八 浜松西部 

 篠原・神久呂・入野・伊場・伊左地 

 

1 篠原小 戦争碑

 篠原小学校の西側に「千戴不滅」と記された戦争碑があります。この碑は一九五四年に篠原村が建てました。碑には日清戦争から太平洋戦争にかけての戦没者の氏名が記され、日清戦争七人、日露戦争四人、満州事変一人、日中・太平洋戦争三一九人の計三三一人の名前があります。

この碑の近くには歌碑があり、「吾が甥と一緒の志願兵なりきソロモンの海に潜みて還らず」という歌が刻まれています。この碑から青年を「志願」させ、ソロモンにまで連行し死を強いた歴史を知ることができます。

一九四〇年に浜名郡傷痍軍人会が建てた「紀元二六〇〇年」の柱もあります。篠原小の門柱は古いものですが、その扉は戦時に金属供出されたといいます。

篠原小には砲弾状の忠魂碑が残っています。この碑の近くには撤去された忠魂碑の台座が残っています。GHQの指示によって撤去された碑の跡といいます。これらの碑は八坂神社に一九五七年に復活します。

 

2 篠原 八阪神社の戦争碑

この神社の入り口には、日清・日露・第一次世界戦争関係の四つの碑があります。最右には「征清紀念碑」、その横に「昭忠の碑」、日露戦争の碑があり、左には第一次世界戦争関係の碑があります。昭忠の碑は日清戦争での死者、日露戦争の碑には死者名と従軍者名が記されています。

この日露戦争の碑は一九五七年に再建されましたが、碑の裏側には、「日本と外国と事のあった際、一身を捧げて国に尽くした日本男児を景仰」「国民至誠の象徴たる碑」とあります。「征清紀念碑」などの忠魂碑は戦後撤去されましたが、ここに復活したのです。戦争を肯定する思考がここには生きているように思います。

 

3 篠原寺の「太平洋戦争戦死者之碑」 

この戦死者の碑は篠原村が一九五三年に建てたものです。三六人の名前が記されていますが、鈴木姓が多く二五人を占めています。

この碑の左右には二つの墓碑があります。右側に鈴木吉次郎の個人墓(一九七九年)があり、見ると一九四四年にニューギニア島ツナモで戦死したとあります。左側には陸軍歩兵鈴木彌一の墓碑があります。かれは歩兵第十八連隊に召集され、一九三七年呉淞に上陸し、九月十三日に江蘇省泰家付近で戦死しました。二二歳でした。この碑は一九四〇年に篠原村が建てたものです。

日中戦争初期には、村が戦死者を称揚し追悼する形で碑を建てたのですが、戦争が拡大し多数の死者が出ていくなかで、村は碑を建てる余裕を失っていきました。一九四四年ころの南方での死者の碑は戦後建てられたものがほとんどです。

 

4 篠原 興福寺の戦死者墓碑

この寺の墓地には鈴木姓の六人の陸軍兵士の墓碑が並んでいます。

鈴木甚七は歩兵第十八連隊に入り、日清・日露と従軍しましたが、一九〇五年三月渾河での夜襲攻撃に参加し、被弾して死亡しました。三二歳でした。

鈴木一秋は一九三一年一月に現役志願兵として浜松の飛行第七連隊に入りました。満州侵略にともない中国へと派兵され、一九三二年十一月に除隊。のち、浜松陸軍飛行学校に勤務し、 一九四二年七月に航空兵として徴兵されました。中国各地を転戦し、杭州筧橋飛行場で戦死しました。二七歳でした。

鈴木彦一は一九二六年十二月に輜重兵第三大隊に入隊、翌年帰郷しました。一九三七年九月に徴兵され、第三師団の架橋材料中隊に入れられました。一〇月五日上海・?江碼頭に上陸しますが、攻撃され死亡しました。二七歳でした。

鈴木新一も三七年に一〇月に上海郊外海濱荘クリークでの戦闘で死亡しました。二七歳でした。 

鈴木勇は一九三八年一月に歩兵第十八連隊に徴兵され、四月歩兵第六〇連隊に転属。八月に中国中部に送られ、鎮江方面から侵攻しました。一九三九年一〇月三〇日に安徽省宣城県西河鎮付近で重傷となり、十一月二日死亡しました。二三歳でした。

