朝鮮人の放置遺骨と死亡状況

占領・植民地支配による移民と戦時下で労務や軍務へと強制的に連行され、死亡して放置されたままの朝鮮人の遺骨が全国にある。戦後、民団によって約2200体が返還されたというが、放置されたままの遺骨がある。占領・植民地支配とそのなかでの強制連行の歴史がいまも清算されていないことを物語る。

 

1 放置された朝鮮人の遺骨と返還

200311月に韓国で「過去事真相究明に関する特別委員会」が組織され、20042月には「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」が制定され、11月には「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が発足した。20052月には被害申請が始まり、申請は20万件をこえるものになった。そのうち労務動員関係の申請は約14万6000人、うち死亡・行方不明は約2万3千人であった。

このような動きのなかで、200412月の日韓首脳会談で韓国は日本に未返還遺骨についての要請をおこなった。それにより日本政府の取り組みがやっと始まり、20055月には連行関連企業108社に調査票を送った。日韓政府間での遺骨問題の協議も始まり、5月末には審議官級遺骨問題日韓協議がもたれた。そこは、人道主義・現実主義・未来志向の原則を確認し、未返還の民間徴用と軍人軍属の遺骨の返還に取り組むことになった。各地の寺院や埋火葬関係書類がある自治体への調査もおこなうことも合意した。

9月末までに、51団体から147体分の遺骨情報があり、自治体からは721人分の遺骨情報が集まった。自治体721人分のうち氏名など身元特定につながる情報があったのは184人分であった。これらの情報は9月末の審議官級遺骨問題日韓協議で伝達された。

11月末の日韓の審議官級日韓協議では、遺族が確認された祐天寺138人分の遺骨を返還することや日韓共同での遺骨調査などが合意された。韓国側は厚生年金名簿や供託名簿の提供を求め、麻生鉱業の関係資料も求めるに至った。それは、このときの外相が麻生太郎であり、企業からの回答が8社しかないことに対する韓国側の抗議の意思の表れだった。これが2005年の経過である。20065月末までに確認された「民間徴用」関係遺骨は1668体になり、仏教界の調査では、曹洞宗は20075月までに42か寺、遺骨35体、過去帳510件を集約した。200711月の第5回遺骨問題協議では1720体分(自治体1511、企業147、宗教団体62)が報告され、韓国人遺族のフィリピン、パラオ、サイパンの巡礼実施についても合意された。

このような動きのなかで、2006年夏には市民の運動によって「韓国・朝鮮の遺族とともに・遺骨問題の解決へ」集会が全国28か所で開催された。しかし、日本政府は朝鮮からの遺族の入国を拒否するという非人道的な対応をとった。2007年には神岡と名古屋で現地調査と集会がもたれた。

朝鮮人連行の歴史的解明においては、その被連行者の名簿と連行による死者の名簿を作成することが課題であるが、放置された遺骨の送還も求められる。日本各地に朝鮮人の遺骨が散在していることが市民団体の調査でわかってきた。

これらの遺骨問題は、全国規模での遺骨調査、遺骨の返還、政府と企業自身による真相究明と遺族調査、賠償と再発防止のための基金の設立、強制労働の現場の国際友好の拠点化といった課題を提示している。報告されている主なケースをあげるとつぎのようになる。

 

 2 北海道

本願寺札幌別院の遺骨

浄土真宗内の調査委員会によって札幌別院にある朝鮮人の遺骨の存在が明らかにされたのは2001年のことだった。2003年2月には「強制連行強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」が結成され、真相究明・遺族調査・遺骨返還の活動がはじまった。遺骨は地崎組・鉄道工業・川口組ほかの土建企業が、軍事基地建設・発電工事や三菱美唄・北炭空知などの炭鉱で使った朝鮮人のものがほとんどであり、イトムカ鉱山での中国人の骨も含まれていた。名簿によれば100余人の骨が集められていることになるが、失われている骨も多い。これらの遺骨は合葬されていた。

韓国側の真相糾明委員会などの調査によって、菅原組による千島の軍事基地建設で死亡した金益中さん、三菱美唄内鉄道工業による労働で死亡した具然浮ウんの遺族をはじめ、これまでに27人分が判明している。

この遺骨の発見と調査により、以前からその所在が指摘されてきた遺骨の再調査もすすんだ。たとえば、室蘭・日本製鉄輪西製鉄所、三菱美唄炭鉱、浅茅野飛行場建設、根室飛行場建設、北炭赤間炭鉱、茅沼炭鉱などでの未返還の遺骨である。三菱美唄では事故により坑道内に埋まったままになっている遺体もある。

浅茅野飛行場・日鉄室蘭

浅茅野飛行場については、200510月に「強制連行強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」による試掘が行われ、同フォーラムが中心になって2006年8月に「東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」が開催され、12体分とみられる遺骨の発掘が行われた。100人近い朝鮮人死亡者名簿も作成された。

室蘭の光昭寺には日本製鉄に動員され、艦砲射撃で死亡した朝鮮人鄭英得さん、李廷基さん、具然錫さんの3人の遺骨が残されていた。2005年になって鄭さんと李さんの遺族が室蘭を訪れた。遺族は遺骨に対面し、そこで初めて本名が記された。訪問時に遺族は、謝罪は行動で示されるべき、遺骨は遺物ではなく人間の生の痕跡であり、尊厳がある、強制的に連行して殺しておいて60年も放置することが正常か、と抗議し、真相が究明されない限り遺骨は受け取れないとした。

このことは、60年の放置の歳月を経て、真相究明なしでの遺骨の送還は、遺族の思いをさらに踏みにじるものになること、未来を切り開くことができるような返還事業が求められていることを示すものだった。

