九
市野・天王・笠井・恒武
1 与進中学 忠魂碑群
与進中学校のグランド東に四つの碑が集められています。その中心にある「戦捷記念碑」には戊辰・台湾・西南・日清・日露・日独の戦争へと参加・動員された人々の名前が記されています。戊辰戦争へは遠州報国隊として九人が参加し、そのうち鷹森姓が五人です。鷹森茂の場合、戊辰・台湾・西南・日清の戦争に参加しています。戦争への動員がすすむと、その数は増え、日清戦争時には一〇人、日露戦争時には五一人が地域から動員されたことがわかります。
戦死者も増加しました。戦捷記念碑の左側には一九〇九年に建てられた忠魂碑があります。そこに天王地区の西南戦争から日露戦争までの六人の戦死者が記されています。この碑文から、陸軍歩兵とされた小池寅次郎は一八七七年六月、西南戦争の際、鹿児島で戦傷し、長崎陸軍病院で死亡しています。軍属とされた竹山艶太郎は一八九五年四月、澎湖島・馬公城で病死しています。日露戦争へと歩兵として動員された神谷庄太郎は一九〇四年一〇月に本溪湖付近で、伊藤雅一は同年一〇月に沙河で戦死、袴田與十郎は一九〇五年一〇月前四方台の患者寮で、榎土脇三郎は輜重兵とされ同年一〇月に遼陽の兵站病院で死亡しています。
この「戦捷記念碑」の右にも一九〇六年に建てられた忠魂碑があり、日露戦争での市野・上石田の死者六人が記されています。このうち一九〇四年の首山堡の戦闘では三人が死亡しています。地域出身の兵士たちがばたばたと倒れていった情景が浮かびます。
一九六一年に建てられた忠魂碑はアジア太平洋戦争での死亡者を示すものですが、ここには死者の名前がありません。この碑の題字は靖国神社の宮司によるものです。戦争の反省についてもなにも記されていません。
「戦捷記念碑」は戦後、天王の大歳神社の東南端からこの中学の校庭の一角へと移転されたといいます。戦後にこのような戦争を肯定する靖国思想の戦争碑群が学校の敷地内におかれました。この碑群を見ていると、戦後の民主化の基本となる政教分離や学校教育へと靖国を宣伝しないといった思考を受け入れようとしない頑迷な雰囲気があったことを感じます。
この碑群を見た二〇〇四年二月、天王の大歳神社の境内には「紀元節祭」の文字がありました。廃仏毀釈がおこなわれたというこの地域で、主流となった神道は国家神道と一体となって民衆を戦争へと動員するテコとなったといえます。そのような天皇制賛美と戦争動員の歴史は問い直されるべきでしょう。
2与進小 二宮尊徳像
与進小の二宮尊徳像はもともと銅像でしたが、戦時下の金属供出によって像はなくなりました。現在の石像は戦後の一九五四年のものです。「二宮尊徳先生幼年出像」のプレートは当時のままの銅製です。裏側をみると、一九三七年二月十一日に寄贈されたことがわかり、寄付者名と銅像制作店名があります。
この像は戦時下の報徳思想による戦時動員と金属供出を物語るものです。戦後も克服されることがなかった戦争を支えた精神構造や、問われることのなかった戦争責任をも示しているように思われます。
3 天王西 共同墓地の碑
天王西には戊辰戦争時の遠州報国隊員鷹森専二を顕彰する一九一〇年の碑があります。この碑には「赤心報国」「忠誠奉国」といった文字が記されています。建設時期からみて、世界戦争にむかうなかで、この報国隊の行動が精神動員のために利用されていったといえるでしょう。
共同墓地の正面には一九六一年十一月に建てられたアジア太平洋戦争期の死者の「慰霊碑」があります。そこには一九四二年から一九四五年にかけての一四人の死者名があります(うち、石津姓が五人、竹山姓が三人)。どこで死亡したのかは記されていません。墓地には一九〇一年三月死亡の陸軍二等監督鷹森茂の墓がありますが、碑銘はありません。
日本郵船社員竹山□弍の碑(一九〇三年)には「清国事変」の際に咸海丸で軍に服務したが、一九〇一年三月に罹病して死亡とあります。この事変での服務とは、義和団戦争への参戦でしょう。兵士のみならず、軍事輸送のために民間船舶が動員されていったことがわかります。当時、日本郵船は戦時軍事輸送を担い利益をあげていました。
4 天王中 共同墓地の碑
天王中の道路沿いに「陸軍曹長袴田與十郎之碑」があります。碑によれば、袴田は一八八〇年生まれ、豊橋の第三師団歩兵第十八連隊第四中隊に配属され、一九〇四年に派兵され、得利寺、大石橋、遼陽などを転戦しますが、翌年一〇月に病死しました。二六歳でした。碑は翌年兄によって建てられています。