このように日中戦争が始まると地域から多くの青年が中国大陸へと動員され、二〇代で生命を失うことを強いられたのです。

5 篠原 玉蔵寺の英霊供養塔

玉蔵寺には観音像があり、そこに英霊供養塔と記されています。その塔の左右に計五つの墓碑が並んでいます。これらは一九五五年につくられたものであり、刑部姓が多くみられます。

墓碑を見ると以下のことがわかります。刑部敏一は陸軍兵士とされ、一九四五年七月にフィリッピン・レイテ島のガルブゴス山で戦死、二三歳。刑部峯一は海軍軍属とされ、一九四五年三月硫黄島で戦死、四二歳。刑部清は海軍兵士とされ、一九四五年一月ニューギニア東北ウェーク南西方面で戦死、三八歳でした。刑部宗一は陸軍兵士とされ、一九四四年二月、輸送船はわい丸船上で戦死、二一歳。鈴木清作は陸軍兵士とされ一九四二年十一月、ガナルカナルで死亡、二七歳でした。

この碑群は南方へと送られて死を強いられた人々のものです。人間は、このような戦争に参加するために生まれてきたのではありません。このような戦争を開始し、戦争を継続した人々の責任は重く、永遠に問われるものであると思います。 

 

6 大久保「若林機戦死之地」の碑

一九四五年七月一日、飛行第一四戦隊の爆撃機が米軍機P五一に攻撃され、大久保町に墜落しました。爆撃機には十三人が搭乗していましたが、全員が死亡しました。この爆撃機は群馬の新田飛行場から八日市へと新型機の伝習教育に向かう途中で撃墜されました。訓練機であり、砲弾は実戦用に回していたため、一発も積んでいなかったといいます。また落下傘も積んでいませんでした。被弾して火をふきながら墜落したといいます。

墜落地には小さな「若林機戦死之地」の碑が一九八四年に建てられ、死亡者十三人の名が記されています。飛行第一四連隊の戦史によれば、連絡先がわかっているのはこのうち六人のみです。下級の曹長・伍長についてみると、八人中三人の連絡先がわかるだけであり、下級の兵士への連絡がとれないことがわかります。碑は国方橋のバス停を北に上り、池を右に見て坂道を登ると、民家の右方にあります。

墜落現地での聞き取りでは、一人は飛び降りたような形で、一人は上半身だけとなりバラバラになっていたといいます。エンジンは小さな谷に落ちました。墜落地にあった樫の木と松の木は、現在ではありません。碑の近くに一本の樫の木が残っています。墜落後六〇年を経、残った樫の木と谷の竹林が風に揺れています。

飛行第一四連隊は一九三六年に台湾の嘉義におかれました。浜松の爆撃隊から増殖していった部隊です。一九三七年八月にはこの部隊から独立飛行第一五大隊が中国へと派兵されました。この中隊は浜松から派兵された独立飛行第三中隊と合体し、飛行第九八戦隊となりました。この戦隊はアジアでの空爆を繰り返していくことになります。

一九三八年に飛行第一四連隊は第一四戦隊となります。一九四〇年には海南島に展開し、四一年には福州作戦や淅かん作戦に参加し、太平洋戦争がはじまるとフィリピン戦に投入されました。四二年にはビルマ・インド攻撃をおこない、カルカッタなどを空爆しました。四三年にはインドネシア、四四年にはフィリピンでの作戦に投入されました。四五年には戦隊の主力を水戸に移し、浜松での新型機の伝習教育に参加、さらに新田に主力を移動しています。

若林機の撃墜は新田に移動したあとに起きています。この墜落機について調べることで、浜松から台湾へと派兵された爆撃隊がさらに中国大陸へと派兵されたこと、その後、フィリピン・インドへと派兵され、浜松での教育などを経て本土決戦に投入されていこうとした経過を知ることができます。また敗戦状況の中で無防備な飛行を強いられ、今も死者の連絡先がわからないケースもあることがわかります。兵士とされた人々の生命は大切にされていなかったのです。

 

7 神久呂 忠魂碑

神久呂の消防団(第三二分団)の横に一九五四年に神久呂村が建てた忠魂碑があります。戦後に建てられていますが「忠魂」と記しているところが特徴です。そこには一七七人のアジア太平洋戦争での死者の名前が記されています。 大きな碑であり、上部は木の葉がかかっているため読めないところがありますが、原田や和久田の姓などが多くみられます。