 20082月にはこの室蘭3人と北炭赤間炭鉱の趙龍文さんの遺骨が北海道フォーラムや室蘭、赤平の市民団体によって遺族に返還され、望郷の丘に納骨・埋葬された。

 

3 東北・関東

福島・常磐炭田関係

福島県での常磐地区の炭鉱関係では300人ほどの死亡者名簿が作成されているが、2005年の調査によれば、炭鉱付近の3つの寺院に3体、猪苗代の発電工事関係で寺院10体の遺骨が残されていることがわかった。相馬塩業への爆撃で20人ほどの朝鮮人が死亡したこともわかった。

 

秋田

秋田県では北秋田郡森吉町の福寿寺に、鹿島組が請け負った電源工事現場での死者の遺骨(「安田石枯」)が発見されている。小坂鉱山では寺の沢の共同墓地に埋葬されたといわれているが、その場所がわからなくなっている。花岡鉱山では、七ツ館坑での水没事故で11人が埋まったままになっている。発盛鉱山跡では無縁墓地が発見され、なかには朝鮮人のものもあるとみられる。

 

栃木・茨城

栃木県の足尾鉱山の近くにある蓮慶寺では梁山出身の「新井聖守」さんの遺骨が発見されている。

茨城県では茨城県朝鮮人納骨堂には連行期の朝鮮人遺骨52体が納められている。このうち49体が日立鉱山関係の遺骨であり、鉱山近くの本山寺にあったものである。『殉職産業人名簿』と照合したところ、1人の連絡先が判明した。

 

埼玉・金乗院

埼玉県所沢の金乗院には壱岐や対馬で収集された朝鮮人の遺骨131柱がある。これらは1945年、帰国の途中で遭難した人々のものである。内訳は、1976年広島の市民団体収集分の壱岐86体(清石浜80体・竜神崎6体)、1984年政府収集の対馬分45体(品木島32体・池畠13体)である。壱岐で収集された広島分は、三菱重工広島工場への連行者で枕崎台風により遭難した421人分が含まれているといわれてきた。しかし広島の徴用工が出発したのは9月であり、壱岐の遺骨は10月11日の阿久根台風による遭難者のものであり、別のものことが判明している。壱岐の遺骨については芦辺町役場作成の「大韓民国人遭難状況説明資料」が残されていて、それによれば168人の死亡を確認できる。対馬分について詳細は不明である。

 

東京・祐天寺

祐天寺には朝鮮人1136体分の位牌・遺骨がある。このうち北のものは430体ほどとみられる。これらの遺骨は朝鮮人軍人軍属や浮島丸事件等での死者のものである。祐天寺に遺骨が運ばれた経過をみるとつぎのようである。

政府は1948年に韓国に約7200人余の遺骨(遺骨分は786体・あとは位牌)を返還したが、送還できなかった2326体分を1971年にこの寺に移管し、さらにこの寺にBC級戦犯、特攻関係、浮島丸関係(280人分)が集められた。全てが遺骨ではなく、位牌がおおい。遺骨は計80箱の骨箱に入れられている。実骨は8%ほどとみられる。

2004年12月、真相調査団がタラワで死亡した金龍均氏の遺族の委任を受け、厚労省による身上書を調べてみると、遺骨の欄には「無」と記され、遺族の承諾もないまま靖国神社へと合祀されていたことがわかった。調査団が祐天寺で骨箱のなかを調べてみると、遺骨として収められていたものは、ダンボール片のようなものだった。また2002年には、朝鮮人軍人軍属8万9588人分の約9131万円の未払い金が、1951年に東京法務局に供託されたままになっていることが判明した。

これらのことから、政府は遺骨の返還も未払い金の支払いも放置してきたことがわかる。韓国内には、死亡通知書がなくて戸籍の整理ができず、財産権が認められない、あるいは子どもを戸籍に入れられないというケースさえある。占領・植民地支配と戦争動員の清算は今も終わってはいない。

2006年末までに祐天寺遺骨の240人分の身元が判明したが、沖縄戦で死亡したとされる金相鳳さんの生存がわかり、浮島丸では朴ジャンソさんも戦後も生存していたことが確認された。ほかには、朴チェボン、シンドンウ、ファンホスク、金チョンリムさん他1人の計7人の戦後の生存も確認された。韓国側の調査により、当時の厚生省による死亡登録のずさんさが明らかになっている。

2008年にはいり、政府・厚生労働省によって1月と12月に祐天寺の遺族が判明した遺骨の一部が韓国へと返還された。1月の返還の際には政府は追悼式への市民や国会議員の参列を拒否し、報道関係者の立ち入りについても黙祷の時のみに制限した。12月には少数の市民の参列も認めたが、60余年放置してきたことへの歴史的な責任をとるような言質はなく、返還遺骨のリストも非公開のままであった。それは死亡状況が明らかにし真相を究明しての返還ではなかった。1月の返還の際、政府は遺族に30万ウオンという少額の弔慰金を渡した。

 

東村山・国平寺の遺骨

東村山市の国平寺には金百植さんの遺骨(2000年死去)があったが、2004年になって遺族に引き取られた。金さんは1944年に陸軍に徴兵されたが、戦場で精神を破壊されずっと入院を強いられた。遺族によれば、日本政府からは60年間何の連絡もなかったという。住職の努力が遺族を探し当てることになったのだが、政府の無責任さがここでも示されている。国平寺の遺骨名簿を見ると、連行期の死者には1941年に秩父で死亡した慶北尚州出身の林武徳さんのものがある。国平寺に保管されている100体ほどの遺骨のほとんどが戦後の死者のものであり、統一後の帰還を求める遺骨という。4割が本籍不明であり、遺骨が早期に遺族のもとに戻るような対策が求められる。

