二 浜松三方原 陸軍航空関係史跡

 

1 西山 浜松陸軍飛行学校本部隊舎

 航空自衛隊浜松基地内にある基地資料館の建物は、一九三三年に浜松陸軍飛行学校が設立されたときに本部隊舎としてつくられたものです。

 浜松陸軍飛行学校は飛行第七連隊の練習部が独立して編成されたものです。ここでは爆撃を中心とした研究・教育がおこなわれました。浜松飛行学校は毒ガス兵器の研究や満州での毒ガス投下・雨下演習もおこなっています。

 資料館内には当時の資料が展示されています。戦死者を展示する部屋は「栄光の間」とされ、過去の戦争を賛美しています。

2 西山 地下戦闘指揮所跡

 この施設は浜松基地の滑走路の南側にあり、アジア太平洋戦争末期に建設されました。建物は厚いコンクリート製の構築物です。

 一九四四年六月浜松陸軍飛行学校は浜松教導飛行団となり、実戦に投入されるようになりました。フィリッピン戦には陸軍航空最初の特攻隊として投入されました。

 この指揮所跡はこのような戦争末期の時代を物語る貴重な構築物です。

 

3 西山 陸軍飛行学校警備哨舎跡

 旧軍時代の警備用の哨舎の建造物が、基地正門から北方の警戒航空隊の建物の近くにあります。周辺道路から見ることができます。

 戦後、浜松の基地を米軍が横田の補助基地として接収しました。米軍占領期の建物が一つ基地内に残されていました。しかし一九九八年のAWACS配備に伴う基地の大規模な工事に伴い、米軍用の建屋を含め古い建物の多くが解体されました。

 

4 西山 陸軍爆撃隊発祥の碑

 基地資料館の入り口近くにあります。この碑は飛行第七連隊の正門を利用しています。碑の左側には陸軍爆撃隊の「戦歴」が記された碑文があります。満州・ノモンハン・中国各地・ビルマ・マレー・シンガポール・ニューギニア・フィリピン・沖縄・サイパンなど各地での爆撃を肯定的に記しています。

 浜松から派兵された重爆撃部隊は重慶などの中国の都市爆撃をおこなった陸軍部隊の中心となっています。

 碑文から、浜松が陸軍の空爆部隊の拠点であり、戦後もその空爆の歴史が反省されることなく認識されてきたこと事がよくわかります。

 

5 葵東 飛行第七連隊跡

 本田技研工業がある一帯に飛行第七連隊の本部が置かれていました。飛行第七連隊が浜松に移駐してきたのは一九二六年の一〇月でした。第七連隊は重爆撃と軽爆撃の部隊であり、浜松で爆撃の訓練をおこなうようになりました。また毒ガス爆弾の投下などの実戦用の研究も担うようになっていきました。

将校集会所(クラブハウス)や灯篭などが残っています。クラブハウスの庭園内には飛行第七連隊への天皇の訪問を記念した「御駐輦之碑」があります。

 一九二五年ころの飛行第七連隊の建設にはたくさんの朝鮮人労働者が建設を請け負った大倉組の下で働いていました。浜松基地内の排水路などは当時建設されたものを基礎としています。

 飛行機を整備した浜松分廠に動員された学徒によれば浜松三方原基地への空襲が毎日のようにあり、グラマンやロッキード機による機銃掃射を受けたといいます。整備は松林の中でおこなわれるようになりました。

 

6 小豆餅 第一航測連隊の碑

 小豆餅には、第一航測連隊という部隊が一九四二年に置かれました。この部隊は方向探知機や対空無線機を使って作戦の支援や航空機の誘導をする航測手の基本教育をおこないました。空襲が激しくなった四五年の七月に は滋賀県の日野町に疎開しました。

アジア太平洋での戦争の拡大にともない、この基地建設のために土地の強制的な収用がおこなわれました。連隊の桜並木が残っています。二丁目の公園には第一航測連隊の碑(一九八六年)があります

 

7 初生 長池

 中国での戦争の拡大とともに浜松での基地の拡張がすすみました。一九三〇年代後半に三方原台地に爆撃用の基地が拡張されていきました。基地から流出する水を貯水するために、三九年ころに掘削されたのが長池です。

 長池からの水は段子川につながり、佐鳴湖へと注いでいます。この基地拡張工事にも朝鮮人が動員されています。

 長池は、軍事基地拡張、毒ガス戦部隊の設置、強制連行がおこなわれる少し前の基地建設工事への朝鮮人動員などを示す史跡です。

 