和久田姓を拾うと和久田要一・哲太郎・峯一・績・文蔵・君雄・信司・芳次、ほかがあり、地域からの青年の戦争動員とその死がわかります。二〇代の青年が各戸から次々と戦場へと連行されていったのです。

横には、日清日露戦役紀念碑があり、日清戦争五人、日露戦争二五人の兵種と名前が刻まれています。原田・池谷・加藤の姓が多くみられます。日露戦争での兵種をみると歩兵をはじめ輜重兵・騎兵・砲兵・看護卒などがあり、さまざまな形での動員がわかります。 

 

8 大久保 大窪神社の碑

大窪神社は一九五一年に町内の四つの神社を統合して建てられました。その際、戦後埋められていた二つの碑(戦捷紀念碑と表忠之碑)が再建されました。この碑の前方には砲弾を使った碑が記念にたてられています。

もともと二つの碑は大久保町民有志によってともに一九〇七年に建てられたものです。戦捷紀念碑には日清・日露戦争への従軍者・日清戦一〇人・日露戦三〇人分の名前が記されています。和久田や袴田姓が多くみられます。表忠之碑には三人の戦死者の名前があります。佐野新作は歩兵とされ一八九四年一〇月に平壌の兵站病院で死亡。中村辰三郎は歩兵とされ一九〇四年九月に中国遼陽付近で戦死しました。伊藤新太郎は砲平輸卒とされ一九〇五年九月南ュの病院で死亡しました。

戦争を賛美しその戦闘をたたえる碑は戦争が終結とともに埋められました。しかし六年後には復活しています。このことはそのような戦争志向が反省されることなく温存されていたということでもあります。この碑の前に置かれている砲弾はその志向を物語っているといえるでしょう。

このような戦争肯定の思考が、さきにみた一九五四年の神久呂村による「忠魂碑」の建設につながっているとみられます。そのような戦争を肯定する考え方は市民を再び隷従させて戦争に送ることになりかねないものです。戦争をしないという正義や「忠」をこそ考えるべきではないでしょうか。

 

9 入野 戦争碑

入野の若宮八幡神社に戦役紀念碑があります。この碑には一九一二年に建設を計画したとあります。碑には西南戦争に行った竹村清十郎・袴田孫八の二人をはじめ、日清戦争二〇人、日露戦争五〇人の氏名があります。日露戦争での兵種をみると、歩兵・憲兵・砲兵・工兵・輜重兵・騎兵・砲兵輸卒などさまざまな形で動員されていったことがわかります。

 

10 入野 陽報寺の追悼碑群

陽報寺の墓地の中に中村芳太郎の墓碑があります。日露戦争に動員され、奉天の戦闘で戦死したことがわかります。

陽報寺の墓地の一角には、中央に像をおきコの字型に墓碑が並べられているところがあります。これは戦没者の追悼碑群です。それぞれの碑の横には死者の名前と死亡年月・死亡地などが記されています。一つ一つの記載を見ていくと、地域から多くの青年が戦争へと動員され、死を強いられたことがわかります。

以下列記すると次のようになります。なかにはシベリアに送られて死亡した人や、戦後に戦病死した人もいます。ほとんどが陸軍兵であり、戦死とされています。

 