東京ではこの他に、『東京大空襲戦災誌』(1974年)に朝鮮人とみられる50人の名が確認され、2005年12月に原本を確認し、慰霊堂の遺骨の管理状態を確認した。空襲での朝鮮人死亡者の実態把握は今後の課題である。

神奈川

神奈川では2005年に無縁仏41体が望郷の丘に送られた。そのうち36体は川崎市が緑ヶ丘霊園で25年ほど保管してきたものだった。川崎市による埋火葬認許証などの調査から国籍が特定され、返還になったものである。安置保管されていた遺骨には、氏名や本籍の情報があるという。真相調査がおこなわれれば、遺族のもとに返還されるものもあるだろう。

長野

長野では松代大本営工事に動員され、死亡した「中野次郎」さんの遺骨が2005年に望郷の丘に移葬された。遺骨は西松組関係者から地下壕に近い恵明寺に預けられたものであった。この遺骨は本名も本籍も不明であり、松代朝鮮人犠牲者追悼碑を守る会が追悼の法要をおこなってきたものであった。

 

4東海

清水・朝鮮人無縁納骨堂

静岡県清水の火葬場には朝鮮人無縁納骨堂がある。この堂は朝鮮人団体の要請により、清水市が1300万円の予算を組み、旧納骨堂を改装して、1993年に建てられたものである。この堂には90余の朝鮮人とみられる遺骨が納められている。

清水には鈴与などの港湾業、日軽金などの軍需工場、航空隊や高射砲などの軍事基地があり、朝鮮人が多数動員されていた。このなかで無縁となった骨も多かった。現在では朝鮮人団体が共同して追悼会を開いている。

 

愛知・東山霊安殿の無縁遺骨仏

名古屋市の東山霊安殿には、移転前までは4600体ほどの無縁仏が保管されていた。その無縁仏のなかには朝鮮人120人分があり、その事実は1991年に判明していた。1991年以降に保管された朝鮮人遺骨は115人である。東山霊安殿の移転の際の1999年に2700体ほどの遺骨の整理が行われ、そのうち朝鮮人遺骨は77体分が粉砕・合葬された。

この事実が判明したのは2005年のことだった。民団や総連など朝鮮人団体が調査を始め、調査のなかで朝鮮半島出身者遺骨調査会が結成された。東山霊安殿の朝鮮人名簿235人分を韓国の国家記録院の連行者名簿と照合したところ34人が一致し、その後の遺族調査によって9人の連絡先が判明した。粉砕された遺骨は現在、石川県の総持寺に安置されているが、2007年には総持寺の供養塔前で追悼行事がおこなわれた。

2006年には粉砕されていない遺骨の遺族が東山霊安殿で遺骨と対面したが、遺骨は全骨ではなく、遺族は遺骨を持ち帰れなかった。強制連行被害者だけではなく、無縁となった人々の遺骨の調査も求められる。

愛知県の中島飛行機半田工場では空襲により多くの朝鮮人が死亡しているが、その遺骨の行方についての調査も求められている。

 

岐阜

岐阜では神岡鉱山の発電工事現場で死亡した金文奉さんの遺骨の遺族が見つかった。2007年の「韓国・朝鮮の遺族とともに・遺骨問題の解決へ」集会に遺族が参加し、遺骨を受け取った。このときの神岡鉱山関係の死亡者調査で死亡者調査の手がかりとなる戸籍受付帳の存在があきらかになった。この間、神岡鉱山関係では光円寺・円城寺・洞雲寺などで26体の遺骨が発見された。高山の本教寺では戦後のものが多いが46体の遺骨が発見され、近隣の寺にも遺骨があることがわかった。

 

三重

紀州鉱山近くの本竜寺では、安陵晟さん、吉光進さんら4体の遺骨が確認されている(2005年)。民団三重はこれまで県内で76体の遺骨を発見し、望郷の丘に送っている。紀州鉱山については追悼碑建設の動きもある。

 

5 関西

 

大阪

大阪・天王寺の統国寺に運ばれていた「金丸泰玉」の遺骨については、岡山県の三井玉野造船所に連行された朝鮮人のものであることが、岡山での埋火葬認許証の情報公開請求によって明らかになった。出身は咸鏡南道、死亡日は解放後の11月のことである。

大阪では泉南郡岬町にある正教寺と興善寺で遺骨が発見されている。川崎重工の工場移転の際に建設工事に動員された朝鮮人関連のものが多いとみられる。興善寺の遺骨には林泰根のものがある。死亡年は1951年と戦後であるが、連絡先は不明である。遺族との音信は途絶えたままとみられる。

大阪空襲の際には多くの朝鮮人が死亡している。遺骨は大阪市設服部霊園、崇禅寺、善教寺、願力寺などに埋葬されたという。東淀川区・崇禅寺の戦争犠牲者慰霊塔と過去帳の調査から513人中110人ほどの朝鮮人名が確認されている。大阪空襲での朝鮮人死亡者の名簿を作成することも課題である。

 

兵庫

兵庫では相生市の善光寺に60人余の朝鮮人の無縁仏がある。相生には播磨造船所ができ、その関連で朝鮮人が多数集住するようになった。強制連行期のものもある。

神戸の東福寺には1945年6月の神戸空襲の際に、約50人分の朝鮮人と見られる遺骨が3つの石炭箱に詰め込まれて持ち込まれたという。川崎製鉄へと連行された朝鮮人との関連が指摘されている。

 