8 初生 第7航空教育隊の門柱

 西遠工業用水場のところには第七航空教育隊(中部九七部隊)がありました。この部隊の門が三柱、工場の入り口に残されています。排水施設は当時のものです。この部隊が置かれたのは一九四一年二月のことです。ここでは整備教育などがおこなわれました。ここで飛行場部隊が編成され、アジア太平洋各地へと派兵されていきました。

 

9 東三方 三方原教導飛行団跡の貯水槽跡

 三方原教導飛行団は毒ガス戦用の部隊として一九四四年に、浜松陸軍飛行学校から独立したものです。防衛庁の自衛隊官舎のところに部隊がありました。

 官舎の北側、協同乳業の北方に貯水槽のコンクリートが残されています。この部隊は秘密部隊であり、イペリットやルイサイトといった糜爛性の毒ガスを敗戦時、約二〇トン保管していました。戦後、それを秘匿するために、浜名湖や周辺の溝に廃棄しています。

 廃棄されたガス缶は、戦後その姿をあらわし、その処理が求められるようになりました。

 

10 三方原 墜落碑「四勇士の碑」

 一九三七年三月一九日、四人乗りの九三重爆撃機一〇二九号が爆撃演習中にエンジン事故で墜落しました。碑には「空軍ノ飛躍拡張ヲ要スルノ秋 壮烈ヲ永く想フヘク」村民と相計って碑を建てる、とあります。

 軍備の拡張をすすめていたときの死亡事故が戦意の煽動に使われていったことがわかります。

 

11 豊岡 追分監的跡

 豊岡幼稚園の校庭の南側の丘には爆撃場を監視する監的がありました。監的は赤松、宮口、都田の計四箇所に置かれ、爆撃を監視しました。

 戦後三方原では不発弾での事故が起きています。一九四六年一月には農民が下半身を被爆し睾丸を失って死亡。農民が開墾中に鍬が爆弾に当たり即死したこともあります。一九四九年五月五日には子ども四人が死傷する事故が起きています。豊岡小近くで二人の子どもが爆死したときには、一人は肉が飛び散り肉片が少し残っただけであり、もう一人は破片が腹に突き刺さって死亡したといいます。

一九五三年には米軍による軍事基地建設のための農地接収の通告がありました。そのため、住民が旧三方原中学の講堂に集まり反対集会を開催しました。住民の反対で米軍による接収は中止となりました。

 

12 豊岡 掩体壕

 三方原中学の北東の民家に掩体壕がひとつ残っています。コンクリート製で、東側から格納するようになっています。

 この掩体壕は貴重な戦争遺跡であり、文化財として保存することが望まれます。

 

13   半田 舟岡山のトーチカ

 半田町・桜井製作所の南にある法源堂の西方にトーチカがあります。道路工事に伴い現地に移動されたものですが、原型を保っています。

 このトーチカは本土決戦用につくられたもののひとつです。この一帯は舟岡山とよばれ、ここから三方原へとのぼる坂を滝坂といいました。この滝坂の先にできたのが陸軍の三方原飛行場でした。この舟岡山は三方原への東からの進入口です。このトーチカは飛行場防衛のためにできたとみられます。

法源堂には坂上田村麻呂と大蛇の伝説が伝えられています。それは田村麻呂がエミシの抵抗を抑えたのち、舟岡に滞在しこの地の娘との間に子どもをつくりましたが、娘は大蛇の化身だったというものです。

このトーチカは一九四五年ころの本土決戦期を示す貴重な戦争遺跡です。

半田や有玉の遺跡・古墳群の遺跡調査の際には塹壕・一人用の掩体・飛行機用掩体などが発見されています。

 

14 半田 六所神社の平和観音

 六所神社は浜松医大から坂を下りた地点の南にあります。ここには、日清日露戦役記念碑、慰霊碑、忠魂碑があり、それらの前に平和観音像があります。

 記念碑には日清戦争に参加した3人、日露戦争に参加した三五人の氏名が刻まれ、忠魂碑には日露戦争での死者二人、慰霊碑にはアジア太平洋戦争(碑では大東亜戦争)での死者三六人の名が刻まれています。碑から日露戦に動員された人たちの多くが歩兵や輜重兵とされたことや、ほかに砲兵・騎兵・鍛工・靴工・雇員などのさまざまな役割を強いられていったことがわかります。

