十一 浜北・天竜

 

1 浜北 平口 不動寺

不動寺には行基の作とされる不動明王像があります。行基が行脚の途上,疾病の流行を知り、彫ったものといいます。この像は「身代わり不動」として、開運・家内安全・無病息災・厄除けの像として信仰されてきました。

「武運長久」の願もかけられました。堂内の右手には豊橋第十八連隊の明治期の行軍を描いた「豊橋衛戍行軍の真景」という絵が展示されています。

不動寺の梵鐘は「夕焼けの鐘」として知られましたが、戦時期に供出されました。再鋳造によって寺に鐘が戻ったのは敗戦から三五年を経た一九八〇年のことでした。戦争の拡大は、日が暮れて夕焼けになっても、寺の鐘がならない状態を地域にもたらしたのでした。

 平口の不動寺・西福寺・徳生院には東京の東調布第一国民学校からの疎開もありました。

 不動寺は朝鮮からの渡来系の僧である行基の伝承とともに、戦勝祈願、戦時供出、学童疎開の歴史を語る史跡です。

 

2 浜北 平口新田 

一九四〇年四月の誤爆事故跡

 戦争の拡大と訓練の強化の中で、一九四〇年四月八日に平口新田に重爆機から三〇キログラム爆弾九発が誤投下されました。住民は四人が即死し、一人が入院後死亡、重症が一人、軽症が五人という大事故となりました。

 現場は共立十全病院から北西に二五〇メートルほどの地点です。

 

3 浜北 於呂

 赤佐小におかれた静岡県拓務訓練所

満州への開拓移民の送出のために浜松周辺では赤佐小と引佐農学校に拓務訓練所が置かれました。赤佐に収容された人たちは「新東亜建設」といったスローガンの下で「浜松村建設」に向けての訓練をおこない、浜名用水建設工事にも動員されました。

 この赤佐地区には「本土決戦」用の第一四三師団の輜重隊が置かれていました。

 

4 浜北 根堅 龍泉寺の兵士の碑

寺の入り口の右側に橋本茂之碑があります。碑文によれば、橋本は赤佐村で一九一二年に生まれ、一九三三年に輜重兵とされました。三七年に工兵第三隊員として、上海呉淞に上陸し、武漢攻撃に参加、三八年十二月応山の野戦病院で病死しました。三九年五月四日に村葬がおこなわれています。碑は四〇年五月に建てられたものです。

 

5 天竜 二俣 浜名用水取水口

浜名用水の取水口の竪坑が二俣町鹿島の県北遠総合庁舎の西方にあります。

浜名用水工事は戦時下の一九四二年から四六年にかけて食糧増産のためにおこなわれました。掘削工事には、市民が徴用され、朝鮮人も動員されました。中村組の下で動員された朝鮮人労働者の名簿が残っています。  

この浜名用水は浜北市新原で馬込川の基点となっています。

一九三〇年代に建設されたものに二俣線(現天竜浜名湖線)があります。また、天竜には戦時下、鈴木織機の地下工場や日本楽器の疎開工場が建設されています。

 

6 天竜 二俣 陸軍中野学校二俣分校跡碑

一九四四年の秋、遊撃戦用の幹部要員を養成するために二俣の旧工兵第三連隊の廠舎を利用して陸軍中野学校の分校がおかれました。

四期にわたり八〇〇人あまりがここで教育を受け、海を越えてアジア各地や本土決戦用の拠点へと派兵されました。二俣分校は三方原の飛行場を防衛する演習もおこないました。

碑は一九七九年一〇月に、天竜市と中野学校の校友会が建てました。碑の後ろには陸軍用地の石柱(第七号と第一〇号)が二本、抜かれたまま放置されています。

 

7 龍山 峰之沢鉱山での強制労働

龍山の日本鉱業峰之沢鉱山には朝鮮人・中国人が強制連行されてきました。連行された朝鮮人は約五百人、中国人は約二百人でした。

 中国人は連行と強制労働の中で八一人が死を強いられました。龍山の峰之沢鉱山近くにある妙蓮寺には「中国人殉難慰霊碑」があります

 その碑には侵略戦争時の強制連行による死者を追悼するとともに、再び他国への侵略を許さず、友好を願うことが記されています。八月にはこの碑の前で日中友好協会による追悼会が開かれています。

 死亡した中国人の遺骨を中国に返還することから市民レベルでの日中友好運動が始まりました。

 なお、佐久間の古河鉱業久根鉱山には約五百人の朝鮮人が強制連行されています。