広島

広島では高暮ダム建設での朝鮮人の遺骨が6箇所で発見され、西善寺に収められている。

高知

高知の津賀ダム工事現場の無名墓には3人の朝鮮人が埋葬されているという。

山口・長生炭鉱

山口の長生炭鉱では1942年2月3日未明の水没事故で180人あまりが死亡し、そのうち130数人が朝鮮人であった。現在も死者は海底に埋まったままである。当時、西光寺では位牌をつくって葬儀をおこなった。韓国から遺族を呼んでの追悼祭が毎年2月におこなわれている。2005年には現地の「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」、真相調査団、総連、民団が共催して韓国から真相糾明委員会と遺族を招請してのフォーラムが開催された。遺族会は海底に眠ったままの遺骨の収集と返還を求めた。

2007年には65周年の追悼式が行われ、韓国から生存者2人も参加した。生存者の薛道術さんは1940年当時、三井関連の会社になり、創氏改名で「三井道術」に改名したと話した。金景峯さんは強制的に連行され、暴力で管理され、病気になって死線をさまよい、事故後に逃亡した体験を語った。

岩国の寺院では9体の遺骨が見つかっている。また岩国市によれば「岩国陸軍燃料廠戦死者名簿」に11人の朝鮮人名がある。

 

6九州

筑豊・無窮花堂の遺骨

「在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立委員会」によって、筑豊の寺院に残っている遺骨が収集され、2000年末に「無窮花堂」という納骨堂が建設された。同会は3000万円を集め、飯塚市は土地を国際交流広場として提供した。2002年には堂の周囲に歴史回廊を設置した。2004年に同委員会を「無窮花堂友好親善の会」とし、2006年にはNPO法人となった。無窮花堂には飯塚市周辺の観音寺・教天寺・善照寺・大徳寺などの寺院から100余りの遺骨が収集された。

この収集と遺骨調査活動のなかで三菱鯰田炭鉱での死者の遺族がみつかった。厚生省勤労局調査の鯰田炭鉱の名簿に遺骨箱の氏名があったのである。建設委員会の訪韓と遺族調査によって、2001年に文圭炳さん、2003年に金長成さんの遺族が飯塚を訪れ、遺骨が引き渡された。その後、無窮花の会のメンバーは強制連行の真相究明をすすめるために、周辺市町村に対して埋火葬認許関係書類や戸籍受付関係書類の情報公開を求めた。その結果、2000件近い朝鮮人関係資料を公開させることができた。

2005年には、田川市の無縁仏納骨堂で3体が確認された。田川市の法光寺には10数体が預けられている。なお、民団福岡県本部は1982年以降、500体以上の遺骨を韓国に移している。

北九州市には小田山墓地がある。そこには戦後の帰国の際に遭難して漂着した80体ほどの遺体が埋められている。ここでは追悼式が毎年もたれ、2005年には『小田山墓地・朝鮮人遭難の碑』という冊子が発行された。

 

長崎・旧誠孝院遺骨

解放直後に長崎の朝鮮人連盟が収集して保管していた154体の遺骨を、団体等規制令によって1949年に朝鮮人連盟が解散されたときに、日本政府はその遺骨も接収した。遺骨は1952年から長崎の誠孝院で保管されてきたが、1973年に長崎の民団によって韓国の木浦の納骨堂に移され、1985年には望郷の丘に移管された。そのなかには長崎の伊王島炭鉱に連行されて死亡した魚寅建さんの遺骨もあった。遺族の申請によって韓国の真相究明委員会が調査すすめるなかで、2005年になって遺族が遺骨と対面した。この事例は、遺骨の返還にあたっては真相調査をふまえて遺族に返還することが不可欠であることを示している。

誠孝院保管遺骨名簿と長崎に残る他の事業場との死亡者名簿とを照合すると、遺骨には三菱長崎造船、伊王島炭鉱、三菱崎戸炭鉱、大島炭鉱、佐世保市外工事場のものがあることがわかる。なかには他の名簿から連絡先が判明するものもあり、それらの遺骨の返還は今後の課題である。

鹿児島の鹿屋市営緑山墓地の外国人納骨堂には、朝鮮人の遺骨80体ほどが納骨されていたが、韓国に返還されたため、残っているのは20体である。

 

おわりに

中国・海南島での調査では1000人ほどの朝鮮人の殺害があったとみられている。シンガポールや南方各地で連行の実態など不明の事柄が多い。軍人軍属名簿の公開と分析が必要である。このほかにも各地に遺骨が残されている。

 1950年代半ばに中国人強制連行者の被害者の遺骨送還がおこなわれた。そのとき政府は外務省報告書の存在を隠蔽し、死者名簿や連行実態を「極秘」扱いにした。そのような対応は、華僑総会が報告書関連の文書を公開した1993年まで続いた。

朝鮮人強制連行についてみれば、1990年の韓国大統領の要請から多くの名簿が発掘され、韓国側に送られている。遺骨については、戦後初期に政府によって軍人関連の遺骨の一部が南に返還され、あるいは民間団体や個人によって返還されたケースはあるが、政府自身が真相を究明し、歴史的責任をとるかたちで返還されてはいない。日本政府による南方での遺骨収集・慰霊事業は日本人のみであったが、2006年からの慰霊事業に韓国人も加えることになった。韓国側による南方での追悼行事も行われた。放置されたままの朝鮮人遺骨は歴史の証人として、その解決を語り続けている。