 当時、日本の民衆は天皇の臣民とされました。人々は天皇を崇拝する人間へとコントロールされ、兵士となることが義務とされました。この皇国臣民化の中で多くの人々が兵士とされ、アジアで民衆を殺害していくことになります。

忠魂碑から中国(当時は清)の本溪湖で戦死したことや中国で病気となり広島の病院で死んだことがわかります。彼らの前には他の民族の死者がいたはずです。日本人の死者のかなたに存在した他の民族の死者、そしてこのあとの、朝鮮を植民地とするための戦争の中での朝鮮人の死者にも思いをはせたいと思います。

 アジア太平洋戦争での死者の名前を見ると大高、大石、岡田、久米、小杉、鈴木、高羽、三輪ほかの名字があり、久米姓は六人、小杉姓は八人もいます。これは地域からの強制的な徴兵を示すものです。死を賛美した皇民化の結果がここにあります。

 碑群の前の平和観音は、戦争を肯定する碑群の記述の誤りを語っているように思います。

 

15 三方原 赤松鳥居の浄水盤と道標 

 半田から三方原へ坂を上ると、赤松鳥居のある東三方神社があります。この北方には陸軍三方原爆撃場の監的がおかれていました。

 奥山半僧坊を信仰する人々がこの地に松を植え、石碑や道標を建てました。一九四一年の六月、基地を拡大してきた陸軍は「敵の目標となる」ことを口実に、軍命によって鳥居、松、碑を撤去しました。戦後、軍用地は国営の開拓地となり、一九四八年赤松鳥居は再建されました。          

一九六四年のオリンピックの際、建て替えとともに東三方神社が建てられ、七八年にはコンクリート製になりました。一九四一年以来、西山の航空隊基地に保管されてきた浄水盤と道標は元のところへ返還されました。神社の説明板には「史跡と為し永く後世に残し民族文化顕彰に資する可きもの」とあります。

 軍によって奪われた浄水盤と碑は民衆によって奪還されて、今も現地にあるのです。この史跡は、軍事基地と民衆の攻防の歴史を示すとともに、文化が軍事を凌いで今に至ることを示すものであるといえるでしょう。          

 

16 浜北内野 赤門上古墳の壕 

浜北の内野にある龍泉院の北側に赤門上古墳があり、その古墳の南側に防空壕が残っています。この古墳は四世紀末の前方後円墳とされ、華紋日月天王四神四獣鏡などが発掘されています。

 この古墳は三方原の基地の東方にあります。後円部に立つと天竜川・三方原方面を展望することができ、軍事的拠点とされることが理解できます。本土決戦期には飛行場防衛の拠点となったとみられます。龍泉院の裏手に壕口が四つほど残存しています。

 古墳の調査報告書には、赤門上古墳の後円部には軍によって東西に貫通する壕が掘られたことが記されています。

 

17城北 陸軍高射砲第一連隊跡地(静岡大学)

城北三丁目の静岡大学の敷地には一九〇七年に歩兵第六七連隊が設置されました。この部隊は浜松の軍都化の核となりました。一九一四年、第一次世界戦争の際には大阪港から中国山東半島の青島へと派兵されました。連隊員は四三人が死亡し負傷者は二〇〇人余でした。青島の要塞を占領すると、浜松市民は、昼は旗行列、夜は提灯行列をしました。

この部隊は一九二五年に廃止され豊橋の第十八連隊に統合されました。軍の近代化は歩兵を減らし航空戦力や高射砲部隊を強化することとなったのです。

その後一九二八年に高射砲第一連隊が豊橋からここに配置されました。一九三二年の上海事変の際にはこの連隊から独立野戦高射砲中隊が編成されて派兵されました。三三年には浜松から派兵された陸軍飛行第十二大隊の拠点となった公主嶺へと、独立高射砲第二大隊が編成されて派兵されました。三七年七月野の中国全面侵略戦争の開始によって、同月に野戦高射砲三隊が編成され、八月には野戦照空隊四隊が編成されて派兵されました。その後次々に高射砲部隊が編成され、各地への派兵を繰り返しました。

さらにアジア太平洋での戦争拡大とともに、マレー、南方へと派兵されていきました。また名古屋を中心とした地域での防空隊も編成しました。

大学の北側の門や周囲の土塁にその面影が残っています。構内に一九三八年の転出者の碑があります。

 