天王中の墓地には「戦没者慰霊碑」があります。慰霊碑にはこの袴田以外に一九四二年から四五年までの七人の死者の名前と戦没地が記されています。チチハル、ニューギニア、レイテ、マニラ、ミンダナオ、南洋、沖縄と激戦地での死亡者が多くみられます。三〇代は一人、あとはみな二〇代の青年であり、ほとんどが二〇代前半です。戦争は青年の可能性を奪っていったのです。
5 下石田 養源寺の碑
養源寺には「大東亜戦争戦死病没者英霊塔」があり、碑の裏側に下石田地区の十一人の死者名と死亡地が記されています。この碑は一九九三年のものですが、「大東亜戦争」とされています。二〇代が八人を占め、死亡地は東部ニューギニア、マーシャル・ブラウン、中国・湖南、ガダルカナル、マリアナ、フィリピン、レイテ、中部太平洋です。南方の島々での死亡が多いことがわかります。ガナルカナルで戦死した匂坂松夫の場合、一九歳です。
どんなに戦争を美化し、「英霊」として賛美しても、戦争死者の歴史は「国家によって連れ去られて、死ぬことを強いられた。もっと生きたかった」という思いに満ちていると思います。
戦争は、支配的階級がかれらの利益のために民衆を愛国心で煽動し、青年を戦場に送り込んでいくものです。二〇代の青年の多くの死は、再びそのような過ちを起こしてはならないというメッセージを、私たちに語りかけていると思います。
6
正光寺の墓地には一九五四年に作られた戦没者の碑群があります。この碑群から一五人の戦没者の名前・死亡地・年齢がわかります。小栗姓が九人と多く、藤田姓も三人あります。
死亡地をみると、トラック島・台湾東方海上・マリアナ・ビルマ・フィリピン・ニューブリテン・ニューアイルランド・中国湖南省などです。南方での一九四三年後半から一九四五年にかけての死がほとんどです。遺骨がなかったものも多かったでしょう。
小栗正次・広治・勝雄の三人はひとつの墓石に刻まれています。碑には父・藤太郎による建立と記されています。三人の子は一九四四年九月、四五年三月、同年五月と次々に死亡しています。一年の間に三人の子を失った親の悲しみは深いものがあります。
これらの碑群は、子どもたちが国家の戦争によって次々と奪われていった現実を示しています。なおこの寺へと学童疎開もおこなわれていました。
源長寺には寺の左方に、平和地蔵があります(一九七二年建立)。地蔵の足元には二人の子があり、片手に子を一人抱いています。
この寺の墓地には一九四九年の「静霊碑」があり、三三人の名が刻まれています。松島姓が八人と多くみられます。
この碑の横に松野次郎の碑があります。かれは陸軍輜重兵とされ、一九三七年に新野部隊に編入され、山西省西部の掃討戦や晋南戦に投入されました。三九年三月に山西省忻県の野戦病院で死亡しています。この碑は一九四〇年に建てられています。碑の左には「東亜」と記し鳥を乗せた砲弾状の碑もあります。この碑はアジア太平洋戦争へと戦争を拡大していく時代を示すものでもあります。
松島豹三は「満州事変」にともない歩兵とされ、一九三四年に四月清津へと上陸しました。五月には樺川県、その後、信子沙崗双鴨山付近での戦闘に投入されました。十一月には歩兵第一八連隊に編入され、三五年九月に戦病死しています。この碑も一九四〇年に建てられています。
子を抱く平和地蔵の微笑みは、子を奪っていった戦争の時代を繰り返さないことを呼びかけるものであるように思います。
7 笠井 法永寺
法永寺の入り口左方には、西南戦争・日清戦争・日露戦争・第一次世界戦争についての九基の戦争碑があります。一九〇〇年の「三勇士」の碑から豊西村から西南戦争に送られた岡本長五郎・鈴木石龍が死亡し、日清戦争では台湾で鈴木藤吉が死亡したことがわかります。一九〇六年の「彰勲績」には「国威赫耀亜洲」などと記されて戦争が賛美されています。
ほかに一〇二〇年代までの戦没者の追悼碑や戦争記念碑・忠魂碑などがあります。これらは、「表忠」の名にあるように、戦争を肯定・賛美し、戦争へと動員するためのものでした。
この寺には大石伊惣治の墓があります。かれは美園村出身、竹橋事件の参加者です。事件当時、近衛歩兵第二連隊第二大隊第一中隊に属していました。
8 大島 天応寺
天応寺の戦争碑からも地域からの戦争動員状況と死者の状況がわかります。