 参考文献

曹洞宗人権擁護推進本部編『東アジア出身の犠牲者遺骨問題と仏教』曹洞宗宗務庁2007

上杉聰「朝鮮人強制連行被害者の遺骨送還問題」『世界』200612

内海愛子・上杉聰・福留範昭『遺骨の戦後』岩波書店2007

『無窮花通信』無窮花堂友好親善の会2005年〜

2007年浅茅野調査チーム編『2007年浅茅野調査報告書』強制連行・強制労働を考える北海道フォーラム 2007
『小田山墓地・朝鮮人遭難の碑』小田山墓地追悼集会パンフレット作成委
員会2005
2007在日朝鮮人歴史人権週間』「在日朝鮮人歴史人権週間」実行委員会2007『戦後60年犠牲者を遺族の元に』朝鮮人強制連行真相調査団資料集16 2005
『今、強制連行者の遺骨は』朝鮮人強制連行真相調査団資料集
17 2005
『今、求められる真摯な対応』朝鮮人強制連行真相調査団資料集
19 2006
『遺族の心痛を受けとめて』朝鮮人強制連行真相調査団資料集20 2007

『韓国・朝鮮の遺族とともに―遺骨問題の解決へ 2007年夏全国企画報告書』韓国・朝鮮の遺族とともに―遺骨問題の解決へ全国連絡会2007

2回真相究明ネット全国研究集会『レジュメ・資料集』強制動員真相究明ネットワーク2007

「解散団体朝連長崎県本部の接収遺骨名簿」

李修京・湯野優子「宇部の長生炭鉱と戦時中の朝鮮人労働者」『東京学芸大学紀要人文社会学系T 592008

                                       2009年3月
                                          2005年記事改稿補足

 

 二 連行期・朝鮮人の死亡状況

 

 連行期の朝鮮人の死亡状況を明らかにするために、各地の市民団体が調査してきた死亡者名簿を集約し、「強制連行期(1939年〜45年)朝鮮人死亡者名簿」を作成した。被連行者でなくても労災や病気で死亡したものも一部含む形で作成したが、多くが戦時の強制労働のなかでの死亡者である。日本各地の連行現場での死亡者は軍人軍属を含めてのものであるが、7500人ほどになった。これ以外にも多数の死亡者が存在するとみられる。この名簿は2007年に『戦時朝鮮人強制労働資料集』のかたちで神戸学生青年センターから出版した。その後、新たに500人ほどの氏名が判明した。

1980年代後半から静岡県の強制連行現場の調査をおこなってきたが、1990年代中ごろから全国的な調査を始め、最初に強制連行現場の全国地図を作成した。1990年代後半からは先行研究に学びながら福岡県筑豊の連行地域を調査し、連行期の福岡県内炭鉱の死亡者名簿を2001年に作成した。また、アイヌモシリ(北海道)の調査をおこない、連行期の北海道の死亡者名簿を2003年に作成した。これらの名簿は当初、手書きのものであったが、福岡・北海道などの市民団体に提供した。

朝鮮人強制連行真相調査団は各県での死亡者の名簿集約を提起し、2003年には犠牲者名簿の様式を示した。そのなかで、真相調査団メンバーによって福岡と北海道の手書きの名簿の入力がおこなわれ、その後、「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」の史料から氏名を追加した。これらの名簿は真相調査団によって福岡県と北海道の「犠牲者名簿」の形で2005から06年にかけて公開された。

2005年に朝鮮人遺骨問題が社会的な問題となるなかで、全国死亡者名簿の作成を2006年におこなった。日本各地の強制労働現場での死亡者名を収集するとともに、沖縄については「平和の礎」に刻まれた氏名や全羅北道分の軍人軍属の死亡者などからの氏名を入れ、千島分については全羅北道と慶尚道分の軍人軍属の死亡者の氏名を入れた。軍人軍属関係名簿の多くは閲覧ができず、全羅北道など一部の地域の名簿を参照した。また徴用船舶での死者名も採録した。福岡の名簿については、筑豊の市民団体が行政への情報公開請求によって明らかにした埋火葬関係史料から収集したから氏名を追加した。

名簿作成にあたり、名前や死亡年齢などで異なった表記があるときには、どちらかを選択した。編集するにあたり地名要覧・地図などで校正をしたが、正確な地名が判明せず、そのまま掲載したものも多い。埋火葬関係史料や過去帳史料などから氏名を採録する場合、年齢・死亡場所・申請人などの記載から労働者とみられるものをとり、この時期、朝鮮人の子どもの死者も多いが、採録しなかった。

大日本産業報国会の『殉職産業人名簿』、厚生省名簿、埋火葬書類、寺院資料などには、被連行者ではない朝鮮人死者も含まれているが、労働者とみなされるものについては名簿に掲載した。

 

 アイヌモシリ(北海道・千島)での死亡状況

 

 北海道で最も多くの朝鮮人を連行した企業は、アイヌモシリでの植民地開発をすすめた北海道炭砿汽船である。北炭については北海道大学と北海道開拓記念館に連行関係史料が保存されている。これらの史料の公刊が望まれる。それによって、朝鮮人を「チロ」と差別的に略称し、各地から次々に「連送」という名で連行してきた実態があきらかになる。これらの史料群は、強制連行・強制労働の史実を多くの人々に具体的な形で認知させることができるものであり、「強制連行はなかった」とする歴史歪曲の言辞の存在を許さないものある。

北炭の事業所は、戦時下で幌内・空知・夕張・平和といった形で統合がすすんだが、最も多くの朝鮮人連行があった場所は北炭夕張炭鉱である。北炭夕張への連行者数は15千人を超えるとみられる。

採録できた北炭での死亡者の多くは殉職者過去帳によるものである。十分な形で住所等があきらかになっているものは、坑夫台帳の一部が残されている幌内鉱の万字・美流渡坑だけである。栗沢町の死者も関連死者とみられるため万字・美流渡の後に入れて名簿とした。