名前  死亡年月  年齢 死亡地など

祇園寛洲              不明    32 上海戦病死 

竹村吉三郎一九三九・八 27 ノモンハン 

玉川喜太郎一九四〇・七 38 ビルマ・マンダレー                

玉川新三一九四三・一 30 ソロモン・海軍                            宗像儀一 一九四三・二 46 日本東方海上

鈴木藤作 一九四三・四 35 南洋群島 

生駒芳市 一九四三・七 23 ラバウル 

相曾幸夫 一九四三・十一28 ニューギニア

伊藤儁  一九四三・十二45 台湾沖・海軍軍属                    伊藤明  一九四四・二  24 南洋・海軍

伊藤輝二 一九四四・四 30 ニューブリテン・タクリル             

伊藤馨  一九四四・七 29 フィリピン

石井清太郎一九四四・七 26 マリアナ 

山田光治 一九四四・七 38 マリアナ方面

三戸秀勝 一九四四・九 31 マリアナ 

中野慶三 一九四四・九 26 マリアナ 

山田一雄 一九四四・九 28 マリアナ群島      伊藤等  一九四四・十二22 レイテ 

新野栄市 一九四四・十二26 レイテ・ブラウエン飛行場西方

伊藤武  一九四五・一 27 レイテ・リボンガオ              

水野高次 一九四五・三 38 ルソン・ブラカン州                 

竹村定一 一九四五・四 38 トラック諸島夏島                  

祇園真隆 一九四五・四 26 フィリピン

竹村補  一九四五・七 23 ネグロス

古橋勇二 一九四五・八 36 ビルマ・パンセーク村                

石井米一郎一九四五・八 22 孫呉負傷 北安で死亡              

竹村賢司 一九四五・一〇33 満州   

竹村瀧一 一九四五・一〇34 広東・兵站病院戦病死              

伊藤毅  一九四五・一〇27 マリアナ 

伊藤太平 一九四五・十一21 ソ連・ハバロフスク収容所              

竹村秀雄 一九四七・三 26 ソ連・ナホトカ戦病死              

竹村安雄 一九四七・八 24 陸軍鉄道兵戦病死        

一九四三年後半以降の死亡者がほとんどです。南方での死者が多く、遺骨自体が到着しなかったケースも多いでしょう。伊藤儁・馨・毅の三人はひとつの墓碑に連記されています。毎年続いて死亡の連絡を受けた家族の悲しみは大きかったでしょう。この入野の一つの寺の檀家からこんなにも多くの戦没者が出たのです。また戦場で傷ついた人も多かったといえるでしょう。

これらの死者は、人は戦争に行くために生まれたのではない、戦場にいかなくても良い社会を創造してほしい、と語り続けているように思います。戦争を始めたものの責任は永遠です。 彼らをアジアの最前線に送り込み、死を強いた ありようやその戦争の責任を問い続けることは、現代の私たちの課題です。それを問い続けることは、再び戦争の惨禍を繰り返さないことにつながると思います。

これらの碑群は、若くして死を強いられた人々への追悼と再びそれを繰りかえしてはならないという思いを与えます。

 

11 西伊場 見海院・航空兵の被爆碑

見海院はJR浜松工場前にあります。藤田久作は歩兵第三四連隊に動員され、一九〇四年八月に遼陽で戦死しました。大石種一は一九三七年に歩兵第十八連隊へと動員されました。野戦補充兵として九月二六日に上海に上陸しましたが、一〇月一〇日、楊行鎮の野戦病院で戦病死しました。

寺の一角には、空襲にあって被爆したと見られる墓碑が集められています。そこに飛行兵を追悼する碑文があります。名前は碑が破損しているために残っていません。一九三七年七月七日の戦争開始にともない、島田部隊附として「勇躍征途」し、天津・北京・南苑等各地に「大爆撃を敢行シ不滅ノ武勲ヲ樹テタル」が、一〇月十二日に南苑飛行場で「名誉の戦死」とあります。

碑文の島田部隊とは浜松から派兵された飛行第六大隊です。飛行第六〇戦隊史には、一九三七年一〇月十三日に浜松鴨江出身の常盤幸三郎(中尉)が公傷で死亡したとあります。 

この碑から、浜松から派兵された部隊が、中国各地を空爆していったことがわかります。碑は米軍の空爆を受けたとみられ、浜松への空爆をも示すものです。

 

12伊佐見 基地からの水害がでた伊左地川

 三方原での飛行場の拡張がすすむと、三方原からの出水がはげしくなり、三方原から庄内へとそそぐ伊左地川が氾濫しました。一九四一年には三方原の飛行場方面からの出水により、伊左地川の流域の谷上、伊左地が泥土で埋まる災害を起こしています。浸水家屋は一〇戸といいます(『いさみ』)。

 

13伊佐見 伊左地 熊野神社の忠魂碑

湖東の伊左地・佐浜・古人見・大人見での日清戦争からアジア太平洋戦争にかけての戦死者の数は伊左地八七人、佐浜五四人、古人見四四人、大人見三八人の計二二三人です。このうち日清戦争が三人、日露戦争が九人であり、多くがアジア太平洋戦争期のものです。