大石半十郎の碑は、日露戦争に動員された兵士の戦闘への動員状況を示しています。かれは一九〇二年に徴兵され歩兵第一八連隊に送られました。一九〇四年三月に豊橋を出発し、四月に宇品を出港、五月に張家屯に上陸しました。 すぐに金州南山の戦闘、六月には龍王廟、七月には蓋平付近・大石橋、七月末からは海城、八月末には八卦溝などの戦闘に投入されました。 八月三一日の首山堡の戦闘で負傷、九月一日に死亡しました。二三歳でした。この碑は一九〇五年九月の死後一年後の碑です。近くに堀之内桂助の碑がありますが、かれも首山堡の戦闘で八月三一日に死亡しています。
岩田禮司の碑を見ると、渡瀬清一郎の次男として生まれ、伯父の家を継ぐために岩田姓となりました。一九四〇年に名古屋の歩兵第六連隊に召集され、大阪から漢口に上陸、一九四一年一月の隋県西南地区の掃蕩戦に投入され二月に戦死しました。碑には岩田氏に後継者がなく父母が分骨して祖先の域に安置したとあります。 この碑からも戦争がつぎつぎに青年の生命を奪っていったことがわかります。
一九五五年に建てられた戦没者の碑群には八人の名があります。うち六人が二〇代です。渡瀬四郎(二三歳)は一九四四年五月にインパールで死亡しました。かれをはじめ、サイパン、マリアナ、マニラ、ルソンなどほとんどが南方に投入されて死亡しています。さらに田中松蔵のように、シベリアに連行され一九四七年一月にミヨノフヤで死亡したものもあります。
これらの死亡の状況をみると、彼らは天皇主権のもとで政府によって兵士とされ、酷使されて使い捨てられていったといえます。墓碑群の一人一人の名前と死亡地などをみていくと、死者たちがこのようなことを繰り返してはならないと語り続けているように思われます。
9 笠井新田 法光院
法光院の入り口には数個の句碑があり、その中に、「悠久の平和を希い春の旅」というものがあります。この碑は戦後四〇年にあたる一九七五年に建てられています。
墓地には主に一九五四年に作られた戦争死者の碑群があり、三〇人の名前が記されています。高井姓が六人と多く、門奈・内山姓も四人ずつあります。死亡地を見るとセレベス、ビルマ、ボルネオ、ルソン、ハルマへナ、ネグロス、西太平洋、エラップ、レイテ、サイパン、ブラウン、ガダルカナル、沖縄など南方が多く、満州やハバロフスクでの死亡者もあります。
一九七八年に建てられた今泉昇・正行・春雄の碑は一族から三人の死者が出たことを示しています。正行は四二年一〇月、二五歳のときに神奈川の海軍病院で、春雄は四四年一月、二三歳のときに中国香禹県中山大学で、昇は四五年七月、三二歳のときにボルネオ・パルピパパンで死亡しています。ここには子どもたちが次々に戦争によって奪われていく状況が示されています。
戦争は多くの青年の生命を美辞麗句で奪っていきました。多くの戦争死者をだした現実が生き延びた人たちに「悠久の平和」への強い想いを生んだといえるでしょう。
10 恒武 妙光寺・長福寺
妙光寺の墓地の入口には「有難や 仏の光り輝きて 人の心を開き行き 平和の里わ 花盛り 平和観音大菩薩」という碑があります。碑は一九九〇年に内藤勇(八二歳)が建てました。この碑は一九四〇年には三二歳であった戦争世代の老人が平和への思いを込めて作ったものです。
時宗の古い墓石が残る墓地には一九五六年に内藤頼司によって建てられた墓碑があります。そこには内藤鷹一が一九四四年十二月にルソンのマニラ第十二陸軍病院で、内藤一雄が一九四四年五月に中国の北京第二陸軍病院で、内藤大吉が一九四三年十二月に本州西南方の海上で死亡したことを示す碑文があります。
傷つき病に冒され闘病を強いられ、あるいは攻撃を受けて海中に沈んでいったとみられます。親にとって、これまで育ててきた子どもたちの戦死の知らせは断腸の思いであったでしょう。
近くの長福寺には一九九八年に建てられた戦没者慰霊碑があります。無縁墓地にはこの碑の基となった戦争碑群が置かれています。碑には一五人の名前・年齢・死亡年月日・死亡地があります。小栗姓が四人あります。小栗正雄・隆三は四一年一〇月に中国中部で死亡、小栗慶武・一男はそれぞれ四五年五月・同年六月にルソンで死亡しています。同じような形で戦争に投入されていたのでしょう。
碑をみると、ガダルカナル、ラバウル、マリアナ、セレベス、ニューギニアなど各地へと送られ、そこで死を強いられたり、南方で戦後に死亡したり、ソ連へと連行されハバロフスクやチタンで死亡していることがわかります。たとえば山下鉄夫は一九四七年八月にハバロフスクで死亡しています。二五歳でした。高橋勘左衛門は一九四六年二月にラバウルで死亡しています。二七歳でした。