北炭は三井財閥の傘下にあったが、三井は砂川・美唄・芦別などで炭鉱を経営していた。ここでは死者のかなりの数をあきらかにできたが、出身地については多くが不明である。砂川の過去帳資料からは労働者とみられるものを掲載した。千島を除く北海道の死亡者名簿の約3分の1にあたる700人ほどが三井系の北炭と三井の炭鉱での死者である。

三菱は三井と競合して北海道での炭鉱開発をすすめた。三菱は美唄炭鉱を拠点とし、さらに夕張に大夕張炭鉱を持ち、三菱系列としては雄別炭鉱があった。三菱美唄については連行死者の多くを示すことができたが、そのほかについては多くが不明である。

美唄での死者については埋火葬関係書類から転記した「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」の個表があり、白戸仁康編『戦時外国人強制連行関係史料集』V2上にはこの美唄の埋火葬史料などを利用した「美唄関係朝鮮人死亡者名簿」が収録されている。ここでは、「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」の記載事項から、子ども・老人をのぞいて労働者とみられるものを抽出し、出身地・届出人名・死亡地・居住地などから、三井・三菱の別に分類し、死亡年月日順に並べたものを作成した。この作業にあたり、白戸編の名簿を参照し、「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」の記載と異なるときにはどちらかを採用した。既存名簿の校訂を含め、より精緻な名簿作りが求められる。

住友については赤平・歌志内・奔別などでの死者を記載したが、すべてを記載できたわけではない。奈井江での死者については、住友の炭鉱のものとみなして記載したが、他の事業所での死者も含まれているとみられる。

住友の項に続いて、歌志内市の炭鉱での死者名を挿入した。歌志内市には北炭空知神威坑・住友歌志内・三井砂川文殊坑などがあり、歌志内の死者名はこれらの炭鉱での死亡者を示しているとみられる。今後の調査による分類が求められる。

北海道名簿のうち1300人余が三井・北炭・三菱・住友関係の炭鉱での死亡者である。そのほかの炭鉱については茅沼・東邦弥生・浅野雨竜・昭電豊里などで、死亡者のかなりの数が判明している。このほかの炭鉱や財閥系の三菱大夕張、雄別などの死亡者については多くが不明である。

鉱山については、住友鴻之舞鉱山とイトムカ鉱山での死亡者が判明しているが、ほかの鉱山での死亡者についてはわずかな数しかわかっていない。

軍事基地建設、発電工事、鉄道建設などの土木工事について、まとまった形で死亡者名が判明し、ここで掲載できたものは、雨竜発電工事・計根別飛行場・浅茅野飛行場・牧之内飛行場などである。その他についてはわずかな死者名しか入手できなかった。

北海道札幌別院の放置遺骨にみられるように、菅原組・川口組・地崎組・鉄道工業などは多くの朝鮮人を連行し、戦時下で奴隷的に酷使した。このような労務管理を利用して、北方での軍工事が行われている。この工事での死亡者名は多くが不明である。

軍人軍属としての連行による死者については、厚生省資料を基に作成された『被徴用死亡者連名簿』がある。そこには海軍の大湊施設部などに連行され、北方で死亡した朝鮮人名が多数掲載されている。ここでは主として全羅北道分の名簿から死亡者をあげた。大湊施設部へと連行された多くの朝鮮人が、浮島丸事件での死亡以外にも北方の海で死を強いられたことがわかる。

千島で死亡した朝鮮人軍属は700人を超えるが、ここでは『被徴用死亡者連名簿』などから500人ほどの氏名をあげた。この『被徴用死亡者連名簿』については、全北・慶北・慶南分しか閲覧できていない。未見の『被徴用死亡者連名簿』の分析から、さらに多くの死者名を追加することができる。それは今後の課題である。

サハリンの炭鉱での死者については資料を入手できなかった。

 

 本州・四国での死亡状況

 

浮島丸関係の死亡者については青森の項で集約した。浮島丸関係では大湊施設部、大湊関連の土木、日通大湊支店への連行者が多くいる。労働者と判断できないものや子どもは除き、大湊施設部の下に組み込まれていた土木業で組名が判明するものについては記入した。大湊関連の土木現場や十和田発電工事での死者名については多くが不明である。 

日鉄釜石関係では名簿が発見されているため、死亡者名がわかる。釜石関連の土木工事や鉱山での1942年後半以後の死者名については明らかではない。岩手県には追悼碑があり、市民団体によって死亡者名簿が作成されているが、今回の調査では入手できなかった。

宮城・秋田については厚生省勤労局名簿があり、そこに死者の記載もあるが、全てが判明しているわけではない。名簿から死亡状況がまとまった形で把握できるのは三菱細倉鉱山と花岡鉱山である。

福島については沼倉発電工事での死者名が明らかになっているが、住所などは不明である。常磐の炭鉱地帯については、長澤秀「戦時下常盤炭田の朝鮮人鉱夫殉職者名簿」(『戦時下強制連行極秘資料集W』所収)があり、この調査によって約300人の死亡者名をあきらかにすることができる。茨城県側の炭鉱関連の死者については多くが不明であり、今後の調査が必要である。

 足尾鉱山、木戸ヶ沢鉱山、日立鉱山については厚生省勤労局名簿があり、死者の状況がわかる。日立鉱山へは4000人を超える連行者があったがすべての死者が判明したわけではない。日立鉱山については本山寺の過去帳資料による名簿も参照し、労働者とみられるものをあげた。

群馬・栃木の地下工場や発電工事などの土木現場での死者については不明のものが多く、今後の調査が必要である。埼玉県や千葉県での死亡状況についても多くが不明である。戦争末期には埼玉では地下工場が多数建設され、茨城では軍事飛行場の建設がすすんだが、それらの現場での死亡状況については不明である。

