセンビラン州の北部ジュンプール県にある。スンガイルイは鉄道線にある400世帯ほどの村であり、ここでは米やイモ類がたくさん採れた。大勢の人々が買出しに訪れ、駅前の広場には商店街もあった。いまのスンガイルイとは別のところに村があった。
このスンガイルイ村での住民虐殺は1942年8月29日に起きた。抗日ゲリラがスンガイルイ方面から来たという情報により、日本軍がバハウから汽車で来て人々を殺害し、村を焼き払った。生き残ったのは華人は数人という。死体は放置され、一週間後にババウの住民が埋葬に行くと銃殺や刺殺された女性と子どもの死体が15~20人ずつ積みあげられ、家は皆焼き払われていた。死者は368人分数えたという。遺体は村から600メートル離れたところに埋められ、1947年に追悼碑が建てられた。その後、この地はマレー人の土地となり、碑の存在は忘れられていたが、1984年に地元民の証言から碑が発見されることになる。再調査の時には、スンガイルイ村の跡に鉄製のベッドがひとつ残されていた。
碑の上部には「1942双渓?」とあり、中央に、「民国31年8月29日」と被害日が記され、その横に「華僑殉難参佰六十八位紀念碑」と刻まれている。犠牲者数368は遺体処理のときに数えられたものであり、殺された数はこれ以上であったとみられる。
おわりに
クアラルンプルでマレーシア留学生協会や現代史研究会と交流する機会があったが、日本の軍拡と戦争策動や歴史認識・日米安保の動きについての危機意識が次々に示されたことが印象的だった。人格形成における他言語の習得などの国際感覚が、窮地に至っても他民族を殺害しない選択を取る事例なども示された。スランバン生まれの林福源さん(64歳)は、占領下、まだ幼なかったが日本人を恨み、トイレで便をするときに「東京爆撃!」といっていたというエピソードを紹介した。
クアラルンプルの中国系の書店に入ると、日本軍占領期の暴虐を示す中文の書籍が数多く揃えてあった。一方、日系の紀伊国屋書店に行くと、人文コーナーに歴史修正主義の「つくる会」系の小林の漫画や藤岡の本が並び、一般書ではタイやフィリピンの買春本まで並んでいた。店の現地人店員に聞くと、日本人スタッフが本を並べているという。戦争肯定・女性蔑視の文化侵略が今もおこなわれているのである。
グローバリゼーションの中で、バングラディシュ・インドネシア・フィリピンからマレーシアへの労働移民も多いという。
環境汚染もすすみ、ARE社の放射性廃棄物汚染のみならず、工場汚水、プラスチック製のごみの増加、ホテルやゴルフ場からの汚水、排気ガス、化学製食器類からの内分泌攪乱物質など、豊かな緑の島では深刻な環境破壊がすすんでいる。街にはホンダやスズキのオートバイが走り、奥地の小さな村にもホンダの看板があった。ホンダ・スズキ・ヤマハとの関係が深い浜松は、新たな帝国の拠点ともいえるだろう。
グローバリゼーションの中での新たな社会運動もまた求められている。
シンガポールやペナンをはじめ陸軍部隊による爆撃がマレー半島各地でおこなわれている。これらの調査についても課題である。
旅行後、蔡史君編『新馬華人抗日史料1937−1945』を入手した。この本は第136部隊のリーダーであった荘惠泉が収集した資料を許雲樵が編集し、それらを蔡史君が再編集して出版したものであり、マレー半島各地での日本軍の支配について詳細にまとめられている。この資料集の解読も課題である。ここには継承すべきだが、日本では知られていない事柄がたくさん記されている。
今回の旅は墓石の前に立つことが多い旅だった。墓の持つ歴史的意義について教えられた。
参考文献
蔡史君編『新馬華人抗日史料1937−1945』文史出版1984年
林博史『華僑虐殺 日本軍支配下のマレー半島』すずさわ書店1992年
高嶋伸欣・林博史編『マラヤの日本軍』青木書店1989年
陸培春『観光コースでないマレーシア・シンガポール』高文研1997年
『資料・マレー半島における日本軍の住民虐殺』東南アジアで考える旅の会1988年
『侵略・マレー半島1999』東南アジアで考える旅の会2000年
『アジアの声第3集日本軍のマレーシア住民虐殺』東方出版1989年
高嶋伸欣「東南アジアに戦争の傷跡を見る1985(1)~(5)」『未来』1985~86年
高嶋伸欣「マレーシア中華大会堂聯合会による対日賠償請求覚書」『琉球大学教育学部紀要54』1999年
小林正弘『シンガポールの日本軍』汐文社1986年
鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社1981年
唐松章『マレーシアシンガポール華人史概説』鳳書房1999年
『馬来亜抗日紀念碑図片集』雪隆区紀念碑日据時期殉難同胞委員会1999年
清水愛砂「マレー半島の住民記念碑紹介」(季刊戦争責任研究5・6)1994年
『第2回マレー半島ピースサイクル報告集』1997年
1999年9月記・2006年9月記事更新
(竹内)