死亡状況をみていくと、命令によって派兵された兵士たちがその戦争の責任をもとらされているように思われます。この戦争をつくりあげ、利益をあげていった者たちの多くが免責される中で、多くの兵士が戦後も強制労働のなかに追いやられ、あるいは南洋で帰ることもできずに負傷し苦しみながら死んでいきました。
このような悲惨な歴史を人々は経験しました。戦争の後、多くの人々が平和を求めました。妙 光寺墓地の入口の碑にあるような、仏教の不殺生の精神が光り輝く平和な時代が訪れていってほしいという願いは、このような経験の中から生まれたのです。それは同世代の戦争死者への追悼の言葉でもあるといえるでしょう。
11 積志中 慰霊塔
積志中学校には巨大な慰霊塔があります。塔の横に銘板があり、そこには近代の戦争での「殉国の軍人軍属並びに動員学徒の英霊に感謝」するとし、「積志村挙村一致の力を結集」して塔を建設し、「其の偉功と芳魂を永く後世に伝えん」とあります。これは一九五六年の文章です。
この文を読むと、戦争を支えた殉国・英霊・挙村一致といった概念が根強く生き残っていたことがわかります。
積志村での日中戦争以後の戦争死者は三三七人に及びます。派兵されたのは一二〇〇人といいます。日清一人、日露戦争では十八人の死者でしたから、その死者の増加は大きな悲しみをもたらしました。
12 都田の戦争死者
都田の戦争死者数についてみると、日中戦争以降、一七六人が死亡しています。その内訳をみると、中国四八人、フィリピン三三人、ビルマ十二人、ニューギニア九人、ソロモン・ガダルカナル七人、サイパン・グアム六人、マリアナ五人、ムンダ二人、アリューシャン二人、ブラウン二人ほかとなります。アジア各地へと派兵され、死を強いられたことがわかります。
都田の龍洞院・東川寺・久昌寺跡・中津公会堂・見徳霊園などに関連の碑があります。
13 花川 長栄寺
花川の長栄寺には「忠魂之碑」があります。これは一九五二年に建てられたものです。
吉野小学校『桜花百年』には同小出身の八四人の死亡者名が掲載されています。一九三七年から一九四一年までは十人ですが、一九四二年・四三年で十一人、一九四四年以降が六二人となっています。
一九四五年だけで三四人が死亡しています。レイテ・ルソン。多くが沖縄・ボルネオ・ウエーキ・ミンダナオなど南方での死者です。本当に多くの人々の生命をこの戦争が奪っていったことがわかります。愛知航空機や豊川海軍工廠での死者もあります。総力戦体制による地域からの徴兵・徴用の状況を知ることができます。
『桜花百年』の「思い出の記」には、死者が白木の箱に入って帰還すると『生徒や村人が集まり『海行かば』を歌って御霊に捧げ、校庭は葬儀場となり慟哭がひろがった』とあります。
天皇のために死ぬことは名誉とされていましたが、家族の生命を愛し生命を宝と思う人々の心まで変えることはできなかったのです。「忠魂」の文字の奥に民衆の慟哭を読んでいくことができます。また戦後も「忠魂」の思考が克服されていなかったことも指摘できます。
14 泉 法光寺
泉の法光寺には一九四七年の慰霊塔があり、戦死者名が刻まれています。一九四四年以後、死者が増えたことがわかります。横には終戦五〇年の慰霊碑もあります。
寺には中国戦線での死者の碑が四基あります。碑文を読むと、米島愛治は湖北省で左胸部貫通銃創、米島三四郎は上海戦重傷・二年後に死亡、和田虎治は右胸部貫通銃創、和田卯之助は山東省で頭部砲創のために戦死しています。青年が戦場へと送り込まれ、死を強いられたことがわかります。
15 幸 大聖寺の被爆墓
幸にある大聖寺は一九九四年に板屋町から移転したものです。寺の開創は豊臣秀吉の時代の一五八六年と古く、一八八〇年に大聖寺となっています。板屋町は空爆で大きな被害を受けました。この大聖寺も焼失し、一九五四年に永久平和を願って再建されました。寺の入口にある
「天井天下当処永平」の碑には「浜松も一瞬にして灰燼」と記されています。寺の灯籠は六月十八日の空襲の際に転倒して笠の部分が破損したといいます。
寺の墓碑群の奥には「大東亜戦争殉難者供養之塔」(一九五七年)があります。ここには信徒三九人の氏名があります。墓域を歩くと一八八六年の古い地蔵墓碑などもあります。これらの古い墓碑は戦災をくぐり抜けて今に至るものです。