 東京については、海軍軍属として芝浦に連行された朝鮮人のうち東京空襲での死者110人余(慶尚道分)が判明した。空襲によって江東などの軍需工場地帯に連行された朝鮮人も多数が死亡したとみられるが、その氏名は多くが不明である。また、三多摩での軍需生産現場や地下工場建設現場への連行の実態の解明も求められる。陸軍徴用船については御蔵島付近で雷撃された立山丸に多数の朝鮮人が乗船していたことがわかった。

 神奈川では相模湖発電工事、横須賀海軍工事での死者名が判明しているが、連絡先などは多くが不明である。横須賀海軍施設部に連行された朝鮮人は南方へと連行され、南方で死亡した人々が多いが、ここでは南方での死者は集約せず、横須賀など日本内での死亡者を記した。

 新潟での発電工事や三菱佐渡鉱山での死者は初期のものしか判明していない。福井の中龍鉱山も同様である。石川・富山での死者について明らかになっているものはわずかである。富山の発電工事などでの死者名の発掘が求められる。岐阜については神岡鉱山、神岡発電工事、兼山発電工事などでの死者が明らかになっているが、地下工場工事関係の死者については不明である。

 長野については平岡発電工事での死者が埋火葬関係資料から明らかになっているが、それ以外は多くが不明である。長野の場合、厚生省勤労局名簿があるが、死亡者数のみの記載が多く、氏名不明のものが多くある。多数の死者を出したとみられる松代大本営建設について判明している死者数はわずかである。

 静岡については大井川の久野脇発電工事での死者名の一部が判明している。日本坂トンネル工事や地下工場建設、伊豆や天竜の鉱山での死者については不明のものが多い。

 愛知については中島飛行機半田工場や豊川海軍工廠での空爆による死者名と震災による三菱航空機道徳工場での死者名が判明している。名古屋市街での空襲による連行朝鮮人の状況については不明である。豊川海軍工廠では123歳の在日の朝鮮人が動員され空襲で死を強いられたことがわかる。

 三重については紀州鉱山での死亡者名が一部あきらかになっているが、それ以外は多くが不明である。

 舞鶴については軍人軍属関係名簿から死亡者名が明らかになったが、今回照合した軍人軍属関係名簿は一部であり、今後の調査によってさらに多くの死者の名が判明する。舞鶴で公開された寄留名簿関係資料の分析も必要である。

 和歌山については軍事徴用され沖合で雷撃された盛京丸に多数の朝鮮人が乗船していたことが判明した。軍需工場や鉱山での死者については今後の調査が必要である。

 大阪については多くの軍需工場に連行があり、空襲でも多くの死者が出たとみられる。その実態については一部が明らかになっているが、名前だけのものが多く、今後の調査が求められる。

 兵庫については厚生省勤労局名簿に死亡者名の記載があり、川崎製鉄葺合、三菱造船神戸、播磨造船所、三菱生野鉱山、三菱明延鉱山などでの死亡者名が明らかになったが、全てが明らかになったわけではない。

 岡山では埋火葬史料の公開により三井玉野造船所での死者名が明らかになっている。三菱重工水島関係については不明である。

 広島では多数の朝鮮人が被爆死し、その中には連行朝鮮人も多数含まれていたとみられるが、その氏名については把握できていない。三菱の広島工場へと連行された人々のうち、246人は帰国中に遭難したとみられるが、その名簿についても今回は入手できなかった。横須賀と同様に、呉からも南方へと多くの朝鮮人が軍属として連行され、死亡している。その死亡状況は『被徴用死亡者連名簿』に記載があるが、呉から南方へと送られて死亡した人々についてはここでは記していない。

 住友別子鉱山の死亡者については不明のものが多く、四国での死者についても同様であり、今後の調査が必要である。

 山口については炭鉱関係で200人ほどの死者名をあげたが、半数以上が長生炭鉱のものである。1942年以降の宇部地域の炭鉱での死亡者については史料を収集できていない。光海軍工廠や岩国の軍事基地関係での死者については、市民団体によって埋火葬関係などの資料が発掘されているが、今回の名簿作成では入手できなかった。徴用船舶関連では20人余の死者名が明らかになった。

 

九州・沖縄での死亡状況

 

福岡については厚生省勤労局の名簿があるが、そこに名簿類は少なく、大炭鉱については三井三池炭鉱万田坑、三菱鯰田炭鉱のものしかない。

近年、強制動員真相究明筑豊委員会の情報公開請求によって飯塚・宮若・山田市などの炭鉱地帯の埋火葬関係資料や受附帳が公開された。公開史料では死因が非公開とされたものが多いが、なかには坑内での事故死がわかるものもある。 

この公開史料によって、麻生・三菱飯塚・貝島大之浦・住友忠隈・古河目尾などでの朝鮮人死亡者の名前を確認することができた。

この間、個別調査がすすめられ、過去帳や名簿などから三菱方城、豊州、古河大峰、明治赤池、三菱鯰田、日鉄二瀬、三井三池万田などでの死亡者名が、全てではないが明らかになった。しかし、その他の炭鉱での死亡者については判明しているものは一部のみである。今回、福岡関係で1300人弱の名簿を作成したが、少なくみても倍以上の死者が存在したとみられる。

山田市の死亡者については、公開された受附帳では死亡地・年齢が不明だった。そのため分類ができず、ここでは「山田市・炭鉱等」と一括して記した。このなかには上山炭鉱での事故の死者とみられるものが多くある。

