2006年 
第19回「6.18浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会」



集会で示された米軍のチラシ

2006616日(金)に「6.18浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会」が浜松市の遠州教会でもたれた。主催は、浜松市憲法を守る会、静岡県西部地区平和遺族会。今年で1945年6月18日の浜松空襲から61年目となる。 

集会は「戦争体験を聞き、平和を考える」とテーマで、鈴木喜六、中村浪子、木村晴海、佐倉忠夫の各氏が戦争体験を語った。

鈴木さんは、篠原出身の69歳、敗戦時は小学校2年だった。集団登校で歩調をとって校門を入ったこと、1945年には神社や寺で分散しての教育となったこと、まともな勉強はできなかったこと、艦載機による機銃掃射で死傷者が出たこと、米軍のビラが投下されたこと、戦争が終わって明日から青空の下であそべると思ったことなどの体験を語った。

中村さんは1939年に小学校に入ったが教育の状態について語った。教育勅語の教育、毎朝朝礼で校長の訓示があったこと、物資が不足し、たけのこの皮や桑の木の枝を集めたこと、小4の終わりころからもんぺになったこと、5年生の時には25キロの遠足があり、「がんばりましょう 勝つまでは」、と歩かされたこと、薙刀の授業もあったこと、6年生の時には1時間正座して修身の授業を受けたこと、分列行進がありそろうまで何回もさせられたことなどを語った。そして、現人神天皇中心、日本を特別視した考え方の傲慢さが、アジアを軽視し残虐な行為に及んだことを忘れてはならないとまとめた。

本村さんは、福岡出身の1930年生まれ。自宅にはつづり方教育や国粋教育ではない人たちも出入りしていた。新興仏教青年運動にかかわる人もいた。しかし戦争となり、長兄はガダルカナルで戦死、自身は1944年に三池製作所へと動員された。中学時代は校庭にわら人形を置き、竹槍で突き刺す訓練をしたり、夜間行軍や爆雷を抱いて戦車に飛び込む訓練をした。文芸サークルがあり、批評しあうこともあった。戦後は再軍備反対のチラシを作り、目立つところに貼り付けた活動などを紹介し、戦争に対しての抵抗を呼びかけた。

佐倉さんは19443月に元城小を卒業、浜松空襲の体験を話した。浜松への空襲は30回を超え、爆弾・焼夷弾・艦載機による機銃掃射、艦砲射撃など激しい空襲にあった。

430日、当時第2中学に行っていたが、学校からみると猛烈な爆撃だった。元城から紺屋町までが燃えていた。JR工機部も爆撃され、機械がむき出しになっていた。元城の自宅に帰ろうとしたが、高町の坂を境に市役所側が燃えていた。私の家は残っていた。家族7人が死亡した家もあった。胸にこぶし大の内出血があってなくなった姿は今も忘れられない。空襲で小さくなった遺体を箪笥に入れて棺代わりにした。顔にめがねを書いて遊んでいたが、書いためがねの後が消えないまま亡くなった友もいた。

佐倉さんたち元城小の仲間は、そのような体験を継承するために文集を作った。佐倉さんは語った。当時13歳の子どもだったが、当時の教育によって米軍が上陸したらキャタピラに爆弾を抱えて飛び込むことを当然のように考えていた。「非国民」であることが、本当は「国を愛する」ことではないか。戦時の心理状態をいえば、焼夷弾の音も黒焦げの死体も慣れっこになっていった。そのようなことを繰り返さないことが大切だ、と。

4人の発言後、話し合いがおこなわれた。

浜松空襲について言えば、戦争体験の継承とともに、米軍資料の分析を含めて空襲回数の正確な状況を記していくこと、正確な死亡者名簿を作成していくこと、浜松の爆撃部隊の加害の記録を記すことなどが課題であると思う。   (竹内)