 南洋のムンダ島で、古人見出身の古橋太吉が二人の兵士とともに爆薬を抱いて戦車のキャタピラの下に突撃した行為が、新聞紙上で美談として報じられています(毎日新聞一九四三年一〇月三日・『いさみ』による)。

 『いさみ』には、一九三七年、伊佐見高等小二年〔一四歳〕の家庭に「少年航空兵としてすぐに浜松陸軍飛行学校に入学させてほしい」と担任が勧誘にきた話もあります。操縦士となりましたが、四二年に突然面会の通知が来、その後音信不通になったといいます。一九四六年になって、四四年八月一〇日にニューギニアで戦死したことを伝える公報が届いたといいます。  「志願」といっても、実際は国家による兵士の駆り集めであり、死亡の連絡は戦後のことだったのです。

 熊野神社には日露戦捷記念碑〔一九〇六年〕、忠魂碑〔一九三九年〕があります。記念碑には「征露軍人」の名前一九人があります。忠魂碑には戦死者の死亡日・場所・氏名が彫られていますが、それは日露戦争・満州での戦争・中国全面戦争などの一九三九年現在での死者六人分です。六人の後には、小さな字でアジア太平洋戦争での死者八一人分の階級と氏名だけが彫られています。そして、最後に「君」の一字が刻まれています。
 当初こんなに多くの死者が出るとは予想できなかったのでしょう。これまでに刻んだ大きさでは碑に死者を彫りきれなくなっていたのです。階級には大尉もいますが、ほとんどが下級の兵士です。また二三人が野島姓です。この碑は村落からの集団的な徴兵状況と多くの死亡者の存在を示すものです。

 

14 佐浜 信丘寺の航空兵の碑

 信丘寺に倉田新平という航空兵の墓があります。碑文によれば、新平は一九一三年に生まれました。三三年十二月に満州の飛行部隊に入隊し、三八〜三九年と中国各地を転戦しました。三九年には重慶・蘭州への爆撃に参加し「抜群ノ功績」をあげました。

二月二三日の蘭州への侵攻のときに、井関少佐以下十八名とともに、一四時四二分「壮烈ナル自爆」をしたとされています。陸軍中将江橋によるこの碑文は「遺勲燦トシテ輝キ実二軍人ノ亀鑑タリ」としています。「満州事変」の功で「勲八等瑞宝章」、「支那事変」の功で「功五級金鵄勲章・勲七等青色桐葉章」とされ、戦死した日に准尉とされています。

 記述から倉田は飛行第十二戦隊の一員であったことがわかります。二月二三日の蘭州爆撃の際には十二戦隊の伊式重爆撃機3機が撃墜されています。

浜松から中国へと派兵された陸軍部隊による重慶・蘭州への空爆では多くの中国市民が生命を失っています。空爆は無差別爆撃でしたが、碑にはその罪悪感はありません。どんなに階級を上げ、勲章を与えても失った生命は戻りません。墓碑の行間には無差別空爆という戦争犯罪の歴史が示されていると想います。 
 倉田一太郎の墓碑を見ると、一九三一年に歩兵第十八連隊に入り、三二年に除隊します。三九年八月には臨時召集され、豊橋で編成された第二二九連隊第七中隊に編入されました。一〇月に広東の黄埔に上陸し、十一月新開県での戦闘で左腹盲管銃創を受け、「勇戦奮闘」して戦死したといいます。三〇歳でした。

墓碑を読んでいくと、人間をこんなふうに戦場に送り込んでいった者たちの責任は重い、歴史はこのような死と服従を道理としたありようを変革する道を歩んできたのでは、と思います。そのような自覚をこれらの碑は求めているように思います。

 

15 弁天島 高射砲部隊

 浜名湖の鉄橋の防衛のために高射砲部隊が置かれました。配置されたのは野戦高射砲九七大隊第一中隊・独立高射機関砲第十二大隊第一中隊第五中隊でした。そのなかには李仁浩さんら朝鮮人兵士もいました。李さんは二〇〇四年四月、朝鮮人軍人軍属への賠償を求める裁判の原告として来日し、当時の状況を法廷で証言しています。

 一九四五年五月十八日には弁天島第三鉄橋が空襲され、機銃掃射によって機関士が即死しています。貨車には多数の貫通弾痕がありました(鈴木良一「鉄道員日記」)