18 和地山公園

ここは陸軍の高射砲部隊の練兵場でした。公園内に一九三〇年に天皇がここに来て閲兵をしたことを記念した碑があります。この碑は一九三一年に立てられました。

 

19 和合 陸軍病院跡〔リハビリテーション病院〕

陸軍衛戌病院は一九〇七年の歩兵六七連隊の設置とともに冨塚につくられました。その後和地山に移転し、この場所へと一九四三年に移転しました。

前庭の植え込みの中に「皇恩無窮」の碑があります。これは陸軍によって一九三八年四月一九日に建てられたものです。病院正門から左手の建物の隅に「陸軍用地」の石柱が数本残っています。病院周辺にも陸軍の石柱が残っています。また、病院の北側には地下壕が掘削されました。

 

20 住吉 陸軍墓地跡

住吉の青少年の家の前の公園には陸軍墓地がありました。「忠霊殿」の地下にはおおきな壕が掘削されました。公園左手に一九三二年の浜松陸軍墓地道の碑や、忠霊殿の右方に陸軍用地の石柱が残っています。

忠霊殿は一九四三年に戦争死者の遺骨を一時安置する場所として陸軍省によって建設されました。これまで遺族会が借用する形で管理してきましたが、老朽化によって解体が計画されています。この中にあった一〇八五七人分の位牌は二〇〇五年三月に処分を強いられました。位牌とともに戦災死者の名簿が収められていました。市がこの名簿を納める追悼施設を建設する予定は今のところありません。

陸軍墓地跡には、「英霊顕彰の碑」(一九八二年静霊奉賛会)、「平和記念の碑」(一九九五年浜松市傷痍軍人会同妻の会)の二つの碑があります。

戦後五〇年を記念して建てられた傷痍軍人会の碑には、傷痍軍人を自分たちで最後とすべき旨が刻まれています。

戦争で傷ついた人々の戦後の労苦は大きなものでした。「再び傷痍軍人をつくらせない」という思いは説得力のある反戦平和へのメッセージです。

 

21 冨塚・和合 軍地下壕群

軍によって和合・冨塚・神ヶ谷・住吉・幸にかけてたくさんの地下壕が掘削されています。基地周辺の壕はわかっているだけでも二〇〇箇所近くあります。

陸軍飛行隊の疎開は主として北方の細江・引佐方面へとおこなわれました。西方の伊左地小学校とその裏山には飛行隊の事務関係、根本山麓には燃料資材が疎開し、重爆撃機は三方原東北端の沢上地区の山林に隠されたといいます。

空襲が激しくなるなかで、軍は本土決戦準備をすすめていきました。南方の防御地点となりそうなところでは「藁草履に竹筒の水筒で、帯剣も銃も持たぬ兵士たちが汗をたらして陣地の構築を急いでいた」といいます(『大空襲郷土燃ゆ』)。

『とみつか』(冨塚公民館)には、オートレース場東には飛行機の避難用掩体壕、馬船平からゴルフ場にかけて誘導路、冨塚の福江の坂には軍馬収容用の壕などがつくられ、冨塚・和合の開析谷には軍隊が駐屯し丘陵に壕を掘ったと記されています。また、対戦車「肉弾」攻撃の訓練がおこなわれたといいます。

基地の南方にある高台公民館の西側には数本の壕が掘られました。壕口は塞がっていますが、塹壕のような形の誘導用の通路が残っています。 

権現谷川沿いにたくさんの壕が掘られています。権現谷橋、水神橋、三島神社などの周辺には現在も壕が残っています。また、幸の四ツ池公園の近くにも壕が残っています。

これらの地下壕群は文化財として記録・保存されるべきものです。

22館山寺 兵器研究

 館山寺では陸軍の兵器研究がおこなわれました。陸軍兵器行政本部の下で熱線吸着爆弾の研究がすすめられ館山寺がその研究拠点とされました。新堀運河の北側の旅館街が軍専用施設とされたのです。

この熱線吸着爆弾の部品は中島航空金属天竜製造所で作られ、浜松商業高校の講堂で組み立てられ、陸軍飛行場の第十一格納庫で爆撃機に搭載されたといいます。使用実験が浜名湖でおこなわれたのです。

浜名湖の内山海岸や三ケ日の大崎などで跳飛弾の投下訓練もおこなわれました。その訓練中に墜落する爆撃機もありました。