貝島大之浦炭鉱での死者については1939 年初めのものも入れた。貝島での朝鮮人労働の歴史は長く、初期の先行的な連行状況を示すものと考えたからである。一部の現場では動員が1938年ころから先行的におこなわれていたとみることもできる。 

福岡の西照寺万霊塔の三菱上山田炭鉱関連の死者の場合、年齢不明のため全員の名を記した。

解放後、福岡から朝鮮へと帰国する際に遭難した人々も多いが、その氏名については収集できていない。

佐賀については、過去帳を収集して作成した死亡者名簿が存在するが、今回は入手できなかった。佐賀と長崎については厚生省勤労局名簿があるが、死者については記載されていないものが多い。佐賀では立川・唐津・大伊万里など炭鉱の死者が多数判明しているが、全てではない。杵島炭鉱関連では多くが不明である。唐津炭鉱について付言すれば、抵抗運動をおこない弾圧された人々の復権も求められると思う。

長崎については、三菱崎戸、三菱高島端島坑では埋火葬史料の発見によって死亡実態が明らかになっている。日鉄関係の炭鉱での死者も明らかになっているが、全てではない。大島、潜龍、鯛之島、伊王島などの炭鉱の詳細な調査が求められる。

佐世保施設部にも多くの朝鮮人が軍属として連行され、南方を含めて各地に連行された。ここでは九州周辺へと連行されて死を強いられた人々をあげた。

原爆による朝鮮人の死亡状況については、「長崎朝鮮人被爆者一覧表」から労働者とみられるものを採録した。この史料の典拠には長崎市の受附帳からの記事もある。行政史料の公開をすすめることによって朝鮮人の死亡状況をいっそう正確に把握できるだろう。長崎・広島での被爆による朝鮮人の死亡者についての名簿の作成と公開も求められる。

朝鮮人連盟長崎県本部が保管していて接収された100人余の遺骨については、今回の死亡者名簿の作成によって、三菱崎戸炭鉱、伊王島炭鉱、三菱長崎造船、大島炭鉱のものが含まれていることが判明した。これらの遺骨は1944年後半から45年にかけての死者のものが多く、死後も返還されなかった遺骨が多くあったという状態の一端を示すものといえる。

今回の名簿作成では、戦後日本に放置され、その後民間の遺骨収集によって韓国に送還された人々の遺骨関係の名簿類は入手できなかった。それらの名簿と今回の名簿を照合することは今後の課題である。望郷の丘などにある名簿の調査も課題である。

戦争末期には鹿児島・熊本・宮崎には軍事飛行場が建設され、鹿児島には多くの特攻艇のトンネルが掘られた。これらの工事での朝鮮人の連行と死亡状況については、一部が判明しているにすぎない。今後の行政関係資料の発掘が求められる。

沖縄では基地建設と戦争遂行のために、設営隊・防築隊・野戦修理隊・水上勤務隊などのかたちでさまざまな連行がおこなわれた。「慰安婦」の形で連行された女性も多くいた。沖縄の「平和の礎」には朝鮮半島出身の死者名433人分(20076月現在、北82人、南351人分)が刻まれている。ここでは、そこに刻まれた氏名をあげ、『被徴用死亡者連名簿』の全羅北道分と徴用船員関係の名簿と照合した。本名と創氏名が異なるためすべてを照合することができず、重複もあると思われる。軍人軍属名簿の分析や軍夫とされた人々の側の資料の収集がすすめば、より正確な名簿とすることができる。

九州や日本周辺の海上での死亡者の一部もあげたが、硫黄島、小笠原諸島での死者についてはここでは記載していない。硫黄島は東京都に属しますが、ここで亡くなった朝鮮人も数多くいる。その氏名は全てではないが、明らかになっている。

以上、名簿を作成しての註釈・課題・感想などをあげた。

 

 

 

真相糾明にむけて

 

1939年から45年にかけて日本などに連行された朝鮮人は少なくみても労務関係で約70万人、軍務関係で約36万人の計100万人以上とみられる。

このうち筑豊の炭鉱地帯へと連行された朝鮮人は約15 万人といわれる。この数値は福岡県の史料からも妥当な数である。また北海道にも同数程度の連行があったとみられる。

この期間に強制労働の中で、労働災害で死亡し、病死した労務関連の朝鮮人労働者の数は1万人以上とみられる。また軍務関連では2万人ほどが死亡している。死亡者には軍属として南方や北方に軍事基地建設のために送られた人々も多くいる。軍務関連の死亡者については朝鮮各道の『被徴用死亡者連名簿』からその死者名を知ることができるが、欠落もある。「慰安婦」のかたちで連行され亡くなった人々の名前は不明である。

1944 年から45年については死亡者が増大していく。現地調査がおこなわれている労働現場ではその死者名が明らかにされてきたが、それ以外は不明のものが多いのが現状である。

ここでは、労務関連約5000人、軍務関連約2500人の朝鮮人死亡者を提示したが、労務関連ではこの3倍以上の死亡者が存在したと推定している。また強制労働によって疾病や重症を負った人々も多くいる。この戦時の強制労働の時代に連行現場近くに居住した朝鮮人の子どもたちの死亡者もこの数倍に及ぶ。

連行者の名簿と死亡者の名簿の作成は、真相糾明の第一の課題である。真相糾明・追悼・和解・友好のためにも、各方面からの死亡者名についての情報・史料提供を願う。他の資料などをご存知ならば、ぜひ教えてほしい。

今後、この名簿に記入されていない人々の名前が発掘され、また名簿上の誤り等がただされていくことができればと思う。作成した名簿が全国一覧表とともに、真相糾明の基礎となっていくことを望む。